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船大工たちの写真集

大槌町の12年間の復興の軌跡
  • 2023年03月10日

東日本大震災と津波から12年を迎える3月、ある写真集が完成しました。
その本のタイトルは『造船記』。
大槌町の船大工たちを中心に、1つの町が被災し、立ち上がり、復興していく様子を追い続けた写真家が写真集に込めた思いを取材しました。
                            (盛岡放送局 記者 渡邊貴大)

※3月10日「おばんですいわて」で放送 ページ下部に動画リンクあり※

始まりは気づかずに撮った1枚の写真

 

大槌町

岩手県大槌町。沿岸南部に位置するこの町は人口1万人あまり。ひょっこりひょうたん島のモデルとなった「蓬萊島」が有名な漁業が盛んな町です。12年前の3月11日、大槌町は東日本大震災と津波によって1286人が犠牲になり、4000棟を超える建物が被災し、町全体が壊滅的な被害を受けました。町の基幹産業となっている漁業への被害も深刻で、漁船が津波の被害を受け、まともに漁に出られる船はほとんど残っていない状況でした。

野田雅也さん


 写真家の野田雅也さんが大槌町を初めて訪れたのは、町もなりわいも再起不能とも思えるダメージを受けて間もない、震災から1週間後の2011年3月17日でした。
 

被災した岩手造船所

当時、町内の民宿には2階の屋根の上に観光船が打ち上げられ、津波の威力を伝える光景として、繰り返し報道されていました。野田さんもその光景を目にしてカメラのシャッターを切りましたが、その写真に偶然写っていた場所こそ、その後、野田さんが12年の長きにわたり通い続けることになる「岩手造船所」でした。

写真家 野田雅也さん
当時はここが造船所ということは分からないような悲惨な状態だったけど、たまたま1枚だけ撮影している写真を後になって見つけたんです。2005年にインドネシアのアチェで津波の被災地を取材したときにも民家の上に漁船が乗った写真を撮影していて、打ち上げられた観光船を見たときに津波の強さというのがそのシーンとすごく重なって、実際に津波の威力や恐怖というものを身に染みて知りました。

 この光景が印象に残ったという野田さん。震災から1か月後の4月に再び岩手造船所を訪れ、そこで初めて、造船所で働く船大工に出会いました。

写真家 野田雅也さん
がれきの撤去をされていたんですけど、その時に船大工の人たちが、『この場所でもう一度やるために片づけてるんだ』ということを話してくれました。当時はまだ遺体捜索とか、行方不明者の捜索でみんないっぱいいっぱいで、復興とか先のことを考えるような時ではなかったんですね。それなのに、ここの船大工の人たちは俺らはもう一度やる、再開すると。にわかには信じられなかったものです。

動き出した、船を造る男たちの記録

岩手造船所

 現在、町内に唯一残る造船所となった「岩手造船所」。さけの定置網漁や養殖業で栄えてきた漁師町・大槌町で、明治時代から船を造り、直しては海に送り出してきました。現在、大槌漁港に停まる300隻あまりの船の多くが、震災後、岩手造船所で修理されています。
 野田さんは、船大工から造船所を再開するという話を聞いた半年後、どうしてもその言葉が忘れられず、三たび大槌町を訪れました。そこで目にしたのは、津波で壊れた漁船を、必死にかき集めた材料を使って修復する船大工たちの姿でした。

岩手造船所の船大工 池田有一さん 浜田善成さん
俺たちは船のことしかできないから、ただ船を直すっていうそれだけですね。直せばそこからすべてが少しずつ良くなっていくでしょうから。私たちができるのは船を修理することぐらいでしたから。町の復興をっていう大きな考えより、自分たちのできることをちゃんとすれば、良くなっていくんじゃないかという確信みたいなものがありましたね。

 油まみれになりながらも黙々とハンマーを振るう船大工たちの姿。撮影を続けるうちに、野田さんはある思いを抱くようになっていったといいます。

写真家 野田雅也さん
復興の兆しが見えたというか、もしかしたらこの人たちは船を造り続けて、この町にまた明かりがともる日まで復興を続けていけるんじゃないだろうかと感じました。その時に、私も一緒にこの町で、誰がどうやって復興していくかを見続けていきたいという気持ちが湧いてきて、最後まで撮影していくことを決めました。

 野田さんは事務所がある埼玉県から、数か月に1度は足しげく大槌町に通い続け、造船所を中心に町が復興をしていく姿を撮り続けました。記録を残していく中で野田さんは、漁師町の復興を支える、造船所の役割を目の当たりにした瞬間があったといいます。その象徴という1枚の写真を紹介してくれました。写っているのは、船大工たちのイクラ弁当。震災の翌年、1月に撮影されました。

写真家 野田雅也さん
お昼にうれしそうにイクラ弁当を食べているから、『それどうしたんですか』って聞いたら、『実はきのう、漁にいった漁師さんたちが、サケを大きなたるに入れてどっと持ってきてくれて、それを1日、しょうゆでつけたものなんだ』と教えてくれたんです。僕が非常に感銘を受けたのが、人と人がなりわいを通じてつながりあっていることでした。自分たちが直した船で、震災後初めてサケを取ってきてくれて、無事に漁を再開できたお返しとしてイクラをもらって。この時に町が復興に向けて動き始めたなと強く感じました。

灯り始めた復興の明かり、写真集に

 造船という自分たちの仕事を通じて、着実に漁業の町・大槌町の復興を進めていく船大工たち。なりわいの漁業が再開され、建物も再建されていく中で、地域の伝統芸能や祭りも復活。野田さんの写真にも次第にそういった地域の活気ある様子を写した写真が増えていきました。
 復興していく町の様子を見つめていく中で、野田さんは震災で傷ついたこの町が、再び立ち上がっていく様子を1冊の本にまとめたいという思いが強くなっていきました。 

写真家 野田雅也さん
記録に残すということで、この町を誰がどういう風に作ったという証にもなると思うんですね。岩手県大槌町ではこうして町を作ってきたんだよ、被災してももう1度立ち上がれるんだよ、ということを伝えることで、必ず復興はできるということを本を通して伝えられると思いました。

 

造船記

 撮りためた10万枚の写真の中から選び抜き、12年分の思いを込めた写真集に冠したタイトルは、『造船記』。ずっと追い続けてきた船大工たちへの敬意を込めました。寒風に耐えながら、油まみれでヤスリがけや溶接作業に打ち込む船大工たちの表情。被災した町の人の心を支えてきた伝統の神楽。造船所で修繕されて海に送り出されてきたいくつもの漁船…。1枚1枚に町の復興をつぶさに見つめてきた野田さんの思いが込められています。
 240ページに及ぶこの写真集の最後を飾るのは、震災から11年がたった、造船所がある赤浜地区の夜景です。この写真を写したとき、野田さんは大槌町の撮影に一区切りをつける決意が固まったといいます。

赤浜地区の夜景

写真家 野田雅也さん
この赤浜の夜景を撮影したときに僕はこの撮影を終えようと思ったんです。
レンズを通して見た赤浜の夜景が本当にきれいで、1軒1軒の明かりの下に皆さんの暮らしがあって物語があって。それを目の当たりにして、この町の成長というものを見届けさせてもらったことは本当に貴重な機会でした。被災直後は、こんな町ができるとは私も想像していなかったので本当にうれしくなったんです。それがカメラを置く、1つにまとめるきっかけになりました。

 届ける写真集、今は亡き船大工にも

 2023年3月2日。野田さんは完成した写真集を手に、大槌町にやってきました。お世話になった船大工たちに写真集を手渡すために造船所を訪れたのです。野田さんは12年間の感謝の言葉とともに、1冊ずつ渡して回りました。受け取った船大工たちは、その場で作品に目を通すと、懐かしさと照れくささが入り交じった表情で笑っていました。 

岩手造船所 船大工 浜田善成さん
とにかく必死だったからね。1日1日が必死だったから、こうやって記録を残してくれて感謝ですね。今になってこういうのを見ていれば忘れかけていたことも思い出すことができます。

 この日、野田さんが訪れたのは造船所だけではありませんでした。震災と津波を生き延びながらも、8年半前、造船所での作業中に亡くなってしまった、船大工の山﨑力さんの自宅です。

山﨑力さん

山﨑さんは、大槌町の造船所に通うようになった野田さんが、1番最初に打ち解けることができた船大工でした。仏壇に手を合わせ写真集の完成を報告した野田さんは、山﨑さんの妻や息子とともに、在りし日の姿を忍びました。

山﨑力さんの長男・直弥さん
父親が働いてるところを見たことなかったので、こういう仕事してるんだって思いましたね。やっぱり働いている姿が格好いいな。憧れますね。津波で写真とか全部なくなっちゃったから、こういう風に残してくれると本当に、ありがたいです。宝物ですね。

 海のまちに12年、船大工たちが響かせてきた復興のつち音を追い続けた野田さん。
撮影での関わりは1つの区切りを迎えましたが、再建が進んだ家々に明かりが戻り、船が毎日、漁に出て行くようになった新しい大槌町を、今後も見続けていきたいと話していました。

写真家 野田雅也さん
記録に残してもらえたことが本当に感謝ですという言葉いただいて、自分の中でも1つの仕事を終えた安堵感があります。12年間通い続ける中で、写真を撮って何ができているんだろうかと悩むこともあり、辛くてやめたくなる時期もありました。それでも、繰り返し来ることで、私自身が大槌の人に元気づけられ続けてきました。12年間、1つの町、1つの地域の人たちを見つめることで、復興の過程を見ることができ、こうして形にすることでみなさんに見てもらえて、お孫さんや津波のことを知らない世代の人たちにも見てもらえる。こうやって町ができたんだということを伝えられたら本当に撮影を続けてきてよかったと思います。
1つ1つ掘り下げればいろんなことがあった12年間で、もちろん亡くなる方もいらっしゃれば人生が大きく動いた方もいる。そういったことに向き合い続けた、とても長い12年間でもありました。

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