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幻の鉄道“未成線” 長野ではその跡地からあるものが生まれた

  • 2022年12月13日

「飯田に未成線があるんだって!?」

上司からの衝撃の問いかけだった。
未成線とは未完成の鉄道路線のことで、計画や工事が中止となり開業を果たせなかった“幻の鉄道”を指す言葉として鉄道ファンの間などで定着している言葉だ。
これとは別の廃線は鉄道が廃止されたことで、その跡地を訪れる鉄道マニアは多い。長野県内では篠ノ井線の明科・西条間の旧線や信越本線の碓氷峠区間、長野電鉄の屋代線などが広く知られている。
ただ、未成線はそもそも実現しなかった鉄道であるためその存在はあまり知られていない。
このデスクの問いかけに、飯田市出身で“鉄道マニア”の筆者は「そういえば聞いたことがあるな」程度で、詳しいことは答えられなかった。
「じゃあちょっと調べてみようぜ」というデスクからのひと言。さっそく調べてみることにした。
(村澤大輔)

飯田市内に残る未成線の痕跡

まずは未成線の痕跡を探した。

やってきたのは、長野県飯田市中村地区。市の中心部、JR飯田線飯田駅から南西に5kmほどのところにある田畑と住宅が点在する地域だ。

この地区に未成線があることは、1980年代の住宅地図に「国鉄中津川線(予定線)」と書かれていたことから判明した。

しかし、今もそのままなのだろうか。そこで、地元のことならば地元の人に聞こうと、中村区長の近藤和志さんに中津川線の場所を案内してもらった。

やってきたのは地区で管理している「おひさま公園」というやけに細長い広場だった。

「おひさま公園」

その広場の奥には、幅5~6mほどの草にまみれた土手が山に向かって一直線に伸びていた。

区長の近藤和志さん

ここは昭和42年ぐらいに国鉄中津川線を敷こうとした場所です。つまり、ここが飯田の夜明けになるはずだった場所です。

おひさま公園とそこから続く土手こそ、かつて国鉄中津川線を敷こうと建設工事をした鉄道用地の跡だ。

中村地区に残されている線路になるはずだった鉄道用地跡は600mほど。盛り土された路盤(レールを敷くための地面)や川を渡るコンクリートの橋脚が、周囲の田畑や住宅より見上げるほどの高さで存在感を放ち、橋脚には工事完了の日付と思われる「1968-6」が刻み込まれていた。

ここを工事をしていた当時はまだ鉄道が主役の時代だったので、飯田の衆はうんと期待をしていました。この地区にも駅が出来る予定だったので、出来ていればにぎやかな場所になっていたんじゃないですかね。

陸の孤島・伊那谷

そもそもこの中津川線はどういった経緯で建設が始まったのか。それを知るために長野県南部の鉄道の歴史をひもといていった。

明治時代、東京から長野県を通って名古屋へと至る中央本線を通そうとした際、中央アルプスより西側の「木曽谷」を通すか、東側の「伊那谷」を通すかが検討され、工事費が安くすむなどの理由から木曽谷を通すことになった。

その結果、名古屋方面と中信・北信地方との交通は飛躍的に円滑になった。

一方、伊那谷では中央本線にかわる交通手段として、現在の飯田線が大正から昭和初期までに開通したが、最も近い大都市名古屋へ行くにも、その先の関西へ向かうにも、一度北へ向かい辰野・塩尻まわりの中央本線を使うか、南へ向かい豊橋まわりの東海道本線を使うといった大変な遠回りをする必要があった。

そこで、かねてより構想があった飯田線と中央本線を直結させるルートとして戦後に打ち出されたのが国鉄中津川線計画だった。飯田市と岐阜県中津川市を結ぶおよそ36キロの単線・電化路線で、中央アルプスを長大トンネルで貫くものだ。

それまでは飯田線を使い愛知県の豊橋経由で最短4時間を要した飯田と名古屋間を、半分以下の1時間40分ほどで結ぶ壮大な計画だった。これにより伊那谷と中京地方の人流・物流ともに盛んになり、山深い伊那谷の経済が活性化すると地元は大いに期待をしたという。

着工前に示された中津川線の計画図

トンネルからは涼しい風が

昭和42年11月、中津川線で最初に着工した場所は、中村地区と隣の竹佐地区の間にある山を貫く「二ツ山トンネル」だった。約1.5kmのトンネルで、おひさま公園から続く盛り土路盤がそのままトンネルへとつながっていた。

細い市道を通ってそのトンネルの近くまで歩いて行くと、やや見上げる高さにぽっかりと口を開けたようなトンネルの入り口が見えた。

今では柵で固く閉ざされているが、そのトンネルの方から涼しい風が流れて来るのを感じた。このトンネルは確かに山の向こう側に通じているのだ。

建設当時の様子を知っているという近所に住む70代の男性に話を聞いた。

自宅前に駅ができると聞いていた。トンネルのすぐ近くに機械が置かれていて、夜中も工事をやっていたから24時間ドンドンドンドンと結構うるさかった。

駅の予定地は少し広くなっている

同じく近くに住む90代の女性は当時、住み込みで働く建設作業員たちと交流があったというエピソードを語ってくれた。

工事が始まると大勢の作業員たちがやってきて、わが家で貸した田んぼにプレハブが建って、そこで寝泊まりをしていた。そのときに私も炊事係のパートで手伝いに行って、いくらかでも給料をもらえたのがありがたかった。接してみるといろいろ楽しかった。

一方で、女性は鉄道が通らず工事でふるさとが変わってしまったことに複雑な心境を抱いているようだ。

さみしい感じですね、土手(盛り土)ができる前は向こうまで見えて見晴らしがよかったけど、見えなくなって母は残念がっていました。

今にも列車が走ってきそうな立体交差

ライバルの出現

未成線の中津川線の取材をしていると必ずといっていいほど飛び出す言葉があった。

中央道が先に出来ちゃったからね、だから中津川線は通らなかった…。

開通当時の恵那山トンネル

中央自動車道。東京から神奈川・山梨・長野・岐阜を経て愛知県まで至る、約350キロにも及ぶ高速道路だ。長野県内では伊那谷を縦断した後、中津川線とほぼ同じルートで中央アルプスを通っている。

このアルプスを通る8.5キロの恵那山トンネルは大変な難工事だったが、昭和50年に見事開通し、その恩恵をとりわけ受けたのが伊那谷の人たちだった。この中央自動車道で飯田と名古屋は高速バスで2時間半ほどで結ばれることになり、人や物の流れが劇的に盛んになった。

当時の新聞には「当地にとっては黒船以上の歴史的な出来事といってもよいほどだ」と評する記述もあった。

さらに伊那谷に朗報があった。現在のリニア中央新幹線計画につながる「中央新幹線構想」が昭和48年に示されたのだ。東京から甲府、名古屋、奈良を経て大阪へ至る夢の超特急が伊那谷を通る可能性が高まり、飯田・下伊那地域では誘致活動が活発になっていった。

一方の中津川線の計画は、二ツ山トンネルと前後4キロ弱の区間については3年かけて工事を完了させたが、その後は用地取得の遅れや建設予算の削減などもあり、工事は全くというほど進んでいなかった。

先に開通した中央自動車道によってすでに便利になったことに加え、中央新幹線計画で将来のさらなる利便性向上が見込まれたため、伊那谷の人たちから中津川線の“必要性”をいちじるしく失わせていった。

時を同じくして、当時大赤字だった国鉄を立て直そうと、全国的に赤字ローカル線の見直しが進められ、開業後の黒字化は見込めない想定がされていた中津川線は昭和55年、ついに建設が正式に凍結されることになった。

工事凍結で放置された構造物

今も残る痕跡探訪①通学路に活用

未完成に終わった中津川線で工事が済んでいたところはどうなっているのか。

国土交通省が管理しているが、飯田市内では通学路として活用されているということを知った。飯田市立山本小学校に問い合わせると、「旧中津川線の用地を現在も通学路として使っている」とのことだ。実際に下校時間にあわせて通学路を訪ねると、元気よく元鉄道用地を歩く子どもたちの姿があった。

300mほどの盛り土区間の両側には白いフェンスが設置され、“現役の道”だという事を主張しているかのようだった。ただ、フェンスの奥にのぞくコンクリートの壁に刻み込まれた「1970-9」という完工年の数字は、確かに半世紀前の遺構であると示している。

通学路として利用されている

早速子どもたちに聞いてみた。

この通学路、昔何だったか知っている?

わかりません。

もし列車がここを走ったらどう思う?

僕たちの歩くところがなくなっちゃう。

子どもたちにとって昔がどうだったなどは関係がなく、今や大切な通学路として親しまれているのだと感じた。学校によると、年に数回、PTAが草刈りをするなど手入れもされているとのことだった。

今も残る痕跡探訪②この道も中津川線!?

中津川線計画の歴史をひもとく上で、もう1つ気になっていた場所があった。

それはWEBサイトに「中津川線のルートだったのでは」と書かれていた遊歩道だった。

その場所は二ツ山トンネルよりも飯田市街地に寄った飯田市育良町で、すぐ近くに中津川線の“ライバル”、中央自動車道の飯田インターチェンジがあり、商業施設や住宅が立ち並ぶ地域だ。

育良町の遊歩道

飯田市出身の筆者も、この遊歩道自体は知っており、改めて訪れると確かに妙に一直線で、単線の線路を敷くのにもぴったりだと感じた。

当時を知る人はいないかとさがしたところ、区画整理事業に携わったという新井利彦さん(87)に話を聞くことができた。

新井利彦さん

あの道は自転車歩行者専用道路ということで、国鉄中津川線の予定線に沿って作られました。

そう言って新井さんは当時の地図を見せてくれた。

そこには、飯田駅近くで飯田線から分かれた中津川線の予定線を示す点線が現在の遊歩道の場所を通っていた。やはり遊歩道は中津川線計画の名残だったのだ。

新井さんによると、この区画整理事業の時点では中津川線の用地買収などは一切されていなかったが、もし計画が復活した場合に鉄道を敷いても大丈夫な公共用地として450mの遊歩道を整備したというのだ。

この地域は飯田インターの目の前で、高速道路時代の飯田の新たな玄関口となる大切な区画整理事業だった。せっかく整備しても、また鉄道のために用地買収などをやり直すのは大変だったので、こうした対応を取った。今ではこの遊歩道が鉄道計画の名残だったことを知っている人はほとんどいないと思う。

今も残る痕跡探訪③昼神温泉

未成に終わった計画で残ったものは道路だけではなかった。それどころか新たなものが生まれていたのだ。

これは「神坂トンネル建設現場」の写真だ。時期は昭和48年1月と見られ、写真の裏には「神坂トンネルから温泉出る」と書かれていた。

神坂トンネルは、飯田市の西隣にある阿智村から岐阜県にかけて建設をしようとしていた中央アルプスを貫くトンネルだ。その工事をしていた場所には現在、昼神温泉郷がある。

なんとこの昼神温泉こそ、中津川線の工事中に発見された温泉だったのだ。

阿智村前村長の岡庭一雄さん(右)と筆者

温泉郷の最も奥にあるホテルの露天風呂内に、昼神温泉で最初にお湯が出たという洞穴が残されていた。温泉の歴史に詳しい阿智村前村長の岡庭一雄さんは当時のことを次のように話す。

阿智村前村長の岡庭一雄さん

ここは中津川線のボーリング調査中に掘削機が途中で故障してしまい、それを取り出しに行こうと掘った穴だ。そうしたら、穴の中から温泉が滝のように流れ落ちている場所を見つけたそうだ。当時村の人たちは『温泉が出たぞ』となり、話題が沸騰したと聞いている。

古くは温泉が湧いていたとの記録もあったが、中津川線神坂トンネルのボーリング調査をしていた昭和48年1月、突如として湧いた温泉だった。

これをきっかけに村は本格的に温泉地開発に乗りだし、一時は27軒のホテルや旅館が立ち並ぶ伊那谷が誇る“一大温泉地”へと成長した。

こうした急激な発展の一因には、中津川線の“ライバル”中央自動車道が中京方面からの観光客を取り込むのに一役買ったという。

来年で開湯50周年となる昼神温泉

そして、昼神温泉は「名古屋の奥座敷」とまで呼ばれるようになった。現在では年間58万人(2019年)が訪れ、星空が美しい村としても有名だ。

中津川線によってもたらされた財産、昼神温泉。前村長として村の観光振興を進めてきた岡庭さんはこう語る。

もともと田畑だったこのあたり一帯が温泉地として開発されていって、伊那谷最大の観光地になったのは隔世の感がある。たまたま中津川線の掘削最中に温泉が出たということで、そういう点では天からの恵み。これから伊那谷はリニア時代を迎え東京や名古屋がさらに近くなる。自然豊かな地域の魅力を、温泉とともに生かしてさらに発展してほしい。

【取材後記】

取材中、「もし中津川線が実現していたなら」と想像することが何度もあった。もしかしたら伊那谷の交通事情は今とは違っていたのかもしれない。一方で、全国各地で鉄道の存続問題が叫ばれているが、中津川線もその1つになっていたかもしれない。

工事の痕跡は歴史ロマンを感じるとともに「負の遺産」としての側面も残している。ただ、歴史をひもとくにつれ、中津川線計画は「過去に置き去りになったもの」ではなく「今の地域に確かに息づいている」と気づかされた。

幻の鉄道計画が伊那谷に恩恵をもたらしたという事実。これからも地域を形作った歴史の一部として残り続けていくのだろう。

取材のきっかけをくれたデスクに結果を報告すると、「未成線が温泉になったのか!」と大変驚いていた。

  • 村澤大輔

    長野放送局映像制作

    村澤大輔

    飯田市出身 ニュース編集のかたわら、市田柿、半生菓子、松本の湧水など信州の知られざる魅力をこれまで取材。

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