派遣応援職員が語る「岩手の8年間」
- 2023年03月27日
応援職員として岩手で8年勤務
東日本大震災の発生から12年が経過しました。この間、被災地の復旧・復興のために全国の自治体などから派遣されているのが、いわゆる「応援職員」です。そのなかで、長期にわたって岩手で応援職員として勤務している人がいます。

山田町都市計画課に勤務する山田津八百(やまだ・つやお )さん(68)。鳥取県米子市から応援職員として8年前・2015年に岩手県に派遣されました。最初は宮古市に3年。2018年からは隣の山田町で都市整備計画を担当しています。岩手での応援は通算で8年。現在、勤務している応援職員の中では最も長い期間、復興支援にあたってきました。
契機は鳥取県での地震対応
土木技師の山田さんが震災の復興事業に関わるきっかけとなったのは、2000年に起きた「鳥取県西部地震」でした。

最大震度6強を観測したこの地震は死者こそ出なかったものの、住宅の倒壊や市街地の液状化現象などの被害が相次ぎました。当時、米子市の職員だった山田さんも住宅の被害調査などに追われました。この時に、災害復旧における土木技師の必要性を痛感したと言います。また同時に、今後大きな地震災害が発生した場合には、自らの技能を復旧活動に役立てたいと、この時から考えるようになりました。
そして鳥取県西部地震から11年後の2011年、東日本大震災が発生しました。山田さんは過去の経験から、すぐにでも被災地で復旧支援を行いたい考えました。しかし、当時の山田さんは建設部の次長だったため、持ち場を長期間不在にして自らが被災地に行くことは立場上、不可能な状況でした。当時、山田さんは56歳。何としてでも支援をしたいと考えた結果、4年後に定年退職してから被災地に向かうことを決めました。
(山田さん)
「都市計画関係の仕事が長かったもので、そういう仕事だったら貢献出来るだろうということがありま したので、そういう仕事が果たして(被災地に)残ってるだろうか、という気持ちを持ちながら、4年間を過ごしていました」
2015年に被災地・岩手へ
山田さんが最初に赴任した被災地は宮古市でした。初めて訪れた地で、まず驚いたのは市内にある田老地区の防潮堤の状況でした。
(山田さん)
「”万里の長城”と言われていた防潮堤がズタズタに壊されていた。最初にニュースで見たときは信じられなかったが、現場を見て、あらためて被害の大きさを実感しました」
また、津波の被害を受けた市街地を見たのも初めてでした。
(山田さん)。
「地震の場合はまだ、倒壊した建物が現場にがれきとして残るが、津波の場合は何も残さないで奪っていくという違いを知りました」。
宮古市では3年間、都市整備計画の策定などを手がけました。その後、一定のメドがついたことから鳥取県に戻るという選択肢もあったといいます。

しかし山田さんは、まだ被災地でやれることがあるのではないかと考えていました。そして、隣の山田町で都市整備計画に詳しい人を募集しているという情報を聞き、引き続き岩手に残ることを決めました。
台風19号の復旧にも対応
山田町に赴任して1年後、台風19号が岩手県沿岸を襲いました。この台風で山田町は一時間あたりの降水量が観測史上最大となる77.5ミリを記録。特に町内の「田の浜地区」では被害が大きく、震災後に海側に設けられた堤防沿いの住宅を中心に118棟が浸水しました。

被害を拡大させる結果となったのが、津波を防ぐための「堤防」でした。この堤防が大雨で川からあふれ出した大量の雨水をせき止めてしまったのです。山田さんは被害を検証する委員会に入って原因や対策を分析しました。

その結果、堤防に開閉できる扉を設け、水がたまりそうな時は扉を開けて排水できるように改修されました。
(山田さん)
「(堤防の完成で)津波対策はできるなと思ってたんですけど、まさか背後の方から、土石流が起こるというのは夢にも思ってませんでした」
また、被災した住民を対象に開かれた説明会にも参加して、自宅が浸水した人たちから被害状況や要望なども聞き取りました。専門分野以外の部分でも対応する山田さんに、地元の職員も助けられたといいます。
復興進み応援職員も減少
8年間、2つの市と町で災害対策や都市計画づくりに携わってきた山田さん。
しかし山田町復興事業はほぼ終わり、町は新年度、応援職員の派遣要請をしませんでした。

「(都市計画を) しっかりと作ってもらいましたので、今後、それに向かって進んでいくというとこ ろで、1つの区切りを迎えた。いつまでも人にすがるのではなく、自力で立っていく」
ただ、一方で佐藤町長は「沿岸自治体が共通に認識している問題として、職員の不足というのがある。職員が慢性的に人が足りないという状況があるんですね。それは災害(震災)が影響している部分もあるのかもしれません。直接的な因果関係は分からないけれども。本音を言えばもう少し、支援の期間があった方が地元の職員も違う仕事もできるし、まだ必要な部分はあります。これは間違いなくあります」とも話していました。

退任まであと半月ほどに迫った3月中旬。通算8年、応援職員として勤務してくれた山田さんをねぎらおうと、同僚の職員が町内の居酒屋で送別会を開きました。地元の若い職員は、知識と経験が豊富な大先輩が去ることの寂しさや不安な気持ちがある一方で、自分たちの力で引き継いでいくことを山田さんに伝えました。
(山田さん)。
「来て良かったと思ってます。やはり岩手の人の人情というのがあって8年間、続けられたと思ってます」。
変わる応援職員の役割
震災後、県内に派遣された応援職員はのべ7000人以上。ピーク時は951人いましたが、
新年度は31人と、30分の1以下になります。また、求められる業務も、土木や都市計画から地域の福祉や見守り活動に比重が移っています。8年間、復興を見続けてきた山田さんも、復興は新たなステージに入ったと考えています。

「(町の復興を)最後まで見届けたいという気持ちはありますね。モノができたからといって、じゃあ快適に暮らせるかというと、そうではないと思ってます。引き続き、そういう心のケアとかをやっていく必要があると思います」
震災から12年が経ち、応援職員の数も年々減り続けていますが、それでも被災地では今なお支援の手を必要としています。新年度からは31人の応援職員が被災者と向き合いながら、見守り活動や地域コミュニティの再生などに取り組みます。
取材後記
県内での派遣応援職員の活動については、これまでにもたびたびニュースで取り上げられてきましたが、たまたま年度ごとの応援職員の数を調べていた時に、現在8年目の職員の方がいると聞いて非常に興味が湧き、今回山田さんを取材させていただきました。自身が手がけた都市計画をベースに町がにぎわいを取り戻し発展している事を確かめるため、山田さんはまた再び岩手を訪れたいと話していました。
【NHK盛岡放送局 記者 志子田仁人】