いわて楽旅
2021/11/04

鬼伝説を巡るたび

あの大人気マンガにハマっている河島康一アナウンサー
今回の旅先は‥‥‥

河島アナウンサー

「うまい!うまい!」

弁当を食べる河島アナウンサー。
まさか、その格好は‥‥‥!?

最近、あの大人気マンガにはまっているという河島アナウンサー(全巻買いそろえている)。鬼殺隊に扮して訪れたのは、なんと「鬼」が出るとうわさの一関市真柴地区。

河島アナウンサー

「んん、ここに妙な名前の停留所があるぞ。“鬼死骸(おにしがい)”停留所。」

「鬼とクマに注意?! 鬼もクマも出るというのか。」

そのとき!!!

「うわ!」

河島アナウンサー

「よもやよもや!」

河島アナウンサー

「なんだ。鬼かと思えば、人でしたか。」

現れたのは「鬼」!?
ではなく、真柴まちづくり協議会の小野寺徹さん。
(鬼のお面をかぶって登場していただきました。)

実はこの鬼死骸バス停、平成28年まで実際に使われていましたが、バスが廃線となり、地元の人たちが地名を残そうとモニュメントとして整備しました。
鬼死骸という地名は、明治8年まで実在した村の名前で、バス停には江戸時代に作られた鬼死骸村の地図「鬼死骸絵図」が展示されています。

大人気マンガの影響でSNSでも話題になり、今年から鬼死骸グッズの販売を開始。

なんと、このキーホルダーは真柴まちづくり協議会の皆さんがひとつひとつ手作りで作っています!

鬼死骸という地名の由来は、「鬼石」と呼ばれるこの石。
この石の下には、かつて東北地方に暮らしていた蝦夷(えみし)と呼ばれる人々の長、大武丸(おおたけまる)が埋葬されていると言い伝えられています。

ときは平安時代、大武丸は東北を支配するために蝦夷たちを討伐に来た当時の朝廷の征夷大将軍、坂上田村麻呂に敗れました。
小野寺さんは「大武丸は地元を守るために戦った私たちにとっての英雄でもある」と語っていました。

小野寺さん

「我々はですね、『鬼滅の刃』がブレイクする前から鬼死骸を広報していたのですが、あっという間に追い越されてしまいました。ははは笑」

それにしてもこの二人‥‥‥。

なんともイカしたバックショットです。

河島アナウンサーもノリノリでした(笑)。

そんな河島さんの元に、こんなかわいい来客も‥‥‥。

よく見ると、このわんちゃん鬼死骸と文字が書かれた服を着ています!!

「蝦夷(えみし)」が「鬼」と呼ばれた理由

ところで、一体なぜ蝦夷たちは「鬼」と呼ばれていたのでしょうか。
その謎を解くヒントが、北上市立鬼の館に展示されています。

それがこちらの室町時代に描かれた絵図。朝廷と蝦夷の戦いの様子が描かれています。 蝦夷たちの顔をよく見てみると‥‥‥。

「鬼」として描かれているのです。

鬼の館に勤める老林優希さんがその理由を話してくださいました。

老林さん

「古来、東北という地は「鬼門」と呼ばれる門があると考えられていまして、そこから鬼が出入りしていると考えられました。それで、東北に暮らす蝦夷たちは鬼であると朝廷の人たちにさげすまれて、そのように絵巻にも描かれているのです。」
「朝廷側はこの東北の広大な土地と、馬や金などの豊富な資源を求めて侵略しに来ました。そのときのやはり大義名分として、彼らを悪者に仕立て上げるということしかなかったと。それで東北にある鬼門と、あとは彼らを悪者にするという意味でも鬼にして、ここの絵巻にも書かれたと、そう伝わっております。」

侵略を正当化するために他者を悪者に仕立て上げるやり方は、いつの時代でも使われてきた常とう手段です。

北上といえば民俗芸能「鬼剣舞」が有名ですが、これも蝦夷と関係があるそうです。

老林さん

「一般的に、鬼剣舞と蝦夷のつながりというものは、直接的なものはないですが、岩手県には念仏剣舞と呼ばれる民俗芸能がたくさん伝わっていて、たとえば朴ノ木沢念仏剣舞というものですと、奥州の衣川で自刃した源義経の亡霊を沈めるためのものであったりとか、あとは赤澤鎧剣舞と呼ばれる沿岸にある念仏剣舞では、平家の亡霊を沈めるために踊られたと言われています。」
「岩手県に伝わる民俗芸能というのは、蝦夷のように悲劇の死をとげた先祖を供養するような民俗芸能がたくさんあります。鬼剣舞の由来に蝦夷というのは載ってはいませんが、鬼剣舞も念仏剣舞ですから、その根底には東北の地で無念に最後をとげた先祖を供養するというものが根底にあって、その祈りの中で踊られてきた踊りではないかなと考えております。」

河島アナウンサーが実食!? 巨大な鬼料理

おなかがすいた河島アナウンサー。北上市内にある鬼伝説が体感できる料理が出るというお店へ向かいました。

(※通行人を驚かさないように服は着替えました。笑)

出てきたのは巨大なおにぎり!

河島アナウンサー

「うわ〜!」

河島アナウンサー

「では、いただきます!」

河島アナウンサー

「うまい!」
「具がたくさん詰まっていて、ごはんがぎゅっとしまっていて、お米のおいしさが際立ちます。」

最新の考古学調査が示す新たな蝦夷たちの姿

おなかもいっぱいになったところで‥‥‥。最後に訪ねたのは北上市立博物館。

河島アナウンサー

「遺跡からいろんなものが出土しているんですね〜。まがだまもあれば、馬具もありますね。」

杉本館長

「そうなんですよ」

登場したのは、北上市立博物館の杉本館長。30年以上、古代から中世にかけての遺跡の発掘調査を行ってきました。

河島アナウンサー

「今までほかの所も見てきて、蝦夷は鬼のように扱われて敵視されていたというイメージを持って来たので、こちらに展示されているものを見てこんなにたくさん豊かなものがあるのかと少しびっくりしました。」

杉本館長

「今河島さんがおっしゃったことはまさに中央の政府が見ていた蝦夷の見方だったんですね。」
「文字で書かれたものというのは、京都とか奈良とか中央の貴族たちの見方。それだけで見ると蝦夷たちにとっては不公平って感じがしますね。」
「さっき『清水寺縁起絵巻』を見たと思いますけども、ああいう戦いが本当はどういうものだったのか。それを示す面白い遺物が見つかっています。河島さん、これ何でしょうか?」

河島アナウンサー

「土器ですよね?」

“赤彩球胴甕”(せきさいきゅうどうがめ)と呼ばれる、奈良から平安時代にかけての蝦夷たちの遺跡から見つかった土器。ちょうど朝廷と激しく争っていた時代に集中してこの赤く塗られた土器が出土されることから、戦いの儀式に使われていたものと考えられています。

杉本さんが注目したのは出土した「場所」。3つの異なる川沿いから100個以上発見されました。

杉本館長

「蝦夷というのは、ひとつの統一された国を作っていなかったんですよ。川ごとにそれぞれ部族がいたみたいですね。大きな中央政府が攻めてくるという段階になってきましたら、ある程度まとまって一緒に戦おうという意識がどうもできたみたいなんですよ。そのときに、ひとつのお祭りの道具をひとつのまとまりの象徴として、この赤い土器をどうも作ったみたいなんですね。」

これまでの定説では、蝦夷たちはグループごとに対立し、争いが絶えなかったと考えられてきました。しかし、赤い土器の発見から、団結していた可能性も浮かび上がってくるといいます。

杉本館長

「蝦夷というのは、ひとつの統一された国を作っていなかったんですよ。川ごとにそれぞれ部族がいたみたいですね。大きな中央政府が攻めてくるという段階になってきましたら、ある程度まとまって一緒に戦おうという意識がどうもできたみたいなんですよ。そのときに、ひとつのお祭りの道具をひとつのまとまりの象徴として、この赤い土器をどうも作ったみたいなんですね。」
「河島さん、実はもう一つこの赤い土器には面白いことがありまして、この赤い土器が出ているところの分布なんですけども、ひとつ仲間はずれみたいに出ているところ、わかりますか?」

河島アナウンサー

「これ、関東の東京ですよね……?」

杉本館長

「多摩市という市がありますが、そこから赤い土器が見つかっているんですよ。」

河島アナウンサー

「へえ、どうしてですか?」

杉本館長によると、高度な馬術や牧畜技術を持っていた蝦夷の人たちが関東の人たちにそうした技術を教えた証拠ではないかと考えられるといいます。

杉本館長

「おそらく、関東の方で牧畜技術が広まってきて、蝦夷たちのそういう戦いの技術なんかも伝わって、もしかしたら関東における武士の発生、そういうところにもつながってくるんじゃないかなとも言われていますね。だから蝦夷というのは、決して東北地方のひとつの文化ではなくて、もしかしたら日本の歴史を動かしていく、そのあとの武士の世界とか、その中の蝦夷ということも十分考えられるわけですよ。そのことを、この赤い土器がぽつんと見つかっただけで、示してくれいているとも考えられますね。」

河島アナウンサー

「そう思うとロマンを感じますね。」

杉本館長

「そうですね。本当に単なる鬼とか猿とかそうしたかたちで済ましてしまう、遅れた人たちが蝦夷という考え方はちょっと捨てた方がいいと思いますね。」

蝦夷の歴史のロマンに触れて、知的好奇心もおなかも満たされた素敵な旅でした。

石井PD

盛岡放送局 ディレクター

石井 正樹

野球が好きです。

右投げ右打ち・投手兼二塁手
決め球:高速スライダー