立花隆と長崎 WEB特集
2021年11月25日
ことし4月に亡くなったジャーナリストの立花隆さんは、長崎市に生まれ、2歳まで長崎に住んでいました。そして晩年になって再び故郷に頻繁に足を運んでいました。
長崎の人々にどんな印象を残したのでしょうか。
立花隆さんが生前愛用したオーディオセットを譲り受けたのは長崎市職員の長瀬雅彦さんです。長瀬さんはユニークな初対面をきっかけに「知の巨人」と懇意になりました。
11年前、長瀬さんは長崎市役所で軍艦島の世界遺産登録に向けて情報発信にあたる部署にいました。
ある日、長瀬さんは長崎を訪れる立花さんを軍艦島に案内役を急きょ命じられます。
でも、あまりに急だったので、移動手段の公用車が確保できませんでした。
「やってやろう!」
長瀬さんが乗り込んだのは、自分の愛用車の「ワーゲンバス」でした。
レトロな愛車で、立花さんの滞在ホテルに迎えに行ったのです。
長瀬さんのワーゲンバスを見るなり、立花さんは「今日はこれで行くの!」と大喜び。
同時に立花さんからの質問攻めがスタートしました。
長崎市職員 長瀬雅彦さん
「どこで買ったとか、いつ頃の車なのか、どこまでオリジナルなのか、そんなことをどんどん尋ねてきた」
『軍艦島』に案内すると、質問攻めの第2ラウンドのゴングが鳴ります。
長崎市職員 長瀬雅彦さん
「(軍艦島の)あれはどうなの、これはどうなのという感じだった。
何にでも興味を示して。特に覚えているのは住宅の間取りとか家族構成とか
家庭の大きさとか、そういったところに興味を持っていた」
“長崎にも原爆資料館があるの?”
軍艦島への訪問は無事終了。すっかり打ち解けた雰囲気のなか長瀬さんは立花さんから
「他にどこか行くところないの?」と尋ねられました。
ならばと長瀬さんは長崎の”鉄板の案内先”原爆資料館を勧めてみました。
すると思ってもいない反応が帰ってきました。
長崎市職員 長瀬雅彦さん
「立花さんは”長崎にも原爆資料館あるの?”と言っていた。
まさか知らないはずはないと。。。」
ふとしたきっかけで立花さんは原爆資料館を訪問したのです。
立花さんは、真剣な面持ちで一つ一つの展示を眺めていました。
中でもじっくりと見つめていたのが1959年にイギリスで行われた核廃絶運動の
デモ行進の写真でした。
立花さんは「僕、ここにいたんだよね」と長瀬さんにつぶやきました。
1960年、同じイギリスでデモ行進が行われ、
学生だった立花さんは渡航資金を募ってデモに参加していたのです。
昔を懐かしむような立花さんの表情が印象的だったと言います。
長瀬さんは、このとき原爆資料館を訪問したことで、立花さんは晩年、
故郷長崎にたびたび足を運ぶようになり、核兵器廃絶に情熱を傾けるきっかけになったと感じています。
長崎市職員 長瀬雅彦さん
「ご自身の小さい頃、愛して育んでくださった家族と一緒に過ごした長崎を非常に懐かしんでくださった。原爆資料館を見て被爆の写真を見て、自分の小さいころの家族と重ね合わせたときに長崎に対する思い、そういうものに深く心が揺れていったのではないか」
もう1人、立花隆さんと50年来の交流を続けていた人物が長崎にいました。
出版社、長崎文献社の専務、堀憲昭さん(79)です。
堀さんは大学卒業後、東京の大手出版社、講談社に36年間、勤めました。
半世紀前、堀さんが駆け出しの編集者だったころ、週刊誌向きの記事の執筆を依頼する相手が当時はまだ無名だった立花隆さんでした。
田中角栄研究 きっかけは”偶然”
ジャーナリスト・立花隆の名を世にとどろかせた田中角栄研究。
取材のきっかけはなんだったのでしょうか。当時、堀さんは立花さんと講談社の社内で記事の編集作業をしていました。そのとき、立花さんは傍らのテーブル上で「あるもの」を見つけました。それは、ときの総理大臣の金脈問題を追いかけていた、講談社の取材チームが作成した資料でした。
堀憲昭さん
「角栄の関連企業、50社くらいの関連地図を相関図を新聞(サイズ)の方眼紙にものすごく細かく書いていた。
立花さんは『面白いね、コピーちょうだい』と
『あの方眼紙に書かれたデータが田中角栄に深入りする入り口になったんだよ』と私に言っていた。
そのときはそれほど田中角栄の中身まで知ってるわけじゃないから、いわゆる野次馬的にみていたんでしょう。
自分も書き手として何かネタとしてなるものはできるだけ手にもっておきたいというのがあったみたい。
それでもう彼は一躍スターになっちゃった。僕もびっくりした」
”若い人に何かを残して死にたい”
時はめぐり、堀さんは講談社を退職後、故郷長崎の出版社に移ります。
一方、立花さんは平成22年から5年間に7回、長崎を訪れています。
堀さんはそのたびに立花さんに会い、晩年の立花さんの”変化”を感じ取っていました。
立花さんは、原爆そして核兵器廃絶の問題に情熱を傾けるようになっていったのです。
堀憲昭さん
「(立花さんは)”長崎にも原爆資料館あるの?知らなかった”と言う。
そのぐらい彼は長崎についてはほとんど関心を持っていなかった。
彼はもうありとあらゆる方向にテーマが拡散していた。例えば、宇宙飛行士から
体験聞いたり、遺伝子の問題に入り込んだり、猿学とか。
やりたいテーマが無尽蔵にあったんで、核兵器問題に収れんできなかったんでしょうね。
自分でがんになって、余命もいくばくもないというのがわかった段階でこれだけは言っておきたいというので、
それに特化したメッセージになったんじゃないでしょうかね。
最後はやっぱり長崎で生まれたことを非常に強く意識しはじめて原爆と核廃絶という問題に収れんしていった。
彼の人生の中で。若い人たちに何か残して死にたいという意識が強くなった」
晩年、立花さんは長崎を訪れると、長崎大学の学生たちと核兵器廃絶や真の平和をテーマにした対話に精力を注いでいました。
あくなき好奇心で森羅万象を追いかけた立花隆さん。故郷長崎に再び足を運び、将来に向けて原爆の問題に挑んだ姿は長崎の人々に深い印象を残しています。
取材後記
恥ずかしながら私はことし6月の訃報報道で、立花隆さんが長崎出身であることを知りました。立花さんは晩年、がんと闘いながら、原爆取材に力を注ぎました。
きっかけは1人の長崎市職員がふと提案したひと言でした。
取材しながら、”もしも”長瀬さんが公用車が確保できていたら立花さんとそれほど
仲良くならなかったかも知れないとか、”もしも”原爆資料館に行かなかったら立花さんは
それほど長崎を訪れなかったのではないかと想像しました。
立花さんが晩年、どのように長崎の被爆者や学生と交流したのでしょうか。
取材を総合すると、聞き手に徹するときもあれば、好奇心旺盛な子どものように
何でも聞くときもありました。そして強調していたのは”発信力の強化の必要性”でした。
国の追悼平和祈念館を訪れて被爆者の証言集を見たとき、
立花さんは長瀬さんに「これだけのものをもっと有効に活用するべきなのではないか」と鋭いまなざしで熱く語っています。
戦争を二度と繰り返してはならない。そのためには多くの人が
長崎の被爆者の体験に耳を傾けてほしい。
今回、立花さんの長崎での足跡を辿りながら、私はその思いを強くしました。
「知の巨人」に習い、好奇心旺盛に多くの被爆者の話を聞くこと。
立花さんが”偶然”というチャンスを見逃さなかったように。
まずは自分が歩み続けることが欠かせないことを立花さんは教えてくれました。
NHK長崎放送局(現所属は国際放送局)
記者 吉田麻由
投稿者名:WEB特集投稿時間:19:18