名古屋放送局の経済取材チームが手がけるテーマは「ものづくり」に関わるものが多い。東海地方の主要産業であるトヨタをはじめとする自動車産業。そして、日々の工場の稼働を支えているエネルギー業界も重要な取材先だ。名古屋市に本社を置く「東邦ガス」をめぐるホットな話題は、目下、ロシアのウクライナ侵攻などで揺れる「LNG=液化天然ガス」の供給をめぐる情勢。だが、東邦ガスのLNGについてはもうひとつ注目しているテーマがある。LNGを使ったサーモンの養殖だ。「ガス会社が養殖?」「サーモンって、刺身とか、ムニエルの?」最初は半信半疑だったが、詳しく調べてみると、サーモンとLNGの関わり、そして世界の食の動向も見えてきて・・・・。
(NHK名古屋 経済キャップ 野口佑輔)

東邦ガスの「知多緑浜工場」は愛知県知多市の海沿いに立地している。なぜ海沿いかと言えば、都市ガスの原料となるLNG=液化天然ガスを海外から船で運んできて、ここで陸揚げするからだ。このLNG受け入れ基地で、2021年12月、エネルギー企業らしからぬ光景が公開された。敷地内に設置された直径10メートルの巨大な円柱型の水槽の中に、たくさんの魚が元気よく泳いでいる。この魚は「ニジマス」、別名「トラウトサーモン」。オレンジがかった赤い身が特徴の、すしネタなどでおなじみの魚だ。聞けば、トラウトサーモンの養殖を始めたのだという。担当者は、このLNG受け入れ基地がサーモンの養殖に最適な環境なのだと語った。


その説明はこうだ。LNGは海外から船で輸入されてくる際、体積を小さくして効率よく輸送できるよう液体の状態になっている。まさに液化天然ガスだ。温度はー162℃。このLNGが流れる大型チューブに海水をかけて暖めることで気化し、都市ガスの原料となる。一方、このとき使われた海水はLNGの冷たさによって、逆に2度から4度ほど冷却される。発生した「冷たい海水」をこれまでは海にそのまま捨てていたが、社内会議でトラウトサーモンの養殖に使えるのではないかというアイデアが出たのだという。トラウトサーモンは海で養殖するニジマスのことだが、冷たい水温を好むため海水温が高くなる夏場などには飼育が難しい。冷たい海水を有効利用すれば、サーモンを年間を通して養殖できるため、大手食品メーカーの協力のもと養殖に乗り出したというわけだ。

だが、最初にこの話を聞いた時の印象は「大きな需要が見込める話ではないだろう」というものだった。もちろん、エネルギーの有効活用は意義ある話だが、「大手ガス会社がユニークな事業に乗り出した」という以上のニュースにはならないのではないかと考えていた。だがその後、東邦ガスの担当者を継続的に取材すると「食の持続性に貢献したい」と養殖の狙いを語った。さらに、将来的には主要事業の1つに育て上げることも視野に入っていると言う。背景にはトラウトサーモンを含む「サケ・マス類」の需要が、世界的に高まっていることがあった。水産庁によると、世界の「サケ・マス類」の養殖生産量は近年急激に伸び続け、2020年には403万トンあまりと、水産白書に掲載されている1960年以降で最も多くなった。国別の輸入量を見ても、中国など人口が多く需要が旺盛な国のほか、欧米各国でも増加傾向となっている。

なぜサーモンの人気が高まっているのか。水産物の流通や需給などに詳しい鹿児島大学水産学部の佐野雅昭教授によると、世界的人気の背景にあるのは「日本食ブーム」、とりわけ「すし」などに代表される"生食人気"だという。

世界的なサーモンの需要の高まりを反映して価格も上昇している。主な産地のノルウェーやチリなどでは企業が大規模な養殖事業を行い、国際的な販路拡大を進めているため、私たちが回転ずしで食べるサーモンも、ほとんどがノルウェー産かチリ産だ。東京都中央卸売市場で取り引きされた、輸入の「サケ・マス類」の価格は、去年9月に1キロ=1579円だったが、ことし9月には1キロ=2178円。1年間で40%近くの上昇だ。佐野教授によると、需要の高まりに加えて、急速な円安の進行、飛行機などの燃料価格の高騰、ロシアのウクライナ侵攻によってシベリア上空の最短ルートが規制され遠回りを余儀なくされていることなども値上がりの要因ということだ。

一般的な食材として親しまれてきたサーモン。すしネタの中でもリーズナブルなメニューだと感じていたが、徐々に高級化し、手に入りにくくなるのだろうか。東邦ガスが畑違いの養殖事業に参入したのは、そんな情勢変化が起きつつあるタイミングを捉えたものだと言える。しかし課題もある。サーモン養殖の場合、冷たい水温を保ったり、水をろ過したりするため、多くの電気代がかかりコストがかさむ。電気代の高騰が続く中、果たして事業として成り立つのか。東邦ガスの担当者にそんな懸念をぶつけると、明確な回答が返ってきた。海水の温度はLNGの冷たさで元々下がっているので、冷やすための追加電力は不要。そして水のろ過についても不要。それは「かけ流し式」を採用しているから。次々に発生する冷たい海水を水槽に取り込み、そのまま海に流してしまう。この方法が可能なのはLNGの受け入れ基地ならではのメリットだという話だった。つまりビジネスとしても、十分に成立する可能性を秘めているのだ。東邦ガスがLNGを使って養殖したサーモンは、すでに初水揚げも行われ、スーパーなどに出荷された。ブランド名は「知多クールサーモン」。LNGの冷たさを利用した「かっこいい」養殖魚という意味を込めて名付けたそうだ。実際に食べた消費者からの反応も上々だったという。東邦ガスでは今後、養殖規模の拡大に向けて、実証実験を重ねていく予定だ。どちらかと言えば無機質な印象を受けるガス工場の中で元気よく泳ぐトラウトサーモン。世界的なサーモンの獲得競争が活発化する中で、いずれ日本の都市ガス工場では当たり前の光景となる日が来るかもしれない。

野口佑輔 記者(NHK名古屋放送局)
経済キャップ。
経済部を経て2020年から名古屋局。
佐野雅昭教授
「欧米などでは、健康志向の高まりもあり、ヘルシーな日本食の人気が高まっています。中でも人気なのがすしで、すしレストランのほか、すしをベースにした創作料理のテイクアウトなども増加しています。東南アジアなどの新興国でも、所得の高まりによって日本食が流行の最先端になり、富裕層は好んですしを食べます」
「ただし、生食が可能な魚は限られている。その点、サーモンは、養殖に大きな資本が投入され、主な産地のノルウェーやチリでは、生食を前提に加工や流通網が成長してきた。ほかの魚で、生食用のサプライチェーンがこれだけ強固な魚はありません」