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長崎・原爆 語れなかった被爆体験

~陣野トミ子さん96歳~
  • 2022年12月01日

長崎に原爆が投下されて77年。被爆者の中には、これまで被爆体験を語ってこなかった人もいます。長崎市の陣野トミ子さん(96歳)は、これまで “ある秘密” があって被爆体験を詳しく語ることはありませんでした。
今回、被爆者の証言を集めた冊子「証言 2021」(長崎の証言の会)に初めて被爆体験を掲載した陣野さんに話を聞きました。

NHK長崎放送局アナウンサー 金澤利夫

兵器工場で被爆した19歳の陣野さん

「原爆は二度と起こさんごと、二度とせんごと、書いとかんね。」

陣野トミ子さん

陣野トミ子さんは、17歳で、長崎市の三菱重工業長崎兵器製作所大橋工場に勤め始めました。2年後の昭和20年8月9日の朝、陣野さんは、前日に知りあいからもらった梨を数個風呂敷に詰めて職場に向かいました。

「朝、行ってきますと出ていった時、母がこれだけの梨を私だけで食べられない。いつ死ぬかわかんらんとに、みんなに食べさせませんかって言って、後の残りを全部持って行ったとです」

しかし、陣野さんは、職場では持って行った梨は食べられませんでした。

「その部屋に何十人もおるとですよ。自分たちだけで(梨は)食べられんでしょ。偉い方が座っているのに、そういうわけいかんです」

梨を食べるための“ある秘密”

そこで、陣野さんは大胆な行動に出ます。近くにいる人だけを誘って職場を抜け出し、人けのない場所で梨を食べることにしたのです。その場所は、技術部の地下室。書類の保管や食料の備蓄に使われていた部屋でした。

「そこに行けば内緒ごと出来るでしょ。誰もおらんから。『梨を持って行って食べようかって、みんなで行こうかって地下室にねっ』て言って、何人かずつ、全部一緒には行かれませんから交代で行こうねって行ったわけです。それで、『あっ、ナイフを忘れた。どうしようかね』、『僕が取りに行きます』って言って、ボンと」

地下室にいて助かった陣野さん

原爆がさく裂し、爆心地から1キロ程にあった大橋工場は壊滅的な被害を受けました。技術部の建物は鉄筋コンクリート造りだったため、陣野さんたちがいた地下室は無事でした。

「音がしましたよ。音がしたとたんに電気が消えたです。しばらくそこに隠れていた。様子を見たら静かになったので(外に)出ていったら、何にもないんですよ」

陣野さんは、着ていた服が焦げただけで、大きなケガはありませんでした。その後、職場に戻ると木造の建物は倒壊していました。

「『助けてくれんね』と窓から手を出しなさるけどどうすることもできん。『助けに来るので待っとかんね』と言うたら、『うん。待っとくけんとにかく助けてよ』と言われたけど助けてくださいと誰に言いようもないんですよ。」

“心に負い目”を背負って77年

今回、被爆した場所を案内していただいた際、陣野さんには、どうしても立ち寄りたい場所がありました。
三菱長崎兵器製作所の原爆供養塔です。原爆で2273人が亡くなりました。供養塔の横には、原爆で亡くなった人たちの名前が記された石碑がありました。
陣野さんは、あの日、梨を食べるために職場を抜け出したこと、大けがを負った同僚を助けられなかったこと、そして自分だけが生き残ったことが心の重荷になっていました。石碑の中に、陣野さんはある名前を見つけました。

原爆供養塔の石碑

「あっ、この人ですよ。この方。瓊浦中学の生徒さん」

「この方はどういう方ですか?」

「私の隣におった人。帯屋和之さん。自分が(梨を切る)ナイフを取りに行きますからと言って(外に)取りに行った人が、この人。」

「お亡くなりになったんですね」

「正門の前でね。正門の前で見つかりましたとのこと」

「もう、胸が詰まって、顔が前に出てきます」

「ごめんなさいとしか言えない。一緒におって隣の人が亡くなって自分が助かっておれば、やっぱりとがめますよ。自分だけ長生きさせてもらって。まだみんな今からの人たちばっかりやったですもん」

原爆の惨禍を奇跡的に生き延びながらも、心に負い目を抱き続けてきた陣野トミ子さん。
被爆から77年が経つ今も、原爆の影響は続いています。

  • 金澤利夫

    NHK長崎放送局アナウンサー

    金澤利夫

    東京都出身 18年ぶりの長崎勤務
    イブニング長崎・特集企画担当

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