野球音痴が挑んだドラフトNo.1取材記 WEB特集
2021年12月9日
長崎局 記者 池田麻由美
正直に言います。この夏からスポーツ取材担当となった私は、一般教養レベルの野球知識も怪しいところです。記者2年目の私がオロオロしながら挑んだのが、ことしのドラフト会議で4球団から1位指名を受けた「大学No.1左腕」隅田知一郎投手です。
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隅田投手への直接取材の5日前。私が向かったのは長崎市立図書館でした。ここは各種雑誌も充実しているからです。予感は的中、野球関係の雑誌もザクザクありました。手当たりしだいにことしのドラフト会議の特集、隅田投手との交渉権を勝ち取った「西武特集」を読んでみました。
「文章としては読めるけど、ちっとも頭に入ってこない。。。なぜ。。。」
玄人の野球ファン向けの雑誌に手を出すのは早かったようです。ではいったい、どんな投手なんだろう。
11月25日、隅田投手が所属する西日本工業大学のある北九州に向かいました。
変な質問してごめんなさい
強い風が吹く中、私は大学野球部グラウンドにお邪魔すると、隅田投手が現れました。
身長177センチ、体重76キロ。思っていたよりも大柄な方だと感じました。これからインタビューと練習模様の撮影を行います。撮影前に、少しでも打ち解けようと「雑談」をスタート。ところが、野球音痴の私は「なるほど」とか「そうなんですね」とあいづちを打つばかり。これでインタビューは大丈夫だろうか。。
いざインタビュー開始。私ならではのチグハグなやりとりがありました。
わたし :「将来、球速が速くなると、トレーニングをしながら感じていましたか?」
隅田投手:「えっ、トレーニングのときは分からないけど。。」
隅田投手は苦笑い。私は心の中で「ヤバイ、変な質問をしてしまったかな」と焦ります。すると隅田投手は「でも、キャッチボールの時に、球への力の伝わり方が変わったなとは思いました」と親切にフォローする調子で言葉を続けてくれたのです。
なんて優しいんだろう!
私が幾度となくピンボケした質問をしても、そのたびに隅田投手は、質問の意図を懸命にくみ取る姿勢で、応じてくれました。また、隅田投手の受け答えからは、言葉で飾ることやカメラの前で自分を大きく見せることはしない、実直な人柄を感じました。
体重55キロになるまで球は投げさせない
私がどうしても聞きたかったこと。それは隅田投手の努力です。
今や大柄な隅田投手は高校入学時の体重は47キロ。同級生よりも体がひとまわり小さかったのです。
中学3年の写真は、周囲よりだいぶ背が低いことが分かります。顔に面影はあるけどまるで別人のようです。高校の3年間、大学の4年間でどのように変貌を遂げたのでしょうか。母校・波佐見高校の得永健監督は隅田投手が入部したときのことを鮮明に覚えています。
波佐見高校・得永健監督
「隅田投手の小学生時代の恩師から『小さくてかわいらしいのが入ってくるので外野で球拾いでもさせてくれ』と言われていました。その言葉のとおり、小学生がひとり混じっているような様子でした。体重を55キロになるまで球は投げさせなかったですね」
この頃、隅田投手はどんなことを思っていたのでしょうか。
隅田知一郎投手
「最初から試合に使ってもらえるだろうとか、ベンチに入りたいなんて全く思っていませんでした。スタートラインにも立てていないと分かっていたので、体重を増やしてトレーニングするしかないと思いました。おにぎりを授業の間に食べて、昼には弁当を2つ食べるくらい、ご飯を吐くほど食べて、胃袋を大きくしようとするのに苦労しましたね」
こうして隅田投手は入部からわずか2か月で、監督の出した「宿題」を見事クリアしたのです。体重を8キロ増やし、投球練習ができるようになったのです。淡々と答える隅田投手に私は圧倒される思いでした。
気持ちは折れても、折れていない感じだった
インタビューで印象に残った「隅田語録」のひとつです。
私が絶対に聞きたいと思っていたもうひとつの質問は、高校2年の冬に左肘を疲労骨折したときのことです。隅田投手は西武からのドラフト1位指名を受けて、10月21日、母校・波佐見高校に「凱旋訪問」したとき、後輩生徒たちに「疲労骨折の経験が自分を変えるきっかけになった」と語っていたからです。
得永監督
「練習中に肘を押さえて叫びだして、急いで病院に連れて行ったのをよく覚えています。医者からは夏には間に合わないと言われてしまって、もう一冬でもっと成長すると期待していたのでかなりショックでした」
こんな逆境でも隅田投手はひたむきに前に進み続けていました。
毎日15キロから20キロ走り、体幹を鍛えるトレーニングを行いました。投げられるようになったら球を速くするためにも体重を増やそうと、走ることに執着していたと言います。
隅田投手
「ショックが大きかったけど、チームみんなで絶対成長しようと話していた冬だったので、夏に間に合わなくても、頑張って良かったなと思える終わり方ができるように取り組みました。気持ちは折れているけど、折れていないみたいな、そんな感じでした」
この答えに、私は月並みですが「これがプロのアスリートなんだ」と実感しました。同時にケガや不調に苦しんでいる時期にどれだけ頑張れるかに、アスリートそして人としての力量が試されるのだと感じました。隅田投手は当初、夏には間に合わないと言われていましたが、努力の結果、次の春には再びマウンドに立てるようになったのです。
得永監督
「ケガをしている間、やりすぎじゃないかと思うくらいよく走っていて、相当頑張る子だなと思っていました。彼が投げられるようになったときには、みんなでブルペンに入って喜びました。力のこもったボールを投げるたびに。そして、これで勝てると思いました」
故障中のトレーニングは実を結び、当時の隅田投手にとっては、自己最速となる球速143キロを出せるようになっていました。
隅田選手
「『知一郎いつ投げるん』って同級生からも言われていたので、みんなが待ってくれていることも感じていたし、夏絶対勝ちたいという気持ちでいたので、そこに間に合わせるようにトレーニングとキャッチボールで復帰を目指していました。自信にあふれているわけじゃないですけど、誰よりも頑張ったっていうか。頑張って成長できたという実感が持てました。先が見えない中で頑張れたことが強さになったと思います」
波佐見高校野球部のスローガン「感謝無敵」
「感謝の心を持って人に恩を返す思いで取り組むほうが力を発揮でき、その力にかなうものはない」という思いで、得永監督が部員たちに伝えていた、波佐見高校・野球部のスローガンです。得永監督は感謝の大切さを説いていました。隅田投手の成長を支えてきた座右の銘です。
得永監督
「高校時代、感謝の重要性をずっと言っていたんですけど、その思いを持って彼が努力してくれていたんだと思うと、感無量ですよね。そして、こんなに評価される選手に育ってくれて、逆にありがたい気持ちです。人間性の良い子だからここまで成長できたんだと思います。これから、息の長い選手になって、彼が頑張れば頑張るだけ、夢を与えてくれるような選手になってほしいと思っています」
隅田投手
「恩返ししたいと思って野球をやってきました。やはりいろんな人に感謝しなければいけないと思うし、周りの人に恵まれていたと思っています。感謝の気持ちを忘れずに精進していきたいと思っています。一教え子として自慢してもらえるような選手を目指して頑張りたい」
取材を終えて
隅田投手そして得永監督への取材を通じて、私は隅田投手の飛躍的な成長は、あらゆる出来事、人との出会いに真摯に向き合ってきた賜だと感じました。「努力」も「感謝」も当たり前の言葉ですが、隅田投手ほど実践できた人に、私はこれまで会ったことはないと思いました。そして隅田投手の言葉には、野球というスポーツを超えた重みがずっしりと詰まっていました。隅田投手からもらった普遍的なメッセージをこれからの取材の糧にしたいと思います。プロ野球へ羽ばたく隅田投手。これからの活躍を心より応援しています。
投稿者名:WEB特集投稿時間:20:00