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岩手とつながる朝ドラ「らんまん」牧野富太郎 手紙見つかる

  • 2023年04月24日

毎日のようにNHKに届く大量の取材依頼。
その中で、先日、ある手紙に目が止まりました。 

“私の手元に牧野富太郎の書簡があります”

 牧野富太郎と言えば、現在放送中の朝ドラ『らんまん』の主人公(のモデル)。1500以上の植物に名を与えた「日本植物学の父」と呼ばれる人物です。私は恥ずかしながら朝ドラ決定まで知りませんでしたが、1200以上の牧野のスケッチを堪能できる『牧野図鑑』と言えば、一度は聞いたことがある人も多いと思います。

差出人は盛岡市内に住んでいて、盛岡放送局から車ですぐの距離ではありませんか。すぐにアポを取り、ご自宅へ向かいました。 

手紙から読み取れる牧野を知ると、朝ドラが、ぐっと楽しくなることうけあいです。
(盛岡放送局 記者 髙橋広行) 

2023年4月25日「おばんですいわて」で放送
※放送動画はこの記事の一番下にあります

亡くなった夫が残した“手紙”

手紙の送り主は、盛岡市に住む三上れい子さん(89)。

三上れい子さん

長年にわたり古着のリフォーマーとして活躍されていて、年齢を感じさせないエネルギッシュな人です。 早速、牧野の手紙を見せてもらいました。 

いずれも昭和20年代のもので、全部で16通ありました。 

三上れい子さん
「牧野さんの手紙は、15年前に亡くなった夫が学生時代や若い頃に受け取ったものなんです。2階の書斎のあのへんにあるんだよなと思っていましたが、ちゃんと読んだことは一度もなくて…。今回読み返してみて、とにかく驚きましたね」

見ず知らずの学生に

やり取りをしていたのは、岩手県内の小中学校で教員をしていた、夫の信夫さんです。 

三上信夫さん(享年81)1995年10月放送ETV特集より

県教育委員会で働いていた昭和30年代に、岩手の山間部で貧しく厳しい生活を送る母親たちと出会い、彼女たちに手記を書くよう促し、長年まとめる活動をしてきた人でもあります。 

幼いころ、食糧難をしのぐため、父親に教えられて食べられる野草を探し回ったことで、大の植物好きになったそうです。 そして、昭和22年の学生だったときに、牧野との交流が始まりました。

三上れい子さん
「夫は学生時代、とにかく『牧野図鑑』が欲しくて、岩手師範学校(岩手大学教育学部の前身)の学生寮の洗濯場で、一生懸命アルバイトしたと言ってました。よっぽど欲しかったんでしょうね」

しかし、お金はたまったものの、盛岡では図鑑は入手できませんでした。
そこで信夫さんは思い切って、東京の牧野に手紙を書いたのです。 

右:岩手師範学校時代の信夫さん
左:信夫さんが撮った植物の写真

すると返事が来たのです。
この時、牧野は85歳でした。

昭和22年(1947年)5月付 
「いろいろと植物について研究されていて、この上なくうれしく思います。大いに馬力をかけて、さらに研究されることをおすすめします」 
「さて、ご希望の植物図鑑ですが、私の手もとにも控えがあるのみで余分のものはなく、お分けすることはできず、誠に残念です」 
「別に(牧野の著作である)『植物採集及び標本調整』一冊をお送りいたします」 
「植物は実物の学問ですから、実地の観察が最も大切です。なので採集が極めて重要ですから、これを怠ってはいけません。何かわからない植物は標本を送ってくれれば、いつでもその名前をお知らせいたしましょう。これが植物を知る一番便利な方法です」
※手紙は現代語に訳しています

見ず知らずの学生への丁寧な返事に、信夫さんは感激したといいます。 

以来、信夫さんの質問に牧野が解説をするやり取りが、亡くなる3年前まで、7年間も続きました。手紙には、植物の学名や細かい特徴が、びっしりと書き込まれています。
例えば、こんな感じです。 

「ギンリョウソウモドキの方は果実が朔果で熟すと開裂しますが、ギンリョウソウの方は白色の漿果で一方にうなずくように傾いており、よく熟すと崩潰(崩壊)します。こちらはあまり普通には見かけません」「両方とも花の時の外形は同じなので、ほとんど区別できないが、果実ができると明らかに区別がつく」

三上れい子さん
「まるで『通信講座』ですよね。牧野さんは、夫のひとつひとつの質問に対して、自分の持てる知識をすべて書く、出し尽くしている。おそらく牧野さんが大学で教えられていたのと同じように、細かく深く書いてくださったのではないかと思い、そのお人柄が素晴らしいなと思いましたね」

牧野富太郎(高知県立牧野植物園提供)
植物の学名や特徴がびっしり

“大自然の神秘と魅力のとりこに”

ある手紙からは、信夫さんが、ふるさとの岩泉町で珍しいセリ科の植物を見つけて、牧野にその苗を送ったこともわかりました。 

昭和23年(1948年)6月付
「今回は誠に珍しいクロバナウマノミツバの苗を、わざわざ送ってくれて誠にかたじけなく思います。早速我が庭へ植え、元気に育つことを願っています」

れい子さんが、少し自慢げに話してくれたのは、昭和24年(1949年)5月の手紙です。
信夫さんは、ミズバショウのスケッチを牧野に送ったのですが…。 

「あなたの写生画を拝見して大変感心しています。その筆の運びがのびやかで、滞りなく、しかもよく整っていて、実に立派です。誠に見ていて気持ちがよいです」

スケッチの達人にこうまで褒められた信夫さんは、牧野との交流をどう思っていたのか。

生前、れい子さんに多くを語ることはなかったそうですが、自宅からは、信夫さんが書き残したメモが見つかりました。 

当時、牧野先生からこんな返事をいただくとは不思議なもので
先生とともに学んでいるような親しみを覚え
あの戦後の混乱した世相を忘れて
野に山に植物をあさり
大自然の神秘と魅力のとりこになってしまった
 (信夫さんのメモより)

朝8時に『らんまん』を見るのが、すっかり日課になったというれい子さん。 朝ドラを欠かさずに見るのは、あの『おしん』以来、40年ぶりだそうです。 

真剣な表情で『らんまん』を見るれい子さん

三上れい子さん
「私ずっと朝ドラは見ていなかったんですけど、今回ばかりは絶対見ようと思って。見逃さないように、8時に携帯のタイマーをかけて、鳴ったらテレビつけて。お友達にも色々と伝えました。牧野さんが、どのようにして植物分類学に情熱を注ぎ、自分のものにしたのか、そのプロセスを見るのが本当に楽しみです」

取材後記 

植物学の大家となっていた80歳を超えてもなお、地方の一学生に丁寧に返事を書いていた牧野。90歳ごろまで、植物採集のために全国をめぐり、岩手県にもたびたび足を運んでいましたが、改めて、どんな人生を歩んだのか、最後に少しだけ紹介します。 

牧野は幕末の1862年に高知県の豪商の長男として生まれました。裕福な家でしたが、幼いころに、両親と祖父を相次いで病気で亡くし、祖母のもとで育ちました。 

そして、22歳の時に、独学で培った植物の豊富な知識と、まるで本物のようなスケッチに専門家が驚嘆。東大生でも何でもないのに、東京大学植物学教室への出入りを許されるようになるのです。 

ここで、さらに知識を磨き、植物学の雑誌をまとめていきますが、やがて、東大は出入り禁止となり、研究費にお金をつぎこんで、家業は破産。長い長い借金生活に入ります。 

苦難の連続をどう乗り越えていったのか、それが果たしてどう描かれるのか、今後の「らんまん」が楽しみです。

放送した動画はこちら

  • 髙橋 広行

    盛岡放送局 記者

    髙橋 広行

    埼玉県川越市出身。2006年入局。広島局、社会部、成田支局を経て、2019年から盛岡局。8歳と5歳の暴れん坊(甘えん坊)将軍の父親。大きな声では言えませんが、私も朝ドラに久しぶりに夢中です。

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