岩手メディア共同キャンペーン

メッセージ紹介とは?

これまでに「おばんですいわて」でご紹介したメッセージを掲載しています。

岩手の放送・新聞・通信などメディア14社による共同キャンペーンのため、NHK以外のメディアにお寄せいただいたメッセージをNHKでご紹介することもあります。

メッセージ紹介
  • <2月1日放送>

    投稿者:チョロ助さん(釜石市)

    釜石市の62歳の女性からお寄せいただきました。

    震災の時は、釜石市の自宅にいて、親しい同級生や知人が犠牲になったということです。

    〜メッセージ〜

    私の実家の近くまで津波が来たことを、1週間後に知りました。

    幸い実家の母は逃げて無事でした。たまたま実家に来ていた姉も無事でした。
    母や姉は無事でしたが、同級生や知人が津波の犠牲になりました。

    おととし、中学の同級会がありましたが、皆で犠牲になった同級生を偲んで校歌を泣きながら歌いました。亡くなった同級生も天国から校歌を歌っていたと思います。青春時代を一緒に送ってくれて有難う。

  • <2月2日放送>

    投稿者:千葉裕樹(ちば・ゆうき)さん(平泉町)

    平泉町の千葉さん(19歳)からお寄せいただきました。

    当時、平泉町内の小学3年生。

    あの日は学校で強い揺れに襲われ、親の迎えを待つ間、ただ泣いていることしかできなかったということです。当時の自分に向けた千葉さんのメッセージです。

    〜メッセージ〜

    10年前の3月10日の自分へ

    何気ない毎日だったと思う日も、その翌日にはすべて壊れるということを知って欲しい。

    必ず恐怖で泣いてしまい、数か月いや、数年たてば自分は被災地を訪れて自分の無力さを知ることだろう。
    だから『今を必死に生きて欲しい、そして誰かを助けるヒーローになってくれ』

    10年後の自分は二十歳の成人目前だけど、今でもあの時の無力さを忘れてはいない。
    でも誰かの生活を支える仕事をしているから。10年前の君もヒーローになってくれ

  • <2月3日放送>

    投稿者:てんぷらひこさん(北海道)

    今は、北海道の大学で社会福祉を学んでいる、山田町出身の20歳の女性からお寄せいただきました。

    震災の時は、みんなで小学校の裏山に避難したということです。

    大学卒業後はふるさとに戻り、現在学んでいる社会福祉の知識も活かしてコミュニティの再生などに貢献したいということです。

    〜メッセージ〜

    今でもあの日の辛かったことは忘れられないけど、支援をきっかけに出会った方々や与えられたたくさんのものを忘れず、大学を卒業したら地元の復興や災害時の被災地支援を真っ先にしたいと思っている。

  • <2月8日放送>

    投稿者:森志津枝(もり・しづえ)さん(栃木県)

    陸前高田市に実家があり、栃木県に住む61歳の森さんからお寄せいただきました。森さんは、震災の前日まで、実家に戻っていました。震災の時、母親は数か月前に亡くなっていました。

    父親と姉は、逃げて無事だったそうですが母親の形見は全て流されてしまったそうです。

    〜メッセージ〜

    2011年3月10日。
    この日、故郷(ふるさと)の実家を後にした私は、「故郷」がまさか無くなってしまうとは思ってもいませんでした。

    何もかもが流され、再会の約束が叶わなくなった恩人。
    6人の同級生······一人ひとりがそれぞれ想い出深い同級生だった。
    母の形見は何一つ見つからなかった。

    生まれ育った「家」は基礎と一部の土台だけだった。

    復興はマイナスから、新しい街づくりとなった。

    そこには「生まれ育った家」も無ければ、「生まれ育った姿」はほとんどない。

    無くなった「思い出」、無くなった「故郷」、
    故郷があって、ある日突然、思いもよらぬ自然の力で奪い去られるというこの「思い」は当事者でなければ分かってもらえないかも知れないけれど······。

    どうか、一日いちにちを大切に
    隣にいる人を大切に
    「思い出」を大切に

  • <2月9日放送>

    投稿者:小林秀人(こばやし・ひでと)さん(山田町)

    山田町に住む小林さんからお寄せいただきました。

    小林さんは、震災当時、高校一年生。

    家族は無事だったものの、同級生が犠牲になりました。

    自宅は、1階の天井近くまで浸水し、およそ3か月間、避難生活を送りました。

    〜メッセージ〜

    震災のとき私は高校生で何もすることができませんでした。
    今思うと、何かできることがもっとあったのではないかと思います。
    だからといって、過去に戻ることはできません。今、やれることを頑張ろうと考えています。

    今は、地元で家族と漁業の仕事をしています。
    まだまだ始めたばかりで、覚えることがたくさんありますが、がんばることで地元のためになれば嬉しいです。
    将来的には、山田のために、家族のために働けるような人間に成長できればと思っています。
    ですが、なかなか自信が持てないところが現状です。

    震災で悲しく、辛い思いをした多くの人たちが、笑顔で暮らせる街になり、自分自身も
    笑顔で暮らせたらと願っています。

  • <2月10日放送>

    投稿者:荒谷雄幸(あらや・ゆうこう)さん(二戸市)

    二戸の消防本部にお勤めの、60歳、荒谷さんからお寄せいただきました。

    荒谷さんは、震災当時、救急隊員として働いていて、一週間後に被災した野田村に入りました。その時の様子を綴っています。

    震災当時、中学生だった荒谷さんの次男も現在、救急隊員として東京で新型コロナと戦っているそうです。

    〜メッセージ〜

    岩手県の消防は、「肋骨連携」と称し横軸の位置にある市町村への活動を展開した。

    自分が野田村に行く朝は、雪が降り気温も氷点下となり、時間の経過もあり「遺体の捜索」となるのかなと思った。
    途中の宇部地区では、沿道まで出て、両手を合わせて車列に感謝の祈りを捧げる高齢夫婦の姿が勇気をくれた。子供のときに泳いだ十府ケ浦(とふがうら)からのツナミにより街が壊滅し、三陸鉄道のレールが内陸部に50メートルも入り込んでいたのが記憶に残る。
    これまで感じたことの無い雰囲気、「人がいないという雰囲気」「シーンという音が聴こえる感覚」「テレビからは伝わらなかった潮やガスの臭い」など。

    震災から一週間めの国をあげての黙とうのときには、野田分署の屋上から部隊の黙とうを写真記録する私の傍(そば)で、電気工事の二人の男性が声を上げて泣いていることに心を寄せた。
    野田村が行方不明者の捜索、発見が3月28日に終了となり、野田村部隊は撤収した。

  • <2月15日放送>

    投稿者:松本勝徳(まつもと・かつのり)さん(宮古市)

    宮古市に住む松本さんは、震災当時、宮古市田老地区に住んでいました。

    震災では妻が犠牲になり、自宅も被害を受けて実家に避難し、今は市内の別の地区に移り住んでいます。

    〜メッセージ〜

    平成23年3月11日から10年が経過します。
    あの時の、その前の街並みはもうありません。
    東日本大震災で多くのものを、かけがえのないものを失い、不自由な生活も経験しました。
    東日本大震災のことを決して忘れてはなりませんし、そのことを後世に伝えなければなりません。
    私は毎月11日に、生活や人生を振り返ることにしています。

    過去は変えることはできませんが、未来は変えることができます。
    その教訓を生かして、あの時に支援をしてくれた皆さんに感謝しながら、一日一日を大切にして、自分らしい、生きがいのある人生を送りたいものです。

  • <2月17日放送>

    投稿者:阿久津貴之(あくつ・たかゆき)さん(福岡県)

    福岡県にお住まいの、49歳、阿久津さんからお寄せいただきました。

    阿久津さんは、大学時代、地震や活断層について研究していました。

    2017年からは、1年半あまり、三陸の復興と活性化に取り組む「いわて復興応援隊」に参加。宮古市などで活動しました。

    〜メッセージ〜

    大学で地学を学んだ私にとって、あの日は自身を振り返る大切な日でもある。
    私達の学びは、自然災害の多いこの列島の暮らしに活用されているだろうか。

    現地を知りたくて何度も足を運んだ。悩みの末に『いわて復興応援隊』に応募し、沿岸の暮らしも体験した。
    日々を重ねるほどに、豊かで美しい自然に囲まれた地域を強く感じる。

    ただ、あの一瞬の出来事が遺(のこ)した爪痕は、想像していたよりも大きかった。
    街は工事で変われども、そこに住む人の心は簡単に変わらない。
    応援隊は離任したが、今も現地の人に寄り添える支援は無いか模索している。

  • <2月18日放送>

    投稿者:金野清人(こんの・きよと)さん(盛岡市)

    盛岡市お住まいの、85歳、金野さんからお寄せいただきました。

    金野さんは、震災で、親しくしていた親戚、陸前高田の範子(のりこ)おばさんを亡くし、優しかったおばさんへの思いを詩に綴っています。

    〜メッセージ〜

    大陸前高田の範子おばさんとどこで、分かれたのだろう
    「怖い!」おばさんの声を追いかけ探し
    ついに見失ってしまい立ち尽くし、そっと涙を拭いて

    どこへ行けば、またおばさんに会えるのだろう
    この非常な海の上をどこまでも歩いていって海の果てまで探さなければ

    高田松原をさまようと話かけるようにおばさんの声
    「清人さん、みなさんいっしょに、がんばっぺし!」

    範子おばさんの遺言がはるかな海原を超えて
    海鳴りのように
    今も、はっきりと聴こえてくる

  • <2月22日放送>

    投稿者:工藤麻衣子(くどう・まいこ)さん(東京都)

    東京都に住む51歳、工藤さんからお寄せいただきました。

    工藤さんは、震災の1か月後から災害ボランティアとして何度も東北の被災地を訪れました。多くの人との出会いがあり、岩手県がとても大切な場所になったそうです。

    〜メッセージ〜

    10年という歳月(としつき)。
    応援していたはずが、いつのまにか心の拠り所のひとつとなり、
    今ではすっかり、大切な方々のいる大事な場所に。
    心洗われる美しい風景、
    美味しい食べ物、
    そして、会いたい方々がいる場所。

    コロナでそちらに伺えずにおりますが、忘れることなんて、できるわけないのです。
    会えなくっても、想いは変わっておりません。
    そして、ただ茫然と報道を見つめるしかできなかった時を思えば、
    こんな「距離」なんて。

    笑顔でお会いできるその日を楽しみに、
    みなさんの姿を心の励みに、
    私も、前を向いて歩み続けます。

  • <3月1日放送>

    投稿者:高橋節子さん(大船渡市)

    大船渡市にお住いの75歳、高橋節子さんからお寄せいただきました。

    震災の時、家族は外出中、ひとりで家にいたところを津波に襲われました。

    高橋さんは、現在、集団で移転した高台の家で夫、息子夫婦、そして、3人のお孫さんと一緒に暮らしているそうです。

    〜メッセージ〜

    あの日のことは昨日のことのように思い出されます。
    春なのに特別に寒く雪が舞っていました。

    経験したことのない地震におどろき小心者の私はすぐにとびだし、
    揺れのおさまるのを待って家の中に入り、
    落ちた花の鉢物の片づけをしていると、
    間もなくザワザワする音に窓を明けたらすでに
    目の前に津波が押し寄せていました。
    とっさにバックを持って戸を開けたときはすでに遅く、
    津波にのみこまれ、家財道具やら私の車やらと一緒に押し流され、
    泳げない私は何度も沈んでは浮き、黒い海水をのみこんでは吐き出し、
    津波のゆくままに流され、運よく助けられました。

    津波が来るということは一切思わず浅はかでした。反省しきりです。

    そこから寒さとの戦いと生きるために必死でした。
    住む家もなくどうすればいいのか不安が募るばかりでした。

    全国から支援物資が届き食糧・日用品、衣類とあらゆる物をいただき
    感謝の気持ちでいっぱいになりました。
    一生忘れません。

    この先、何年生きられるかわかりませんが、あの日のことは決して
    忘れることなく人々にはやさしく 感謝しながら生きようと思います。

  • <3月3日放送>

    投稿者:千葉ありささん(神奈川県)

    神奈川県の28歳、千葉ありささんからお寄せいただきました。

    震災の時は、紫波町にお住まいで高校3年生。

    仙台の大学の合格発表の翌日に震災が発生したということです。

    〜メッセージ〜

    大学の合格発表の翌日。
    揺れ、押し寄せ、崩れ、流された思い出の地。

    夢いっぱいだったはずの旅立ちは、
    18年間生まれ育ってきた岩手を置き去りにするという後ろめたさに変わった。
    何の恩返しもできないまま、あれからもう10年が経つ。

    何もなかったように東京で働きながら、それでも決して忘れることはない。

    田舎から早く抜け出したいと思っていたはずなのに、
    震災の日からずっと、私の時は止まっていて、私の心は岩手にある。
    ことあるごとに、故郷澄んだ空気、爽やかな風、はるかな岩手山を思い出し、
    同時に、恐ろしい地響きと灰色の空、たくさんの涙が蘇る。
    きっとずっと消えることはないのだろう。
    この痛みは、私が故郷を愛しく思っている証だから。
    あの日の心の震えを胸に抱いて、これからも生きていく。

  • <3月4日放送>

    投稿者:義経(よしつね)さん(盛岡市)

    盛岡市のニックネーム義経さん(67歳)からお寄せいただきました。

    義経さんは、震災の時、県庁で児童福祉の仕事を担当していたそうです。

    〜メッセージ〜

    大学の合格発表の翌日。
    揺れ、押し寄せ、崩れ、流された思い出の地。

    夢私は当時、県庁で児童福祉の担当として、
    被災孤児や心のケア対策に注力したが、
    実は保育下の園児や保育士の犠牲者が
    ゼロであったことも強く印象に残っている。

    預かった園児は保育士たちの決死の避難行動によって、
    全員が守られた。

    田背景には、児童福祉施設が遵守すべき最低基準に
    「毎月1回の避難訓練」が規定されており、その結果、
    保育士や園児に避難行動が身に付いていたことが挙げられる。
    毎月1回の避難訓練というのは、
    おそらく世界的にも日本だけではないだろうか。

    裏山を、保育士達はおんぶし、手を引き、抱っこし、
    励ましながら避難したのです。
    称賛に値する行動です。
    何とか、このような素晴らしい避難行動があって、
    多くの幼い子ども達の命が守られたことを、
    広く知らせて欲しいものです。

  • <3月8日放送>

    投稿者:山崎正之さん(陸前高田市)

    陸前高田市にお住まいの山崎正之(58歳)さんからお寄せいただきました。

    震災当時、避難所で、ボランティアの人が作ってくれたそばの味が、今も忘れられないそうです。

    山崎さんは、それをきっかけにそば打ちを始め、仮設住宅でイベントなどがあると自ら打ったそばをふるまっていたそうです。

    〜メッセージ〜

    避難所に居た時に、その人が来ました。
    「規模の小さい避難所を探して来ました···」と。
    「もし良かったら、私の打ったそばを食べませんか?」と。
    もちろん断る理由もありません。
    岡山から一人で来てくれました。
    あの時の「そば」が美味しくて美味しくて···。

    ボランティアさんの気持ちに感謝。
    出会いに感謝。
    そしてありがとうを言いたいです。
    私は感銘を受け、そば打ちを始めました。
    仮設住宅で始めたそば打ち···
    今も継続してます。

    もうすぐ十年経ちますが、
    あの時のそばの味が忘れられません。
    その気持ちを忘れずに、
    これからもそば打ちを続けていきたいと思います。

  • <3月9日放送>

    投稿者:及川かほるさん(釜石市)

    及川さんは震災の津波で同じ釜石市内に住んでいた両親を亡くしました。

    震災が発生する直前の母親とのエピソードをメッセージとして寄せていただきました。

    〜メッセージ〜

    3月1日は、母の誕生日です。
    10年前の3月1日 仕事でお祝いに行けなかったので
    寿司の出前を頼んで届けてもらいました。

    仕事から帰ると実家の母から電話があって
    「寿司食べたよ。美味かった。ありがとう」。
    私は「行けなくてごめんね、来年も食べるべね」と言うと
    母は「なんたがな〜来年も食べれっぺがな〜」と言うんです。
    私はなんだか悲しくなって 「なに言ってんの!来年もまた来年も誕生日すっぺし」。
    その会話が誕生日の会話でした。

    あれから毎年3月1日の誕生日には寿司を仏前に御供えしてお祝いしています。
    墓参りに両石から桑ノ浜に向かって車を走らせる時
    右側の海を見ながら涙が込み上げてきてこれから何十年経っても
    忘れることはないあの記憶です。

  • <3月10日放送>

    投稿者:佐々木高志(ささき・たかし)さん(東京都)

    陸前高田市出身で、いまは東京渋谷区にお住まいの、佐々木高志さんからお寄せいただきました。

    震災当時、佐々木さんは陸前高田市の実家に住んでいて、津波で母親と祖母を亡くしました。

    そして、2013年、仮設住宅で暮らしている時、震災前に患っていた病気が再発しました。

    〜メッセージ〜

    私は故郷の陸前高田で被災し、
    更に2013年に震災前から患っていた脳腫瘍が再発したために東京の病院に2度入院し、
    退院後もリハビリのために東京に転居しました。
    その後は運よく就職できてそのまま故郷を遠くから想う側になりました。

    そして気が付けば10年。
    でも10年が経過する前に星になってしまった恩人・友人がいます。
    自治会運営について教えてくださった方、仕事でお世話になった方、震災で亡くした母代わりにと笑顔で接してくださった方、真剣に故郷の未来を考えていた方、共に10年目を迎えたかったです。
    本当にありがとうございました。

  • <3月15日放送>

    投稿者:沼ア房子(ぬまざき・ふさこ)さん(釜石市)

    釜石市鵜住居の沼ア房子さんからお寄せいただきました。

    母と妹、それに2人の姪の合わせて4人が避難先で津波の犠牲になりました。

    息子の健さんは語り部としても活動していますが、一時ひきこもりの状態になったということです。いまは東北地方整備局に就職し、港の安全や整備に携わっているそうです。

    〜メッセージ〜

    ショートメールだけは何とか送ることが出来たあの日、
    「防災センターに母や娘たちと避難している。健たちはまだ学校から帰って来ていない」と妹からの返事。
    「津波が来てるよ!」と何度も何度も送ったメールには、
    返事が来ることはありませんでした。

    大好きな祖母を亡くした息子は被災した学校の生徒会長。
    同級生を、後輩たちを引っ張っていくためにも、私も前を向かなくては。明るく元気に過ごさなくては。
    その思いが間違っていたことに気づいたのは、息子が大学生となり一人暮らしを始めたときだった。
    一人の時間に思うことはあの日のこと。
    知らぬ間に引きこもりとなっていた。
    大学生活4年目に、やっとそこから抜け出せた息子は社会人となり、元気に働いている。

    大切な人を亡くした皆様、その人を知るのはあなたです。
    思い出して泣いてもいいんです。
    大切なふるさとを思い出して戻りたいと悲しんでいいんです。
    私たちだから知っている良さなんですから。
    そしてまた、天国のあの人が笑顔になるように、
    生きている大切な人が楽しく優しく生活できるふるさとを少しずつ作っていきましょう。
    生きていれば、ものは手に入れられる。
    命はどんなに働いても、お金をかけても再び戻ることはありません。
    だから、避難しましょう。
    災害死亡者ゼロは叶えられる、そう思います。

  • <3月17日放送>

    投稿者:中村俊介さん(遠野市)

    遠野市にお住いの中村俊介さん(28歳)からお寄せいただきました。

    震災の時、中村さんは、高校3年生。

    実家のある宮古市鍬ヶ崎にいました。

    〜メッセージ〜

    10年前、「いつも」も「普通」も「当たり前」もなくなった。
    当時は高校3年生。卒業式も終わり、大学進学を控えていた。

    突然の大きな揺れ。
    2日前の地震よりはるかに大きい。迷わず避難した。
    避難場所から聞こえてきたあの音が、すべてを壊し、飲み込んでいった。

    2日後に家を見に行った。
    倒れた鉄塔に引っかかり、奇跡的に残っていたその家は、1階が潰れていた。
    明日すら、どうなるかわからない。
    弟はまだ小学4年生だ。
    進学せずに働くべきか。
    気を紛らわす手段もなく、長い長い1日の中で
    そんなことばかり考えてしまっていた。

    10年後、夢を叶えることができた。
    試験に合格し、4月から教諭として働く。
    父と母は、高台に家を建て、元気に暮らしている。
    被災した家の近くには公園ができた。
    私にも家族ができた。
    来週には、新しい家族が産まれる。

    10年間、毎日立派に生きてこられたわけではない。
    けれども、「あのとき」があって、
    10年間の「これまで」があって、
    今生きていく「これから」があるのだ。

    未来へ生きていく子どもたちのために、
    私は「あのとき」と「これまで」を伝え続けていきたい。

  • <3月24日放送>

    投稿者:泉田貞子さん(軽米町)

    泉田さんは10年前、教師として宮古市にある特別支援学校に勤務していた際に地震が起きました。

    子どもたちはスクールバスで通っていたため、道路が通行止めになった影響で家に帰ることが出来なくなり、全員が校内で一夜を明かしたということです。

    泉田さんは現在、県北の高校で教鞭をとっています。

    「生徒たちには、どこに行ってもどんな災害にあっても必ず生きていてほしい。命を守ってほしい」と話していました。

    〜メッセージ〜

    10年前、沿岸の学校に勤務。
    実家は福島の原発から約30キロ。
    この経験を踏まえて、学校教育で震災を、防災を、
    減災をどう伝えていけば良いのか。
    どの方法が正しいのかも、いまだにわかりません。
    それでも、今、命ある生徒たち、
    これから震災を知らずに成長してくる生徒たち、
    未来の生徒たちにどうしても教え伝えなければならないと思い、
    教壇に立っています。

  • <3月25日放送>

    投稿者:畠山雅美さん(盛岡市)

    盛岡市にお住まいの畠山雅美さんからお寄せいただきました。

    震災の時、畠山さんは勤めていた陸前高田市の食品会社にいました。

    泉田さんは現在、県北の高校で教鞭をとっています。

    そして、翌日、必死の思いで盛岡の実家に車を運転して帰った畠山さんをお母さんが道に出て待っていてくれたそうです。

    〜メッセージ〜

    母は私の車を探して盛岡の自宅近くの通りに立っていた。
    涙を手でふきながら必死に立っている母の姿は
    汚れたコンタクトの私の目でもすぐにわかった。

    私は陸前高田市で被災した。
    震災当時、安全な高台にいたが多くの人が守るべき人のために平地に下った。
    私は身一つ、だから助かったにすぎない。
    どうやって内陸までたどり着いたか記憶がない。

    昨年、母は急逝した。
    コロナ禍、死が近づいていても母に会えない。
    母に会いたくて年甲斐もなく何度も泣いた。
    母の死と直面してはじめて別離の悲しみを実感した。
    岸壁の母はもういない。
    私をずっと支えてくれた母に感謝して、
    命ある限り人生を楽しみたい。

  • <3月26日放送>

    投稿者:中谷あかりさん(久慈市)

    久慈市の中谷あかりさんからお寄せいただきました。

    10年前は小学6年生。

    泉田さんは現在、県北の高校で教鞭をとっています。

    授業は午前中で終わって久慈市内の自宅にいた時に地震が発生し、すぐに高台にある親戚の家に避難したということです。

    中谷さんは震災後、祖父母が病院に通うのに付き添ううちに看護師と接する機会が増え、さらに、中学・高校の時の職業体験などを通して看護師の道を選び、去年4月から看護師として働いているということです。

    〜メッセージ〜

    震災当時 小学6年生。
    卒業式を数日後に控えた3.11。
    突然の大きな揺れ。そして津波。自宅は全壊。
    翌日 変わり果てた風景に私の心は空っぽになりました。
    空っぽになった心を癒してくれたのは先生でした。
    先生は「大丈夫、前を向いて歩こう」と言いました。
    私はたくさん支えてもらった分、恩返しをしたい、
    誰かの役に立ちたいと強く思いました。
    10年経った今、私は岩手県立病院で看護師として
    患者さん家族に寄り添える看護師を目指して、
    忙しくも楽しい毎日を過ごしています。
    あの時かけていただいた「前を向いて歩こう」の言葉とともに
    これからも成長していきたいです。

  • <4月13日放送>

    投稿者:ボラヘさん(釜石市)

    釜石市のペンネーム、ボラヘさんからお寄せいただきました。

    あの日、最愛の夫が、行方不明となったボラヘさんのメッセージです。

    〜メッセージ〜

    2011年3月11日、午後2時46分。
    私の人生を大きく変えた日。

    昨日まであった日常が無くなった日。
    ただいま〜って言葉が消えた日。
    あの日、私は最愛の人を失った。

    長男が幼稚園に行き次男が機嫌がいい約2時間。
    瓦礫の山の中を探し歩き、被災車両置き場も探し、安置所に行く。
    これが毎日の日課になった。

    帰りの車内で大泣きして家に着く頃には笑顔に戻す。
    もうメンタルがズタボロだった。

    月日が経つにつれ周りが普通の生活を取り戻しつつある中、
    私の心の時計は動きを止めたまま。
    徐々に周囲から取り残された感がつよくなった。
    何事にもついてまわる「行方不明」。

    8ヶ月後、市役所からの「ずっと放置してある車の廃車手続きをして下さい」
    と言う電話で一転した。
    あの人の車は被災した車が重なりあった一番下にあった。
    潰れた車の中にあの人は眠っていた。

    なぜ重ねる前に中を確認してくれなかったんだろ。

    確認してくれたらもっと早く見つけられたかもしれない。
    私は市役所の方を責めた。
    それと同時にいつも行ってた所なのに見つける事が出来なかった自分も。
    そしてこの記事に対するSNSで流れてくる心無い言葉達は
    私の心をこれでもかとボロボロにしてくる。
    いつしか人を信じられなくなってた。

    「なんで私ばかりこんな目に遭わないと行けないの?
    ねぇ〜パパはズルいよ。
    笑ってないで助けてよ」。
    毎晩遺影に浴びせる言葉。
    あの頃の記憶が全く残っていない。
    残っているのは辛い現実と辛い言葉達だけ。

    震災から10年。
    何とかここまで来れたのは私を支えてくれた方々の
    お陰だと思います。
    ずっと寄り添ってくれた支援団体の方々。
    同じ境遇の方々。
    親友。そして家族。
    本当に感謝しております。
    1人じゃなかった!
    だからここまで来れた。
    もう大丈夫。
    ずっと逃げてきた記憶と向き合えたから。

    何が起きるか分からない世の中。
    もしかしたら今日が最後かもしれない。
    過ぎたことは後悔しても戻らない。
    だから今やれる事をやるんだ。
    家族が朝出かける時は、行ってらっしゃいって見送ろう。
    もし、また大きな揺れが来たら、
    帰ってきてと言わず、逃げて!と言おう。

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