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新しいまちで“後ろ向きの全力疾走”

岩手 陸前高田 東日本大震災12年その先へ
  • 2023年03月07日

東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けた陸前高田市。
あれから12年。
大規模なかさ上げ工事が行われた中心市街地では大型商業施設周辺に店舗が立ち、新しいまちの姿が徐々に整いつつあります。
その中心市街地に店舗を再建した男性は、かさ上げされる前の10m下の“埋もれたまち”への思いを残しながら、若い世代に復興のバトンを渡すため、にぎわいづくりや人材育成に参画しています。
“埋もれたまち”を見据えながら“上のまち”で「後ろ向きに全力疾走する」姿を追いました。
(NHK盛岡放送局 大船渡・陸前高田支局 記者 村上浩)

震災12年 新しいまちで

震災後初めて中心市街地を行進する消防団員

陸前高田市で1月9日に行われた消防出初め式。
式に先立って消防団員が分列行進を披露しました。
中心市街地での行進は震災後初めてで実に12年ぶり。市民に見守られ団員たちは引き締まった表情で行進を披露しました。

陸前高田市消防団高田分団第3部の菅野秀一郎さん

ひときわ誇らしげに歩いたのは菅野秀一郎さん(47)。
地元を管轄する消防団高田分団第3部の部長として仲間を率いました。

もともと出初め式で商店街を行進するのは当たり前のことだったので、やっと要望がかなった。震災前と震災後をつなぐことができたと思う。

かさ上げ工事のあと店舗や住宅が再建された中心市街地

1800人余りが犠牲になるなど県内最大の被災地・陸前高田。
その後、大規模なかさ上げ工事など、まちをいちから作り直す復興事業が進められました。
震災から12年。中心市街地には大型の商業施設や周辺には60を超える店舗が立っています。
2022年11月には市立博物館もオープンし、人の流れも徐々に増えつつあります。

再建し2018年にオープンした「菅久菓子店」

消防団の菅野さんは創業およそ130年の老舗菓子店の5代目です。
借金整理のため経営していた2店 舗を閉めようとしていた矢先に震災に遭い、店は流出。
市職員だった弟や叔母、消防団や商店街の仲間を失いました。
いったんは商売を諦めかけましたが、周囲の支えやふるさとへの思いから再建を決意。
店をオープンした2018年4月23日は亡くなった弟の誕生日でした。

老舗菓子店の5代目・菅野秀一郎さん

菅野秀一郎さん
「自分ができることは何だろうなと思ったら、やっぱりお菓子を作ることだったのでお菓子を作るには店を再建しなければと。商売を続けていくことが陸前高田のまちを復興させるための1つの力と思いました。高田が好きなんです」

“後ろ向きの全力疾走”

そんな菅野さんと向かった先は、かさ上げ地の一角に立つ追悼施設。
震災で犠牲になった市民などの名前を刻んだ刻銘碑には菅野さんの弟や叔母、そして商店街や消防団の仲間たちの名前も。
ここに来ると震災前の思い出にに引っ張られそうで、あまり足が向かないと言います。
やはり理想は震災前のまちなのか尋ねました。

いや違います。理想にしちゃうと絶対ダメな街になっちゃう。でも思い出がある。それに引っ張られてしまうが、それをやっちゃいけない。結局、俺の頭の中に陸前高田市高田町ってまちが2つあるんでしょう」

取材を続ける中で出てきた言葉が……。

前向きでなく後ろ向きで全力で走ってる。2011年3月11日っていう地点を見ながら後ろ向きで全力で走ってる。だんだん遠くなって見えなくなってくるけど、その日を見ながら後ろ向きになって2023年になってる。俺だけじゃなくてみんなそうだと思うここに名前がある人たちと一緒になってまちづくりしてる覚悟があります。ここまで来られなかった人もいるし、そういう人たちの思いも含めて頑張って生きなきゃいけない。

新しいまちで「後ろ向きの全力疾走」とは。
言葉の真意を探ってみることにしました。
 

にぎわいづくりに奔走

商店主たちでつくる「高田まちなか会」

中心市街地の商店主などでつくる「まちなか会」の会合。
理事を務める菅野さんも交えてまちづくりの現状や課題について定期的に話し合っています。
店は再建を果たしたものの、観光客の呼び込みがまだまだ不十分なうえ、コロナ禍や物価高騰がのしかかり経営は厳しい状態が続きます。
参加した人たちは「それぞれの店舗の魅力を高めて発信する必要がある」という共通認識のもと、親しい商店主どうしでもふだんは明かさないオリジナルの取り組みを披露し合いました。
互いに刺激し合って商店街のにぎわいづくりにつなげようと考えています。

まちなかを行き交う人たち

この街全体を底上げするため、みんなと一緒に考えていかなきゃならない。震災から12年たったけど、多くの人の犠牲の上にかさ上げ地に商店が作られて商売してるわけですから。

「人を育て、つなぐ」場所

菅野さん率いる高田分団第3部の屯所

消防団の活動にも目を向けてみました。
現在、菅野さんが部長を務める市消防団高田分団第3部の屯所は、震災の津波で流されましたが、2018年12月に再建されました。
高田分団のほかの部の屯所は高台の浸水区域外に再建されましたが、第3部の屯所は唯一、まちなかの浸水域に再建されました。
団員の拠点だけで亡く、公民館代わりに地域のコミュニティーの拠点にもなっています。

商店とか住宅とかができて住す人や働く人、買い物する人が来る所を作るんだから、浸水域であっても、1つは屯所が欲しいと要望しました。確率の問題ですが、震災の大地震よりも火災の頻度が高い。津波注意報などが出れば団員は屯所から避難します。自分たちが率先して避難する姿を見せることで、住民や買い物客の避難を促すことにもつながるのではと考えています。

団員の名札 亡くなった仲間とともに

屯所の廊下には震災後に入ってきた団員の真新しい名札とともに殉職した団員の名札もかけられていました。当時の部長と副部長や菅野さんの同級生など6人の名前が薄墨で書かれていました。
当時残った団員は5人。
以来、12年に渡って菅野さんが部長を続けています。

夜のパトロールを終えて食事
団員

消防団はみんな和気あいあいとフレンドリーに接してくれるのですごく居やすい。菅野さんは後輩の意見もちゃんと聞いてくれます。

団員

震災後に移住してきましたが、菅野さんにいろいろな人を紹介してもらって助かっています。こういう風に集まること自体が珍しいし、若いやつも多くて家族のような感じです

菅野さんは消防団が「人を育て、つなぐ」場所になっていると話してくれました。

消防団は人づくりの場と語る菅野秀一郎さん

菅野秀一郎さん
「消防団はどこに行っても地域のリーダーとしてやっていける人材を作れる場所。震災前からの部員と震災後に入った部員と、高田で育っていなくても思いがあって入ってくる。笑っているけど奥さんを亡くしたり子どもを亡くした団員もいるし、当時の悲しみを抱えたうえで続けているから本当にすごいヤツだなと思うし、そういう我々を見て手伝いたいといって入ってきた団員もいる。縦とか横とか、いろいろなつながりの中で助け合える、お互いに切磋琢磨しあうっていうのもあるし、人を育てるのに非常にいい場所」

まちの復興を果たすのは、かつてのまちに引き戻されがちな自分たちよりも若い世代だと考える菅野さん。今はそのための「土台作り」と考えています。

こどもたちでにぎわう「まちなか広場」

菅野さんの店の隣にある「まちなか広場」は天気のよい日には親子連れでにぎわい、まちなかのシンボルにもなっています。この日は地元の保育園児が遠足で訪れていました。
かつてのまちへの思いや悲しみを抱き続ける自分は新しいまちの未来を実現するため、次の世代への“つなぎ役”に徹する。それが“後ろ向きの全力疾走”という思いではないかと、取材を通じて感じました。

かさ上げしてまちができて公園ができてというこの場所が今の子どもたちのふるさとになる。これが当たり前の風景になればいい。何とかにぎわいのあるまちを作りたいし、陸前高田を残していきたいので、もうちょっと頑張ります。

取材後記

菅野さんの“後ろ向きの全力疾走”という言葉の真意には何とか近づけた感じがしますが、もう1つ気になったことばがありました。
それが“死ぬのが楽しみ”という言葉です。
自分の寿命が尽きたとき、先に津波で亡くなった仲間たちに会いたいという思いでした。
1人1人に会って「あのとき逃げられなかったの?」と聞いてみたいし、自分が関わった新しいまちづくりについてどう思うかも気になるところと菅野さんは話します。
菅野さんの頭の中には、やはり2つのまちが矛盾なく存在してるのだなと改めて感じました。

まちなか会の会員は現在64店舗。今後は店舗数を増やすなどして利便性を高めまちの顔としての形を整えるとともに、海にほど近い復興祈念公園を訪れる観光客をどのように中心市街地に呼び込むかも課題です。
花火大会などの大型イベントと商店街との連動や歩行者天国の導入などを見据え、関係者と話し合いを進めることにしています。

  • 村上浩

    NHK盛岡放送局大船渡・陸前高田支局

    村上浩

    1992年入局
    2012年から宮城・福島などで被災地取材を続け2020年から現任地

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