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鵜住居小児童が警察官に 祖母への誓い

  • 2023年03月02日

あの日、岩手県釜石市立鵜住居小学校5年生だった少年は隣接していた中学校の生徒などと走って高台を目指しました。後ろを振り返ることもなく懸命に高い所だけを目指し・・・。もう津波は来ないだろうとみられた場所までたどり着き、後ろを振り向いた時、住み慣れた街は黒い津波に飲み込まれていました。その瞬間「ばあちゃん、絶対助からないだろうな」と直感したということです。直後に少年はショックで、その場にうずくまり吐いてしまいました。東日本大震災発生の日の朝まで一緒に暮らし、当時、自宅に1人でいたとみられるばあちゃんは今も行方がわかっていません。少年は成長し去年、岩手県警察本部の警察官になりました。
「ばあちゃんの命は守れなかったけど、ほかの人の命は守れるように頑張りたい」。“命を守る立場”の警察官となった今、祖母に誓う思いがありました。

(NHK盛岡放送局記者 粟田大貴)

 

あの日の記憶

児童の下校を見守る海藤さん

去年4月に警察学校に入校し秋からは交番勤務などを行っている海藤成樹巡査、23歳。

盛岡市中心部の交番で事件・事故への対応や地域の巡回連絡、書類作成など、警察官としての基礎ともいえる仕事に追われる毎日です。

「簡単な仕事ではないと分かっていたんですが、人を守ることはいろんな事案に携わってすごく難しいなと思いました。一筋縄では人の命は救えないんじゃないかなって思うので、勉強して、訓練を重ねていきたい。

釜石鵜住居復興スタジアムを訪れた海藤さん

東日本大震災の発生当時、岩手県釜石市立鵜住居小学校5年生だった海藤さん。

校舎3階の教室でホームルーム中だった2011年3月11日の午後2時46分、大きな地鳴りとともに経験したことがない地震が発生しました。迅速な避難で学校から高台に逃げた児童は助かり、津波避難の成功例と言われることも多い釜石市立鵜住居小学校の児童の行動。その中に海藤さんもいたのです。

津波から避難する鵜住居小学校の児童など(撮影:高村幸男さん)

高台にたどり着き脳裏をよぎったおばあちゃんのことをさらに詳しく聞くと。

「一瞬でもう無理だな、ああ、もう祖母は流されたなという、子どもながらに終わったなっていう感覚はありました。これから生活をする上での不安もありましたし、津波を見ているので、また来るんじゃないかっていう絶望もありました」

体調に何の問題もなく午後2時46分まで過ごしていましたが、街を襲う津波を見たショックはあまりにも大きかったのです。

「祖母がダメだなと思った瞬間に吐いてしまった。それも津波を見るたびに何回もです。今でも鮮明にその時を覚えているのですが、人の感情から来る体調の変化というのもあるのだなと思いましたし、そういうのも含めて命は大事なのだなと思います。」

 

祖母は今も行方不明

祖母・ミネ子さんの名前が刻まれた芳名板を指さす海藤さん

釜石市鵜住居地区にある震災の犠牲者を追悼する施設「釜石祈りのパーク」。

釜石市の犠牲者1064人のうち遺族が同意した1002人の名前が記された芳名板が設置されていて、海藤さんの祖母の海藤ミネ子さん(震災当時60歳)の名前もあります。

「忘れることはないとは思うが、ここに来て祖母を思い出すことができるのかなと思います。名前を見ると震災前の日常を思い出すことがあります」

海藤さんの祖母・海藤ミネ子さん

海藤さんは両親と兄、それに祖父と祖母のミネ子さんの6人で暮らしていました。震災発生当時、自宅に1人でいて津波に巻き込まれたとみられる祖母の海藤ミネ子さんは今も行方がわかっていません。

「津波に流されているのを近所の人が見たという話を聞いています。生きていてほしかったというのはありますし、逃げてほしかったというのもありますし、だれかと一緒にいればもしかしたら逃げられたかもしれないです。本当に優しいばあちゃんでした」

一緒に一つ屋根の下で生活していた祖母のミネ子さんが一番応援してくれていたのが、海藤さんが小学1年生から続けている剣道でした。

「剣道の大会に出るときには『頑張ってきなさい』とか、『けがをしないように』と声をかけてくれたのでおばあちゃんの期待に応えるというか、なんとかいい報告ができるように頑張っていました。応援の言葉はすごく力になりましたし、いまでもずっと応援してくれているのかなと思います」。

 

津波で剣道の防具や竹刀は流され、通っていた大槌町内の道場も避難所になりました。避難所での生活を余儀なくされ、生きるのに精一杯で、「剣道がやりたい」と言える状況ではありませんでした。

避難生活の中、海藤さんに声をかけてくれたのが避難所で活動していた警察官でした。

「年齢は30代から40代くらいだったと思います。当時はいろいろな県から警察官が来ていたのでどこから来たの?とか、何歳なの?と話をして一緒に外で遊んだような気がします。制服姿がすごくかっこよく見えたのを覚えています。声をかけてくれる、一緒に遊んでくれる、それだけで寄り添いになりました」

 

剣道経験もいきる警察官へ

剣道が再開できたのは震災発生から1か月以上たったころでした。

内陸に住む知人から防具が送られたほか、釜石市内の道場の関係者が「一緒に練習をしよう」と声をかけてくれました。

「剣道の道具をいただいたことで、初めて剣道ができるんじゃないかと思いました。練習を再開したときはやっぱり楽しかったですし、剣道好きだな、と思いました。剣道をしている時間が一番のびのびできる時間でしたし、剣道ができるって幸せなのだな、とも思いました。」

 

多くの人の支援を受け、剣道を続けることができた海藤さん。

中学からはチームの中心選手として活躍するようになりました。

高校3年生で全国大会に出場した海藤さん

高校は「さらにレベルの高い環境で剣道に打ち込みたい」と親元を離れ、二戸市にある強豪校で下宿生活を送りました。仲間と励まし合って練習に取り組み、全国大会にも出場しました。

千葉県内の大学に進学後も剣道を続け、海藤さんにとって剣道は「なくてはならないもの」になっていました。

転機となったのは大学4年生の春。将来の進路について、「岩手に帰って仕事がしたい」と考えていましたが、得意の剣道をいかしながら、どのような仕事に就くか心は揺れていました。そんな時、思い浮かんだのは避難所で優しく話しかけてくれた警察官の姿でした。

(海藤さん)

「避難所で出会った警察官のように、地域に寄り添う警察官になりたいと思いました。この仕事は一番、市民の人と話ができる仕事の1つでもあると思うので、震災関連・復興でお世話になった恩返しもできると考えました。それに、警察官は高校、大学と一生懸命やってきた剣道を続けられます。いま考えると震災で1度できなくなった剣道がもう1度手に入ったんだから、自分から手放したくないという思いもあったのかもしれません」。

 

去年4月、念願叶い岩手県警の警察官になった海藤さん。

警察学校でのおよそ半年間の研修では、逮捕術などのほか、警察官として必要な刑事訴訟法や刑法などの法律の知識についても学んできました。

震災の経験を同期の警察官に話す海藤さん

警察学校入校の同期の多くは震災発生当時、海藤さんと同じ小学生。岩手県内陸部出身で、震災についてニュースなどで見たことはあっても沿岸部にいて津波から避難したり被災したりした経験があるのは海藤さんなど数人だけ。7月に行われた研修では、かつて海藤さんが通っていた釜石市立鵜住居小学校の跡地に立つ釜石鵜住居復興スタジアムで同期の警察官を前に自ら体験した3月11日について伝えました。直接、震災を知らない新人警察官に、あの日なにがあったのかを海藤さんが伝えることで、震災のことを理解してほしいと警察学校側が取り計らいました。

海藤さんは同期の警察官に自らの経験を語ったあと、市民の命を守るために必要なことはなにかを伝えました。

「警察官はまず、自分の命を落とさないことを前提に市民を助けなければいけないと考えます。自分の命が助からないということは誰も助けられないということです。そのうえで、日頃から避難場所や避難経路を把握し、住民と信頼関係を築いて『逃げてください』って呼びかけをしなければいざというときに命を救うことはできません。私たちでどう県民、地域の方々を守っていくかが大切になってくるので、もっともっと勉強していきましょう」。 

 

行方不明の祖母への誓い

去年9月、警察学校を卒業し、交番での勤務が始まった海藤さん。

忙しい業務の中でも、震災を直接経験したからこそ、災害発生時などに警察官として何ができるのか。

海藤さんは、地域の人との信頼関係を結ぶことが災害が起きた時にはいかせると感じています。

この日は指導役の先輩と交番の管轄区域に住む高齢の女性の家を訪れました。

先輩:「釜石出身で」。

女性:「震災、大変だったでしょ?これからも警察官として大変だろうけど」。

海藤さん:「ありがとうございます。よろしくお願いします」。

「災害的な面でも犯罪的な面でも命を守っていくために住民などと深い信頼関係を築いていけたらなと思います。信頼関係は積み重ねなので、警察官としてだけでなく、私個人として信頼してもらえるように、いまは勉強の時間だと思っています。市民の方と話すなかで、自分の震災の経験を話すことで自然の力の怖さや命の大切さについても伝えて行きたい」。

 

海藤さんは将来、災害現場の最前線で活動する機動隊員になることを見据えています。

「自然災害のとき、機動隊員は捜索がメインになると思うのですが、災害の現場で行方が分からない人と話す機会があれば、その人への声かけは機動隊に限らず、警察官として大きな自分の強みの1つだと思います。災害で家族が行方不明になった人は、やるせない気持ちになると思いますが、『私も震災でおばあちゃんがまだ見つかっていないのですよね』と祖母の話をすればもしかしたら心を開いてくれるかもしれない。その感情を共有できるのは警察官の中でも自分にしかできないと思うので、そういう人がいれば率先して話を聞きに行こうと思います」。

突然の別れから12年。優しかったばあちゃんに誓う思いがあります。

「命を守る側になったので、おばあちゃんを守ることはできなかったけど、そのぶん、ほかの人の命を守れるように頑張るよっていう意味で警察官として働いているところは見てもらいたいなと思いますね。警察官として1人前になって1人でも多くの命を救えるようにというのを目標に頑張っているので、応援してくれればと思います」。

 

最後におばあちゃんへの思いを手紙にしてもらえませんか・・・とお願いしたところ書いてくれました。

「あーやん(亡き祖母)へ 着の身着のまま逃げたあの日、これからの生活がどうなっていくのか不安だったあの日から、たくさんの人に支えられ、たくさんの人からもらった優しさに感謝しながら毎日を過ごしてきました。(中略)

あーやん、兄は新しい事業のプラントマネージャーとして頑張っています。そして私は、岩手県警の警察官として日々教官や先輩からの叱咤激励の下、同期生とともに頑張っています。今私たちにできる精一杯のことに必死に取り組み、今の幸せを当たり前と思わず感謝し、あーやんが教えてくれた優しさや頑張る力を大切に、前を向きしっかりと一歩ずつ進んでいきたいと思います。この一歩が大切な未来へとつながるように見守ってください」。

 

 

  • 粟田大貴

    NHK盛岡放送局

    粟田大貴

    2021年入局
    警察・司法担当
    兵庫県出身。
    震災発生時は中学2年生

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