モーニングの謎 老舗喫茶のマスターに聞いた! マチコエ
- 2023年04月21日
東海地方の生活に深く関わる喫茶店のモーニング。
「なぜ、モーニングは東海地方で発展したの?」
「一宮市で喫茶店が多いのはなぜ?」
NHK名古屋がお伝えする「マチコエ」のコーナーに寄せられた疑問に答えるため、老舗の喫茶店を巡って答えを探してきました。
"名古屋最高齢!?"マスターをたずねて
最初に訪ねたのは創業60年を迎える名古屋市昭和区の老舗喫茶店。
取材したのは朝の8時半。
店内にはモーニングを楽しむお客さんがいました。
早速、モーニングを利用している理由をたずねてみると・・・
「家で1人で食べるよりみんなとしゃべりながら食べたほうがいい」
「落ち着く。一日のルーティーン」
モーニングが生活の一部になっていることが伺えます。
この喫茶店を訪ねたのには理由があります。
喫茶店のモーニング文化に詳しい人を探す時に考えたのが、「最高齢のマスターに話を聞きたい」ということ。
愛知県の喫茶店でつくる組合に問い合わせたところ、「おそらく最高齢!」ということで紹介されたのが、この喫茶店のマスターでした。
下山純一さん。
取材した令和5年4月現在は91歳。
「いらっしゃいませ!!!」
「いらっしゃいませ!!!」
客が入るたびに声を張り上げる姿には圧倒されます。
下山さんは30代の頃に喫茶店を開業。
業界団体の組合の役員を長年務めるなど、東海地方の喫茶店文化を長年見つめてきました。
店を開いた当時、客の目当てはこだわりのコーヒー。
下山さんがハンドドリップでいれるコーヒーはまろやかに感じます。
昭和39年に開店したころは、喫茶店の数は現在よりも少なく、モーニングサービスは行っていませんでした。
下山純一さん
「始めた時はピーナッツだけ。始めたらこんなに忙しくてもいいのかと思うくらいお客さんが入った。昭和40年代、50年代はコーヒーの黄金時代」
その黄金時代に広がったのがモーニングサービスでした。
昭和40年に書かれた新聞記事には・・・
「激しいサービス競争」
「出血のモーニングサービス」 の見出し。
喫茶店が急増してそれぞれの店が趣向を凝らすなか、モーニングが競争の舞台になっていったといいます。
新聞にはあまりの激しさに業界団体が自粛を呼びかける事態に発展したと記されていました。
下山さんに新聞記事を見せて当時のことをたずねると。
下山純一さん
「はっきり言って過当競争。ピーナッツだけならトーストつけようか、卵をつけようか、今度はサラダをつけようかということになった。いまは、名古屋市内のモーニングは飽和状態になっておさまっている」
“モーニング発祥の地”一宮市 喫茶店多いのはなぜ?
激しい競争の末に多様なかたちで広がったモーニング。
今もその文化が盛んなのが一宮市です。
市内には「モーニング」の文字が至るところに掲げられています。
喫茶店の組合で支部長を務める鷲津尚宏さんを訪ねました。
なぜ喫茶店が多いのか大きな理由は地場産業の繊維業にあるといいます。
鷲津尚宏さん
「むかし繊維が盛んなころに零細企業、繊維の会社が多かった。昔の営業の人たちはあさ打ち合わせを喫茶店で行っていた。それからさあ行こうと、商談代わり、情報交換、井戸端会議的な憩いの場所として、喫茶店が機能していた」
一宮市でのモーニングの発祥は昭和30年ごろ。
朝のサービスでコーヒーにゆで卵とピーナッツがつけられたことが始まりだったそうです。
喫茶店がはやる一方、繊維業は徐々に衰退。
すると繊維業から喫茶店業に切り替える人が増え、
その結果、さらに喫茶店が増えたのだといいます。
鷲津さん自身も親の繊維工場を継がずに喫茶店をオープンさせ、そのころからモーニングをメニューに取り入れていました。
鷲津尚宏さん
「昭和50年くらいに繊維をやってみえて衰退したころ、なおかつ喫茶店は繁盛した」
鷲津さんが、開店当時のこだわりを教えてくれました。
それは・・・
店の裏側に駐車場を設けたこと。
その理由は?
鷲津尚宏さん
「会社員が公に休憩が知られたくないこともある。だから、ちょっと奥まったところの喫茶店が繁盛した」
常連客が支えるモーニング文化
鷲津さんが開店当時に憧れた“少し奥まった場所”にある一宮市の老舗喫茶店を訪ねました。
店内には1970年代に製造されたジュークボックスも。
平成生まれの私でもわかる、"懐メロ"がずらりと並んでいました。
この喫茶店も50年近く前、繊維工場を建て替えて開店。
当時、周辺には繊維工場が立ち並び、この喫茶店を休憩場所がわりに従業員が利用していたそうです。
一宮市老舗喫茶店 小川るみ子さん
「繊維工場の織機は音が大きいので、休憩くらいは静かな場所で過ごしたい従業員の方々が訪れていました。家族で経営してみえる方が多くて、まさに家族総出で朝と夕方に休憩に来られてにぎわっていましたよ」
当時のにぎわいは今はありませんが、地元の常連客が今も残るモーニング文化を支えていました。
私もモーニングをいただきながら常連客に話を聞きました。
「どうしてモーニングを使うのですか?」
「どうしてと言われると食事にくるわけではない」
「食事じゃないんですか!?」
「そうそう。昔からついつい来てしまう」
「これも習慣でここに来ないとさみしい」
「みんなに顔合わせに来るようなもんだね」
一宮市老舗喫茶店 小川るみ子さん
「一宮はモーニングで皆さん頑張っているのでうちはシンプルで細く長く続けていきたいと思っています」
モーニング文化の発展
下町型→郊外型→名物型
モーニング文化を研究して25年という関西学院大学の島村恭則教授です。
東海地方をはじめ、喫茶店を訪ね歩いて研究した結果、モーニングの発展は時代とともに3つの段階に分けられるといいます。
関西学院大学 島村恭則教授
「高度経済成長期にいろんな中京圏だとか繊維産業とか町工場で家族忙しいので朝食をとる。そうすると町の人たちが集まってきて朝のコミュニケーションの場になっていった下町型。
高度経済成長期以降ですけれどもニュータウンができる。家族で車に乗って少し離れた喫茶店にいく。土日型の郊外型。
名物だということで、よそから来た人がモーニングを楽しみにいく、自分たちの売りに出来る観光にもなるしということでアピールする。今はこの名物型が広がっている。」
島村教授によりますと、モーニングの始まりについては
一宮市のほかにも、豊橋市や愛媛県松山市、広島市でも発祥と名乗る店があるということです。
ということで、今回の調査結果はこちら!
「昭和30年頃、喫茶店ブームのなか生まれたモーニングサービスが広がり、そのまま根づいたから」
「一宮は繊維業の繁栄で増え、喫茶店を開く人も多かったから」
みなさんの“マチコエ”お待ちしています!
このコーナー「マチコエ」では、みなさんの疑問を投稿フォームで募集しています。
「これってどうして?」「調べてほしい!」という疑問がありましたら、ぜひ声をお寄せください。
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