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地図から消えた街 法の脇獅子舞は残った

  • 2023年03月03日

 

2011年3月11日、岩手県宮古市を襲った東日本大震災の津波は住み慣れた町や家、さらには地元に伝わる伝統芸能の衣装などを押し流しました。宮古湾に注ぐ津軽石川河口近くにあった津軽石 法の脇地区は震災後、災害危険区域に指定され人が住めなくなりました。今はバス停だけを残し地図から消えた街。見ることはできても帰れない。近くて遠いふるさとで、かつて住民どうしのつながりをもたらしていた伝統芸能の法の脇獅子舞。震災後の消失の危機を子どもたちが救い、いま若い後継者が育っています。
(盛岡放送局 宮古支局 記者 眞野隼伸)

瞳に映るかつての面影・・・

法の脇獅子舞

2月19日、岩手県宮古市にある津軽石公民館で「法の脇獅子舞」の練習が行われました。太鼓などの音色に合わせ、獅子頭をつけた舞い手が舞う獅子舞。その始まりは今から150年以上前の江戸時代末期とされています。
 

獅子舞の太鼓の練習をする盛合華代さん

およそ10人の参加者の中で、熱心に練習に励んでいたのは高校1年生の盛合華代さん16歳。獅子舞が伝わる宮古市津軽石 法の脇地区の出身です。長い歴史のある法の脇獅子舞ですが、練習に参加する人のなかで法の脇地区出身なのは盛合さんだけです。

震災前の法の脇地区
住宅がなくなった法の脇地区

宮古湾に注ぐ津軽石川の河口近くにあった宮古市津軽石 法の脇地区は盛合華代さんが4歳まで暮らした故郷です。かつて30軒ほどの住宅が軒を連ねていましたが、東日本大震災の津波で盛合さんの自宅を含めて大半の住宅が流されました。震災後に災害危険区域に指定されたため、人が住むことはできなくなり、今は住宅もなく、草が生い茂っています。“地図から消えた街”に震災前の面影を残すものは何も残っていません。

自宅跡地に立つ盛合華代さん

盛合華代さん
「ここが前の私の家だったところです。来たのは数年ぶりで懐かしいな、寂しいなという気持ちになりますね。近所の人たちも家族みたいな感じで遊びに行ったりして法の脇はすごく楽しかった記憶がいっぱいあります。ちょっと悲しいというか戻れたら戻りたいなって感じます」。

津波ですべてが流出

昭和初期のころ撮影された法の脇獅子舞

90年前の昭和三陸津波も乗り越えて、地区で守り伝えられてきた法の脇獅子舞。昭和初期のころの貴重な映像も残されています。毎年8月16日のお祭りの日には、舞ながら地区を練り歩く姿を見ようと近隣の人も訪れていたそうです。住民総出で盛り上げた地域の誇りで、大きくはない地区の住民同士が獅子舞を通してつながり、絆をもたらす伝統芸能でした。

2011年3月11日に法の脇地区に押し寄せる津波

12年前の津波は地区の住宅だけではなく、法の脇獅子舞の獅子頭や衣装などを保管していた地区の公民館にも押し寄せ、公民館は建物ごと流されたため、衣装などは全て流出しました。さらに壊滅的な被害を受けた法の脇地区の人たちはそれぞれ避難生活を送ることになり、散り散りに。法の脇獅子舞は消失の危機を迎えました。

法の脇獅子舞の舞い手 盛合 崇さん

盛合さんの父親・盛合崇さんなど長く「獅子舞」を支えてきた地区の大人たちは、震災後、獅子舞のことを考える余裕はありませんでした。

盛合崇さん
「自分たちの生活できる場所を確保するという方向で、優先順位はまず生活でした。獅子舞がなくなってしまうのではないか、もしくはなくしたほうがいいのではないかという話も当時は出たりしました」。

消失危機救った中学生

法の脇獅子舞の存続が風前のともし火となる中、伝統芸能を絶やしてはいけないと保存に立ち上がったのは近くの宮古市立津軽石中学校の生徒たちでした。地域の文化を学習していた中学生たちは文化祭で法の脇獅子舞を披露することに決め、法の脇地区の大人たちから獅子舞を習い始めました。さらに流出した獅子頭や衣装も自分たちで作り直したのです。

宮古市立津軽石中学校生徒が披露した獅子舞(2012年)

震災発生のよくとしの2012年10月、津軽石中学校で開かれた文化祭で生徒たちが練習し、作り直した衣装で法の脇獅子舞を披露されると、会場には多くの人が詰めかけました。中学生がつないだ伝統芸能のともし火。見ていた大人たちを奮い立たせました。

盛合 崇さん
「ここは大人が本気を出さないといけないのではないかと思ったし、中学生の頑張っている姿を見ると法の脇獅子舞はあったほうがいいのかなと奮い立たされる感じでした」


法の脇獅子舞保存会の旗

盛合崇さんなど法の脇地区の出身者が中心となって、2015年に「法の脇獅子舞保存会」を結成。地図からは消えてしまった街の伝統と誇りを残していくことを決意させたのです。

盛合崇さん
「いま生まれてくる子どもたちは法の脇という存在がわからない。法の脇の名前を見ても、これって何なのと小さい子たちは思うかもしれない。そんな時に津波の話や震災の話を織り交ぜながら獅子舞のことも覚えてもらえたらいいのではないかと思いました」。

保存会結成後に練習に参加する10歳の盛合華代さん(2016年)

保存会にとってうれしい参加者がいました。2016年、保存会結成当初の練習の様子を映した映像には当時、まだ10歳だった盛合華代さんが映っています。父親の崇さんが舞う姿を小さいときから見ていて、みずからの意思で参加しました。

盛合華代さん
「お父さんがやっているから私もやらなきゃみたいな思いで自然と始めました。あとは獅子舞が復活したときに名前に法の脇ってついていたのが誇らしかったのもあります。前に住んでいた場所だっていうことと法の脇を残すっていう使命感が一番大きいです」。

盛合 崇さん
「娘に獅子舞をやらせるという意識はなく、横にいるという感じでした。参加してくれたことはうれしいし、私より熱を込めて練習してくれている。法の脇に来ても何もないとなるよりは、獅子舞を見に行こうかという一言で故郷に戻れると思う」

街は消えても獅子舞は残った

保存会では今も月に一度、宮古市の津軽石公民館に集まり練習を行っています。2月19日に行われた練習には盛合華代さんや父親の盛合崇さんの姿がありました。

盛合華代さん(左)と父・盛合崇さん(右)

腰を痛めて練習からは遠ざかっていた崇さんは、保存会の会長に急用が出来たため、久しぶりに子どもたちを指導しました。そのかたわらには獅子舞を自分のものにした若き後継者ともいえる娘の姿がありました。地図からは消えた街の伝統、そして思いは紡がれていきます。

盛合華代さん
「獅子舞は特別な存在というか、なくてはならない存在です。法の脇という地区はないけれど、こうやって獅子舞は形に残っていて、今も皆が踊っているよという感じで誇りに思ってほしいですね。何歳までとかなく、ずっと自分も楽しくみんなも楽しくみたいな感じでやっていきたいです。いつか保存会の会長になって皆を引っ張っていけたらなと思います」。

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