殺人事件の遺族 受刑者に伝えた思い
- 2023年03月02日

その日はふだんと変わらない日のはずでした。岩手では夏日を観測し夏を感じさせた2011年6月11日の夕方、妻から電話が入り「果奈がアルバイト先に行っていない。友人が電話やメールをしても応答がない」という内容でした。私は仕事中でしたが、何度も娘に連絡をしました。しかし折り返しはありませんでした。不吉なことが頭をよぎり…娘のアパートの不動産屋さんに電話をしました。すぐに部屋を見てくれて電話が入りました。「娘さんの姿はなく、部屋の電気がついていて、玄関とベランダの鍵が開いている」。これは普通じゃない、娘の身に何かが起こったのだ。いてもたってもいられない状況の中、何とか仕事を終え、私は家に帰り、夜の11時くらいだったでしょうか、ニュースを見ました。千葉県木更津市で女性の遺体が見つかったというニュース。年齢が19歳~21歳。身長168cm前後。あまりにも娘と特徴が似ていたので、嫌な予感がしました。私は妻と一緒に近くの北上警察署に向かいました。事情を説明すると木更津警察署に電話をしてくれました。木更津警察署の担当者から「あす確認に来ることはできますか」と言われ、翌12日の始発の新幹線に乗って岩手県から千葉県の木更津警察署に向かいました。警察署で遺体が安置されている部屋に通されました。そこに横たわっていたのは紛れもない、冷たくなってしまった私の非常に大切な娘でした。言葉になりませんでした。立っているのも大変だったことは今でもはっきりと覚えています。明るく優しかった顔は苦しさに耐え、ゆがんだ姿に変わり果てていました。私は娘の乱れた髪を直して頭をなでながら『早く家に帰ろう』と涙ながらに話しかけました。
2023年1月27日。詐欺や窃盗などの罪で服役している盛岡少年刑務所の受刑者、約50人を前に自分の体験を話しました。罪を犯した人たちを前で話をするのは初めてのことでした。自分のような犯罪者被害者が出ない世の中にしていかなくてはならない。私の言葉を聞いてやはり、こういう人を出してはいけない。1人でもわかってもらい、再犯をする人がいなくなってほしいと思い今回、引き受けることにしました。
【なぜ娘が・・・今も続く父の後悔】
娘は残念ながら19歳で天国に旅立ちました。
生きていればことしで32歳。生きていれば今頃、どこで何をしていたでしょうか。彼女なりに幸せを見つけていたでしょうか。娘には愛する家族がいて、心を許せる友がいて、生き続けることができたならば、仕事に、恋にそれぞれ花開く人生があったはずです。19年間、ずっとそばにいた大好きな娘でした。

1991年(平成3年)10月、娘の果奈が生まれてきてくれた時は、本当に心から嬉しくて、この小さな命をどんなことがあろうとも守り、大切に育てていこうと誓った日でもありました。
小さいころから明るくて、優しくて、自分でなんでもやるしっかりした子でした。
思春期になっても親の私たちが心配するような反抗期もなく、素直に育ってくれました。

そんな娘だから地元の岩手県北上市を離れて大学で1人暮らしをすることになったときも私たちはあまり心配することなく、この子なら大丈夫だと千葉に送り出しました。大学に進学してからも日々、メールでやりとりを続け、2か月に一度はお互い、岩手から千葉、また千葉から岩手に帰省させたりして行き来していました。
娘は大学で英語や経済学を学んでいました。また、就職してから困らないようにとアルバイトをしてお金も貯めていました。

娘と最後に会ったのは事件のおよそ1か月前、大型連休の5月1日でした。
それまで住んでいた松戸市のアパートから、大学により近い市川市のアパートへの引っ越しを手伝うため、
私は妻とともに千葉を訪れました。この物件いいなと勧めたアパートでした。私と引っ越しが一段落し、娘に「一緒に岩手に帰ろう」と言いましたが、「アルバイトがあるから」と言われ、帰り際に私は新しい部屋で果奈と写真を撮ることにして妻に撮ってもらいました。最後の写真、忘れられない最後の写真です。

その写真が遺影となってしまいました。娘に対しては守ってあげられなくて悪かったというのが一番かもしれないです。僕が新しいアパートを勧めなければ今は生きていたかもしれないと思うと、やはりやりきれない気持ちになります。後悔しっぱなしかもしれないです。
【引っ越しのわずか1か月後に・・・】

果奈さんは市川市に引っ越してから、わずか1か月あまり後の2011年6月10日、アパートに男が侵入し車で拉致され、キャッシュカードを奪われ、こつこつ貯金してきた貯金50万円を引き出されたたあと、殺害されました。その後、木更津市内の林道に遺棄されました。強盗殺人などの罪で逮捕・起訴された男は、この事件の直前にも見ず知らずの女性の家に侵入し金を奪うなどする事件を2件起こしていました。
(菊池憲光さん)
「あとから娘の友人に聞いた話ですが、娘は大学を卒業するまでに必ず100万円貯めて両親を安心させるんだと言っていたそうです。就職活動や卒業旅行に向けた考えだったと思います。なのに犯人は、50万円どころか、命まで奪ったんです。」
果奈さんの父親、菊池憲光さんは男の裁判に「被害者参加制度」を利用して参加しました。
「どれだけあなたのした行為で悲しみに暮れた人がいるのかわかっているのか」。
「ちゃんと罪を認めて謝ったらどうなのか」。
思いを述べましたが男から反省や謝罪の言葉は一切ありませんでした。
さらに起訴内容を否認し「私はやっていない。他の男の犯行だ」と述べて無罪を主張しました。
(菊池憲光さん)
「なんて言えばいいんでしょう・・・当然怒りはありました。なんでこんな奴にやられなきゃならないんだってそのときは思っていました。『僕がやったんじゃないよ』と、核心に触れられるとなにもしゃべらない。都合が悪くなると黙り込む。常にうそばかりしゃべっているので聞くに堪えないというのは多々ありましたね。」
また裁判で、菊池さんは果奈さんの名前をあえて伏せて審理するよう、要望しました。
法廷で男に果奈さんの名前を呼ばれたくないという思いからでした。

(菊池憲光さん)
「男に娘の名前をさん付けなんかで呼ばれた暁にははらわたが煮えくりかえるどころじゃないですよね。それぐらい許せなかった。」
被害者参加制度で裁判に参加したものの、遺族として感じたのは日本の司法制度の限界でした。無残に娘を殺害した男に望んでいたのは極刑。父親として当然の感情です。しかし1人を殺害した被告に検察側が死刑を求刑することは極めて稀で、菊池さんも検察側の求刑が無期懲役になるだろうなということは感じていました。
千葉地方裁判所は2013年3月、「1週間という短期間に3つの事件におよび犯罪の常習性が顕著だ。架空の第3者が被害者を殺害したという不合理な弁解をし、反省の態度が全く見られず更生の見込みは乏しい」として求刑どおり無期懲役を言い渡しました。判決はその後、確定しています。
(菊池憲光さん)
「事前に検察官から『菊池さんの思いはわかりますが・・・』と言われていたので、求刑はわかっていましたが、判決は残念でしたね。殺めた人数という日本の司法があるじゃないですか。悔しいし残念ですけど今の制度ではやむをえないのかなと思いました。本当は極刑にしてほしかったですが、致し方ないのかなって。従わざるを得なかったというのが本音かもしれないですね」。
【支援される側から寄り添う側に】
事件後、菊池さんは気丈に振る舞い、家族のためにもそっとしておいてほしいと考えていました。
心の中では愛娘を失った悲しみを秘めて生きる日々でした。

(菊池憲光さん)
「平静さを装っていかなきゃいけないというのがどこかにあるのかもしれません。娘がいなくなった悲しみを押し殺して生きているというのは普通に見えるようにしないといけないじゃないですか。周りの人にも。心の片隅にはそういうふうに自分を作っているところがあるのかもしれないです。装っているといえば装っている。でも毎日、娘のことを考えるのですよ。いたたまれない気持ちというか、こればかりは誰にもわからない気持ちなのでしょうけど」
しかし今から5年前、菊池さんを支援していた弁護士から、犯罪被害者を支援する若手の弁護士に事件のことを話してほしいと依頼がありました。当初は自らの経験を話すことは考えていませんでしたが、辛い日々を支えてくれた人たちのことを思い出しました。
裁判の資料のうち、見たくない写真などを黒く塗りつぶして気遣ってくれた弁護士。
常に菊池さんや妻に寄り添い、親身になって話を聞いてくれた犯罪被害者支援センターの職員。
裁判などで千葉に行くと必ず送り迎えをしてくれた千葉県警察本部の警察官。
男がかつて服役していた刑務所に、受刑態度などについて確認してくれた検察官。
(菊池憲光さん)
「いろんな人に付かず離れず寄り添っていただいたので、支援される側から寄り添う側につければいいかなって思いました。お世話になったのと、娘の供養と、娘を忘れてほしくないという3つが大きいかもしれませんね」。
その後、被害者支援に携わる警察官などの前でも自らの経験を話してきたということです。
そうした中、去年11月、盛岡少年刑務所から講演の依頼が文書でありました。「受刑者たちに被害者の思いを知ってもらい、自分の犯した罪を向き合うきっかけにしてもらいたい」と記されていたということです。
菊池さんはどうしようかと考えたということですが、受刑者に講演をすることを決めました。いまも罪の程度に差はあれ、犯罪が日々、発生し、被害者が出続けていることを憂いてのことでした。
【再犯者減らし犯罪のない世の中に】

岩手県のおととしまでの5年間を見ても犯罪で検挙された人数自体は減っていて、減少傾向となっていますが、再犯者の占める割合には大きな変化はありません。おととしも45. 8%で半数近くが再犯という高止まりが続いています。
また去年、全国の刑法犯罪は60万1389件でSNSの闇サイトに応募したメンバーによる強盗事件なども相次ぎおととしより3万3285件、率にして5.9%増えました。2002年をピークに減少を続けていた傾向から一転し20年ぶりに前年より増加しました。
(菊池憲光さん)
「私のような犯罪被害者が出ないような世の中にしていかないといけない。受刑者に私の声を聞いてもらってちょっとでも自分の犯した罪を反省してもらって、やはり犯罪被害者を出してはいけないんだという考えをちょっとでも持ってもらえれば。まっとうに生きてほしい。再犯率って高いじゃないですか。私が話をすることで1人でも再犯する人がいなくなればいのかなと思う」

受刑者の前で菊池さんは率直な思いを伝えました。
「娘はどんな怖い思いをして命果てたのでしょうか。『お父さん助けて』と声をあげていたかもしれません。そのことを思うと親としてはいてもたってもいられなくなりました。私の娘はあのような無残な死に方をするために生まれてきたわけではありません。どんなときも娘のことをどこかで探している自分がいます。でも探しても探しても娘はもうどこにもいないんです。会えるのは19年間一緒に過ごした思い出の中と、笑っている写真を見るときだけなのです。悲しみは事件当時と何も変わらず、守ってあげられなかった娘に今はただただ手を合わせることしかできません」。

およそ30分の講演を、次のように締めくくりました。
「最後になりますが、私からみなさんにお願いがあります。みなさんにはこれから先、まだまだ長い人生があります。苦しいこと、辛いこと、また、楽しいことがたくさん待ち受けています。だからこの先、被害者にも、加害者にも、絶対にならないようにしてください。悲しむ家族、また、友人がいることを忘れないように、そのことを心の片隅に置いてこれからの人生を大切に歩んでいってください。」
菊池さんの悲しみが癒えることはありません。果奈さんの遺骨は、いまも自宅にあります。

「冷たいお墓にはまだ入れられないです。ことしで13回忌っていう節目なので、そろそろお墓に入れてもいいかなと思うのですけど一生、ふんぎりなんかつかないでしょうね。まだ一緒にいたいです。極端に言えば、私が死んだときに一緒にお墓に入れてもらえればいいという思いもあります」。

「とにかく会いたいですね。でも無理なのですよ。無理だと分かっていても会いたいんですよね。このごろは僕もそっちに向かっている年齢なので、早くじゃないけど、一緒においしいお酒飲もうねとか、いろんなことしようねとか考えながら手を合わせています」。
【取材後記】
菊池さんを初めて取材したのは去年12月中旬でした。11月下旬の「犯罪被害者週間」を前に警察が開いた会議を取材した際、岩手県警察本部の被害者支援担当者から紹介されました。取材前にも何度がお話をする機会があり、放送させてほしいとお願いしました。SNSで簡単に集まり、強盗事件や殺人事件にも加担するケースが相次いで明らかになる今だからこそ、菊池さんの思いが多くの人に届いてほしいと強く感じました。