インタビュー
2021/12/24

開戦80年 等身大の特攻兵

太平洋戦争の開戦から、ことしで80年となりました。
中央の写真は、その昭和16年に撮影されたものです。当時流行したという中折れ帽をかぶっているのは、岩手出身の18歳の青年です。
青年はこのよくとし、民間のパイロットを志してふるさとを離れ、その4年後に太平洋戦争で戦死しました。
戦時下に生きた当時の若者の等身大の姿は、どのようなものだったのか。間近で見つめてきた妹の証言です。

【旧大沢村の墓に眠るのは】

いまの山田町北部にあった旧大沢村。ここに、青年の辞世の句が刻まれた墓があります。
「君のため 磨きあげたる白玉の 砕けし時ぞ 今ぞ来にけり」

君とは天皇のこと、白玉とはここでは航空機の操縦技術のことを指すとされています。眠っているのは旧日本軍の陸軍大尉、佐々木秀三(享年22)。昭和20年4月、沖縄に特攻作戦で出撃し、戦死しました。

【等身大の佐々木青年】

秀三は大正12年、6人きょうだいの5番目、三男として生まれました。父親は宮古の漁協で組合長をつとめた地元の名士。のどかな沿岸の漁村で育ち、テニスに明け暮れる青春時代を過ごしたといいます。

きょうだいの末の妹、志保さんです。10歳年上の兄・秀三は、幼い志保さんをとてもかわいがってくれたと言います。早くに亡くなった兄との思い出の品々を、志保さんはいまも大切に保管していました。

「私が小学校1〜2年の頃、兄が修学旅行先の京都でお土産に扇子を買ってきてくれたんです。ふつう小学生にこんなお土産買います?当時私は“えっ”と思いましたけど、大人になってからはとてもうれしくて、今では宝物です」

秀三は昭和16年に水産学校を卒業し、東京の冷凍工場で働きはじめます。そしてこの年の12月に太平洋戦争が開戦しました。しかし、当時の写真の秀三からは、戦争の影を見ることが出来ません。お洒落に人一倍気を遣っていたという、若者の姿が残されていました。

「東京からこの格好で田舎に帰ってきたんです。そして近所のお祭りに行きたいって、私を連れて行きたいって言うけど、私はその帽子を脱がないと絶対行かないって言って、結局私は行かないって泣いて、この格好で兄は1人で行ったのを覚えています」

秀三は、東京の冷凍工場を半年ほどで退職。大沢村に帰郷し、漁協の出荷所で働き始めます。そして1年近くが経った昭和17年9月。お祭りの帰り道、母に「パイロットになりたい」と切り出したといいます。

「突然、兄が“母さん俺はね、仙台の飛行学校に行きたいんだ”って言い出したんです。母はびっくりして“えっ、どうして。飛行機は怖いからだめ、絶対だめ”と言って怒りましたが、兄は“いや絶対行きたい。もう願書も書いてあるんだ”って聞かないんです。そのあと父も止めたんですが、兄の意志は固くて。翌年、搭乗員養成所に入ることになりました」

【パイロットを志すも・・・】

人生の大きな決断をした秀三。はたちになった昭和18年4月、念願だった民間パイロットの養成所に入所しました。

仙台にあった旧逓信省のパイロット養成所。出身者は平時には民間の航空会社などに勤務しますが、戦争時には軍隊に召集されます。しかし、若者たちの寄せ書きには「我が憧れは空を行く!」、「航空日本の礎となろうではないか」と、大空への純粋な憧れが記されています。
秀三はなぜパイロットを志したのか。当時、小学生だった志保さんは、兄がパイロットを志望した理由について、のちにほかのきょうだいから伝え聞いていました。

「テストパイロットって大変、給料が高いんですってね。だから多分、秀三は母を経済的に楽にしたいと思っていたんじゃないかって、うちの姉は言っていたそうなんです。私はただ単に好きだったんじゃないか、憧れたんじゃないかなって思いますけどね」

秀三はその後、養成所を特に優秀な成績で卒業し、教官に勧められ陸軍学校に進学しました。そして昭和19年には21歳で少尉に進級。少年航空兵の指導にあたっていました。

しかし、戦局は徐々に悪化。昭和19年、フィリピンのレイテ沖の海戦では初めての特攻作戦が行われました。戦争は、人々の生活にさらに色濃く影を落とすようになっていました。
そして昭和20年2月。秀三も特攻隊員に組み込まれることになりました。秀三は民間のパイロットとして活躍する機会のないまま、特攻に行くことになったのです。特攻作戦では、54人の岩手県出身者が出撃し、戦死しました。

【特攻出撃の裏に・・・】

3月。秀三は2日間だけ大沢村の実家に帰省しました。
その最後の日、出発の朝、幼い志保さんにだけ見せた姿がありました。

「“秀三さんご飯ですよ、みんな待ってますよ”と言うと兄は“うん”って言って目を覚まして、いきなり、当時在籍していた大刀洗飛行学校の校歌か軍歌かを歌いだしました。そして、終わったとたんに、布団をかぶって泣きだしたんです。“秀三さんどうしたの”と言っても、何にも言わないでただただ泣くんですよ」

ほかの家族には涙を見せることなく、何もなかったように元気に家を出た秀三。
4月6日。特攻作戦で沖縄に出撃し、戦死しました。
墓に刻まれた辞世の句が、家族あてに残されていました。
しかし、志保さんは当時の兄の心境について、こう語ります。

「泣いたのが本音だったんじゃないでしょうかね。皆さんも心では泣くんじゃないですかね。だって人生の半ば、今から人生のいいときに亡くなるんですよ」

秀三は死後、大尉に特別進級。実家の玄関には「軍神」の文字が記された木の札が掲げられ、周囲から称賛を受けたほか、新聞記者も取材に来たといいます。秀三の死に打ちひしがれる母に、父や兄は「人前では泣いたらだめだよ」と声をかけていたといいます。

「父は、“秀三はもう私の子どもではないです、国の子どもです”と新聞社の人たちに言ったりして。母は気丈にも人前では泣いたりしませんでした。ただ夕方、ちょうど秀三が突撃した5時半ごろになると、仏前で泣いていました」

大空を夢見て岩手を飛び立ち、遠い沖縄の海で戦死したひとりの青年。
その墓には、出撃前に遺品として残した爪と髪の毛が納められています。

「兄のいた特攻隊が、向こうの軍艦を5隻か6隻沈没させたみたいですね。それにだって、5隻と言ったら何百人の人が乗ってるじゃないですか。アメリカには、私たちと同じように家族があったわけですよね。本当に戦争は勝っても負けても悲惨だと思います。どんなに国ごとに価値観が違っていても、心を広くして、絶対に戦争はしないということ。それが大切なことだと思います。特にこれから日本を背負って立つ若い人たちには、それをよくわかってほしいと思います」
取材後記今回、開戦80年の特集を制作するにあたり、同い年のディレクターと関係者を探しました。しかし、すでに亡くなっていた方や、病気の進行等でお話ができない方が多く、関係者探しは難航しました。そうした中でたどり着いたのが、佐々木志保さんでした。志保さんは現在88歳で、戦時中は小学生でした。入院している母の元へ、秀三さんが手を引いて連れて行ってくれたこと。秀三さんを起こすために嘘をつき、追いかけ回されたこと。死後76年が経った今も兄の思い出は鮮明で、取材中には何度か涙をこぼすこともありました。印象的だったのはインタビューの最後、「アメリカにも家族があったのだ」という言葉です。残された家族だからこそ語ることができる戦争の現実だと思いましたし、“大好きな兄が戦争で人の命を奪ったかもしれない”と、人知れず苦悩してきたこともうかがい知ることができました。戦争がもたらす、どこまでも悲惨な結末。志保さん、貴重な証言をしていただき、ありがとうございました。

2021年12月09日『おばんですいわて』で放送

矢野記者

盛岡放送局 記者

矢野 裕一朗

2018年入局。警察・司法担当を経て、2020年秋から県政担当。

26歳。戦争のご遺族にじっくりお話を聞くのは初めてでした。