長野県民で取り返せ!川中島の戦いが“分かる”武田信玄の書状
- 2023年02月06日

あの武田信玄さんが川中島の戦いに関して信州の武将に感謝を伝える書状が見つかったそうです。
ただし、この書状は川中島の地元・長野県にはありません。
そこで、この書状を長野県民あげて取り返そうというプロジェクトが始まっています。
書状には何が書かれているのか?プロジェクトの意図は?
何が書かれているの?
武田信玄といえば、戦国武将の中でも名将中の名将として名高いですが、なんといっても上杉謙信と5度激突した(回数は異説あり)川中島の戦いでしょう。

今回見つかった書状は、その謙信と合戦している最中に出したと見られています。

長野県立歴史館が現代語訳しています。
山田城へ敵が移った際に、時を置かず攻撃を行い、城を落城させて多くの敵を討ち取ったということについて、その忠節は本当に比類のないものです。
今回名を挙げた者たちへの感状は3日以内に信玄が作成し、当人に渡すつもりです。
越後国の長尾景虎勢が出陣するとのことですので、こちらはきょう諏訪郡に移動し、28日には佐野山まで進軍するつもりです。
より一層戦功に励むことが重要です。
手紙は縦約26cm、横約37cmで、県立歴史館によると、信玄本人が書いたものではなさそうということですが、出家して信玄とする前の晴信の名前と花押(サイン)があります。
戦国時代にはんこが出回るようになったそうで、はんこは家臣が押すことができます。
その意味では筆による花押入りの書状は貴重なんだそうです。

では、手紙の内容を詳しく見ていきます。
現在の長野市東寺尾を治めていた寺尾刑部少輔が山田城を落城させたことを、信玄が「忠節に比類がない」と称賛し、3日以内に感状を渡すとしています。

そして、長尾景虎(後の上杉謙信)の軍勢が出陣してくるというので、信玄も諏訪に移動したあと、現在の千曲市のあたりまで進軍するつもりだなどと書いています。

県立歴史館によると、書かれた時期は第2次川中島の戦いがあった1555年、もしくは、第3次があった1557年のいずれかの4月と見られるということです。
この書状のポイントはどういうところなのか、会見した県立歴史館の笹本正治特別館長の解説です。

これはすごくおもしろい。実は川中島の戦いの具体的な状況は今までよくわかっていないが、この書状からは川中島の戦いを上杉軍と武田軍が具体的にどう戦っていたか、それに信州の人たちがどう関係していたのかをうかがうことができる。具体的な地名があり戦っていた場所や信玄の進軍スピードといったものもわかる。
どこにあるの?
川中島の戦いに関連することが書かれているため、この書状は長野県にあると思いきや、実は京都の古書店が持っているのです。
数年前に古書店から連絡を受けた県立歴史館は、信玄による本物の書状だと判断し、長野県に“取り返すため”購入することを決めたのです。
しかし、資金がありません。そこで県立歴史館などが考え出したのがクラウドファンディングによる寄付の募集でした。

目標額は315万円で、ふるさと納税を活用したインターネットのほか、郵送やFAXで来月(3月)15日まで受け付けています。
なお、ふるさと納税による寄付を行っても返礼品はありませんが、寄付した人に書状を特別公開したり、オンラインによる解説会を設けたりすることを検討しているということです。
そして、“無事に”長野県に戻ってきた場合は、県立歴史館開館30周年で考えている川中島の戦いに関する特別展で公開したいということです。
最後に、笹本特別館長のお願いです。

川中島の戦いにゆかりがあり、信州の人に宛てられた晴信(信玄)の書状をなんとか長野県に残しておきたい。長野県の宝物をを取り返して、今後永久に保存し、研究・展示対象にしたい。晴信(信玄)の息づかいも伝わってくる書状なので、県民や関係者の協力をよろしくお願いしたい。