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ふるさとに生きた「茨木のり子」を探して

東海 ドまんなか!

2022年5月13日

人生の指針 茨木のり子

デイレクターの私が茨木のり子の詩と出会ったのは小学生の時でした。
病気がちということはあったのですが、勉強も運動も友達づきあいも、周りのようにうまくできないことを、どこか境遇や周囲のせいにしていました。
そんな様子を見かねて、病室で相部屋だった年上の女性がすすめてくれたのが、茨木のり子さんの詩集でした。

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

「倚りかからず」(『倚りかからず』所収、1999年、筑摩書房 より一部引用)

どう生きるかは自分が決めるもの。まっすぐなメッセージは子どもの心にも届くもので、それ以来、人生のひとつの指針になっていきました。

浮かび上がってきた 「優しいのり子さん」の姿

詩人・茨木のり子のふるさとで取材をすすめる中で浮かび上がってきたのは、代表的な詩から受ける鋭い印象とは異なる、優しく、他者を思いやる「のり子さん」の姿でした。

対等に他者と接した人

のり子の実家に勤めた 西尾市在住の岡田幸子さん

西尾市吉良町で、15歳の時、のり子の実家に家事手伝いとして勤めた岡田幸子さん。
のり子は岡田さんにとって自分が仕えるお嬢さん、という存在でしたが、いつも分け隔てなく接してくれたといいます。
岡田さんにとって印象深いのは、のり子の夫・三浦安信氏が結婚の挨拶のため実家を訪れた時のこと。
岡田さんは事前に鍋の掃除を怠ってしまったそうで、のり子が手料理をふるまうべく具材を炒めたところ、焦げがこびりついてしまいました。
慌てて「新しい材料を買ってきます」と謝罪した岡田さんに、のり子は「全然大丈夫よ」と優しくとりなしたそうです。

茨木のり子と岡田さん(写真提供 岡田幸子さん・西尾市教育委員会)

のり子がふるさとに里帰りする度に親交を深めたふたり。
岡田さんにとってのり子は、よき姉のような存在であるとともに、同じ時代性を共有した女性でもありました。
岡田さんが深く共感する詩の1つが、南の島で亡くなった日本兵をしのんだ「木の実」。

高い梢に
青い大きな果実が ひとつ
現地の若者は するする登り
手を伸ばそうとして転り落ちた
木の実と見えたのは
苔むした一個の髑髏である

「木の実」(『自分の感受性くらい』所収、1977年、花神社 より一部引用)

娘が結婚する時に、新婚旅行でどこ行くの?って聞いたの。そしたらハワイに行くっていうのよね。ハワイ・・・って思わずつぶやいちゃった。大勢兵隊さんが死んでるところへ観光で遊びに行くなんてとても私の気持ちじゃ考えられんもんで。時代が違うんだよね。私言ったの。「たくさん兵隊さんが亡くなってるで、日本に帰りたかった人もいっぱいいたと思う。日本帰る時にね、みんな日本へ帰りたい人は私の肩へ止まって。一緒に帰ろうって連れてきて」って、そう言っちゃったよ。娘に。だって無念に亡くなった人がたくさんいるんだもの。

気遣いとユーモアに満ちた人

子ども向け詩集の編集者・水内喜久雄さん

名古屋市に住む編集者・水内喜久雄さん。
晩年ののり子と、子ども向け詩集の編集を通じて交流しました。

水内さんとのり子が初めて会ったとき

詩から鋭い印象を受けていたことから、のり子に初めて会ったとき、水内さんは緊張して臨んだといいます。
しかし、東京・吉祥寺の駅で待ち合わせした時ののり子の第一声は「この前のトヨエツの最終回、どうだった?」(注:当時のテレビドラマ「愛していると言ってくれ」のこと)。のり子の気遣いで、そこから二人の会話は大いにはずんだといいます。

たぶん気を遣ってくれて、そういう話、この人は得意だろうということで、話しかけてくれたんじゃないでしょうか。

他者への優しさを育てた父の存在

そんなのり子の人生の師となったのが、無医村の地・西尾市吉良町において地域医療に尽くした父・宮崎洪(みやざきひろし)です。

のり子の父・宮崎洪を知る平岩芳夫さん

医者がいなかった西尾市吉良町で、住人に請われて診療所を開業した洪。
当時、のり子の実家近くに住み、よく患者として通ったという平岩芳夫さんは、その優しい人柄を覚えています。

私は今でいうと高校1年生の時、16歳の時に父が亡くなっちゃったものですから、弟一人と妹二人がいて、もう本当に路頭に迷うような生活だったんです。宮崎先生はそれを知っていて非常に心配してくださって。私が成人するまで医療費は一切取っていただけなかったです。ちょっとヒゲ生やしているもんで一見怖そうだけど本当は優しい。院内で小学生が騒いでいると「聴診器の音が聞こえなくなるで、もうちょっと静かにしてね」って優しく言われる先生だったですね。

のり子は洪が亡くなった時、しのんでこんな詩を書いています。

農夫 下駄屋 おもちゃ屋 八百屋
漁師 うどんや 瓦屋 小使い
好きだった名もないひとびとに囲まれて
ひとすじの煙となった野辺のおくり/
吉良町のチエホフよ
さようなら

「花の名」(『鎮魂歌』所収、1965年、思潮社 より一部引用)

患者一人一人と向き合い思いやる姿勢は、確かに娘ののり子に受け継がれたと言えます。

次の世代へ 受け継がれる他者へのまなざし

生徒たちに伝える茨木のり子のメッセージ

愛知県立高校の教員、熊谷誠人さん。
長年のり子を研究し、地域の生徒たちに詩にこめられたメッセージを伝えています。
熊谷さん自身、詩の中のやわらかなのり子の一面に救われた一人です。

茨木のり子の研究をする熊谷誠人さん

熊谷さんが特に好きな詩は「汲む」だといいます。

大人になるというのは
すれっからしになることだと
思い込んでいた少女の頃

初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始るのね 墜ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました

大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子どもの悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと......

「汲む-Y・Yに-」(『鎮魂歌』所収、1965年、思潮社 より一部引用)

高校の頃からずっと振り返ってみて、上手に生きていけない自分みたいなもの、それは他の人がうまくやっているのを羨ましく思ったり、自分は何でうまくいかないんだろうっていう、そういった劣等感みたいなものをずっと持ってたところがあります。ですがこの茨木さんの詩を読んで、これでいいんだっていうふうに思えるようになった。もしもっと若い時にこの詩に触れて意識して読んでいたら、もっと生きやすくなっていただろうなと思っています。

熊谷さんは、生徒一人一人に自分の感受性を大切にして欲しいというメッセージを、これからも伝えていきたいと言います。

「対話」のこころ

9年前にのり子のふるさと・西尾市で発足した「詩人 茨木のり子の会」。
ここでも、のり子のメッセージを受け継いでいる人がいます。
役員の本郷康士さん。
国語科教員として茨木のり子の詩と出会いましたが、身近に感じるようになったのは30代を過ぎてからだと言います。

西尾市 「詩人 茨木のり子の会」 本郷康士さん

当時、仕事仲間と旅行で訪れた台湾で、現地の高砂族の村を尋ねた本郷さん。
売店の女性が流暢な日本語を話すのを見て「日本語がお上手ですね」と声をかけました。
すると相手の女性は「昔日本語教育を受けたからね」との返し。
「変なことを聞いてしまった」と後ろめたい気持ちになったと言います。
しかしその女性は本郷さんに家族ぐるみで親切に接してくれ、かけがえのない出会いとなりました。
偶然にも本郷さんのこの体験は、茨木のり子の韓国語との出会いと重なるものでした(注:茨木のり子は『ハングルへの旅』(1989年、朝日出版)の中で、韓国の詩人・ホン=ユンスク氏に対し本郷さんと同様の投げかけをした後悔を、韓国語学習の動機として記している)。
『ハングルへの旅』を読んでそのことに驚いた本郷さんは、以来のり子を身近に感じるようになりました。

本郷さんがのり子の詩で好きなのは「王様の耳」です。

女の言葉が鋭すぎても
直截すぎても
支離滅裂であろうとも
それをまともに受けとめられない男は
まったく駄目だ すべてにおいて

「王様の耳」(『人名詩集』1971年、山梨シルクセンター出版部 より一部引用)

相手が言ってることが支離滅裂だっていうふうな思いでイライラしている自分が今までいて。その相手っていうのは自分の奥さんなんですけど。何か言ってることが、話が読めないなぁと思うことがよくあったんですよ。具体的には例えば話において、誰が言った言葉なのか主語がわからない。あと、言ってることは事実を言っているのか、それともあなたの感想を言っているのか、どちらなのってそういうふうに言いたくなることがよくあって。支離滅裂だって切り捨ててたんですよ。

「詩人 茨木のり子の会」で話す本郷さん

この詩の最後のところで「それをまともに受け止められない男は全くダメだ」というふうに言われて、もう本当にぐうの音も出ないっていうかね。人と一緒に生活したり暮らしていくっていうときに自分が正しいと押しつけるだけじゃダメなんだな、まず相手のことを理解して受け入れる姿勢が大事なのかな。そういうことを思うと、人に対する目も変わりました。のり子さんの詩のキーワードに対話って言葉があるけれど、簡単なことじゃないんだなと。相手のことを異文化な部分も含めて受け入れるっていう、それがあって対話が成り立つだろうなぁっていうことも思いました。

母校に託された のり子の生きる姿勢

西尾高等学校図書室の茨木のり子コーナー

作品とその生き方をもって、他者への愛情とまなざしを示し続けたのり子。彼女の母校・愛知県立西尾高等学校には、のり子が遺した蔵書が寄贈されています。そのラインナップは、他の詩人の作品や、民俗学、韓国についてなど実にさまざま。他者の視点に触れ、豊かな自分自身を育てるというのり子の姿勢を、ここでも見ることができます。

ふるさととのつながりを大切にし続けた詩人

のり子の死後、関わりのあった人たちに送られたのが、生前に準備されていた「お別れの手紙」でした。
岡田さんや水内さんをはじめとして、ふるさと愛知県で交流した人々にも届けられました。

お別れの手紙(資料提供 岡田幸子さん・西尾市教育委員会)

このたび私  年 月 日   にて
この世におさらばすることになりました。
これは生前に書き置くものです。
私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。
この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔慰の品は
お花を含め、一切お送り下さいませんように。
返送の無礼を 重ねるだけと存じますので。

「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬
思い出して下されば それで十分でございます。
あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかな
おつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸に
しまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かに
して下さいましたことか・・・。

深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に
代えさせて頂きます。

ありがとうございました。

お別れの手紙ののり子の写真
取材を終えて

茨木のり子は鋭い言葉でもって「個」としての自分を確立することの大切さを伝え続けた詩人です。
しかし、取材を重ねていく中で、ふるさとの人々の中に残っていたのはまた別の姿だと気づきました。
それは他者への敬意と思いやりにあふれ、共に過ごした時間の長さによらず、関わった全ての人との出会いに感謝する「のり子さん」です。
この社会に生きる人々に愛情を持ち、共によりよい時代を作っていきたいと思うからこそ、時に鋭い言葉も発する。
その多面性こそが、茨木のり子という人の豊かさなのだと気づきました。

今では「汲むーY・Y―に」が私の最も好きな詩です。
自分の傷つきやすさも失敗も、誰しもの中にある大切な感受性だということを忘れず、日々を生きていきたいと思います。

筆者

辻 佐絵子 ディレクター(NHK名古屋放送局)
2018年入局
文化 福祉を中心に取材


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