ページの本文へ

岩手取材ノート

  1. NHK盛岡
  2. 岩手取材ノート
  3. 戦後初 奨励会経ず将棋プロ棋士誕生 29歳でつかんだ夢

戦後初 奨励会経ず将棋プロ棋士誕生 29歳でつかんだ夢

  • 2023年03月02日

2月13日、午後3時31分。その時、日本の将棋の歴史が動きました。
岩手県釜石市出身のアマチュア将棋の強豪、小山怜央さんが挑んでいたプロ棋士編入試験で合格が決まった瞬間でした。日本将棋連盟の棋士養成機関「奨励会」に所属したことがない戦後初めてのケースで、さらに岩手県出身者としても初のプロ棋士となる快挙。小山さんは中学生と大学生の時、2度にわたって奨励会の壁が立ち塞がりプロ棋士への道を阻まれ、高校生の時には東日本大震災の津波で自宅を流されました。それでも不屈の精神で将棋と向き合い、30歳を前についに夢をつかみました。
(盛岡放送局記者 梅澤美紀)

アマチュアがプロ棋士相手に3勝 

小山怜央さん

2月13日午前10時。大阪の関西将棋会館で、小山さんは編入試験第4局に臨みました。去年11月から毎月1局ずつ行われるプロ棋士編入試験五番勝負。第1局で当時、今年度の勝率首位を走っていた徳田拳士四段に勝つと、第2局も岡部怜央四段に勝ち連勝。3勝すれば合格の編入試験で合格に王手をかけて挑んだ1月の狩山幹生四段との第3局には敗れ、2勝1敗となった小山さん。第4局で合格を決めるのか、敗れて最終第5局までもつれ込むのか・・・。横山友紀四段との“運命の対局”が始まりました。

小山さんは序盤から積極的に攻め戦いを優位に進めました。横山四段の反撃にも耐え、持ち駒を増やしながら攻め続けた結果、横山四段が133手までで投了。小山さんが勝ちました。
「編入試験にかけているので、絶対に受かりたい気持ちがある」と話していた小山さん。その思いが結実した瞬間でした。

小山怜央さん 
「実感がわかないが終わったということでかなりホッとした気持ちになっている。今まで岩手県の棋士が出ていなくて私もいつかは出ればいいなと思っていたので、ついにやりましたという感じです」

ふるさと 釜石で見守った人々

土橋吉孝さん

小山さんの地元、釜石市では、小山さんも子どもの時に通った将棋教室の関係者や小山さんの両親などが公民館に集まり、対局を見守っていました。小山さんに将棋を教え、今も地元の将棋教室で指導にあたる土橋吉孝さんが大盤解説を行いました。勝利が決まると拍手で小山さんをたたえ、万歳三唱も起きていました。

小山さんの母・小山聖子さんと土橋吉孝さん

土橋吉孝さん
「小さい頃から応援していたので、本当に嬉しい。しっかり立て直して勝ちにもっていったところを見ると、やはり底力がついてきて僕らが考えているよりはるかに強くなっているのだなと思う。彼は本当に将棋が大好きで、震災があってもへこたれず一生懸命取り組んできたことが報われたのだと思う。まだまだ上を目指していけると思うので、これからも精進していってほしい」

小山聖子さん
「とても嬉しいし、よく頑張った。おめでとうと言いたいです。好きなことを仕事にできるのでこれからも頑張れると思います。釜石に帰ってきたら美味しいご飯を食べさせてあげたいです」

プロ棋士への「編入試験」とは

小山さんが挑んでいたのはアマチュアや女流棋士などがプロ棋士になるための「編入試験」。
将棋のプロ棋士になるには、原則として日本将棋連盟の棋士養成機関である「奨励会」の入会試験に合格し、6級からスタートして対局で上位の成績を収め、26歳になるまでに「四段」に昇段する必要があります。四段以上がプロ棋士ですが、その道のりは果てしなく険しく原則として四段に昇段できるのは半年に2人だけの狭き門。さらに階級には年齢制限もあり、全国各地から奨励会に集まる将棋の強豪も規定の年齢まで昇段が進まないと退会になってしまう厳しい世界です。

小山さんは中学3年生の時に、奨励会入会試験で不合格となり入会できませんでした。通常のプロに進む道の入口にも立つことが出来ませんでした。

しかし2006年、奨励会から昇段する通常のルートとは別のルートでプロ棋士になる道が制度化されました。それが今回の「編入試験」です。

女流棋士やアマチュアが公式戦でプロ棋士と対局し、直近の対局で「10勝以上」かつ「6割5分以上の勝率」など条件を満たせば、プロ棋士への編入試験を受けられるようになったのです。小山さんは去年、この条件を満たし、プロ棋士編入試験を受けることを決めました。編入試験は五番勝負で試験官を務める四段の棋士と1か月に1回、対局し、3勝すれば合格となります。

異例の挑戦

そもそも、この受験資格を満たすのも至難の業です。これまで、制度化された編入試験を受験したのは小山さんより前は3人しかいません。このうち合格してプロ棋士になったのは2人。去年、女性初のプロ棋士を目指した“出雲のイナズマ”の愛称で知られる女流タイトルの多くを保持する里見香奈さんも3連敗で不合格となり大きな話題となりました。
編入試験にこれまで合格した今泉健司五段と折田翔吾五段もかつて奨励会に奨励会に所属したことがありました。奨励会に入ったことのない小山さんは、いわば異例の挑戦だったのです。

ゲームの代わりに始めた将棋

岩手県釜石市で生まれ育った小山さんが将棋を始めるきっかけを作ったのは、母親の小山聖子さんでした。小学2年生のとき、ゲームに熱中しすぎてめまいを起こし、入院することになりました。ゲームはドクターストップがかかったため、代わりの遊びとして聖子さんが勧めたのが将棋でした。

小山聖子さん

小山聖子さん 
「ゲーム大好きなのに、どうしようかなと思って。将棋は集中できて勉強にもなるだろうし、頭の回転もよくなると思って始めたのですが…」

聖子さんも将棋は全くの初心者。家族で唯一、将棋のルールが分かるのは父親の小山敏昭さんでしたが、仕事が忙しく子どもと将棋を指す時間はなかなかとれなかったとれませんでした。聖子さんは将棋盤を買ってきて、小山さんと、その弟の真央さんの3人で一緒に一から覚えていくことにしました。

小山聖子さん
「お父さん(敏昭さん)が、『覚えたら相手をしてやる』って言ってくれたので、3人で頑張って覚えました。ああでもない、こうでもないって言いながら一生懸命、駒を動かして」

対局する小山さん(左)と弟

小山さんはすぐにルールを覚え、、敏昭さんは約束どおり対戦するようになりましたが、小山さんの上達は速く、すぐに父親を圧倒するようになりました。

小山怜央さん
「私は勝敗があると燃えるのかもしれないですね。ゲームとかもクリアしたら嬉しいですし、将棋もそれに近いところがあったんだと思います」

地元の将棋教室へ さらに熱中

地元の教室にも通い始め、徐々に将棋のおもしろさにも目覚めていきました。
小山さんを教室に誘ったのが、当時近所に住んでいた、将棋教室で指導にあたる土橋吉孝さんでした。

土橋吉孝さん

土橋吉孝さん
「まっすぐで、将棋が大好きな子だった。本当に集中して将棋をやりますね。他の子と将棋にかける時間が圧倒的に違っていた」

小山怜央さん
「将棋教室は、将棋に熱中するきっかけをくれた場所です。将棋を始めた直後はそんなに熱中していたわけではなくて、教室に通い始めてから熱中するようになりました。長い間お世話になっているので、思い出深い場所です」

奨励会受験も不合格

将棋に熱中しメキメキと腕を上げた小山さんは県大会や東北の大会でも好成績を残せるようになり、プロ棋士になりたいという夢を抱くようになっていきました。そのための一歩として、中学3年生の時に、奨励会の入会試験に挑みましたが不合格でした。まずこれが1度目の奨励会の壁でした。

小山怜央さん
「もちろん悔しかったですし、プロの道はいったん諦めようと思いました。ただ、それで将棋をやめようとは思いませんでした。生活の一部になりかけていたので。続けるなかで、もしまたチャンスがあれば挑戦したいなという気持ちでやってきました」

中学卒業後は、地元の釜石高校に進学。中学生の時に将棋大会で活躍していた小山さんには、将棋部が強豪として全国的に知られる、盛岡市にある私立高校の目にも止まり、声がかかっていました。

小山怜央さん 
「私としては、どちらでもよかったのではないかと。家族で話し合った結果、盛岡に通うのも大変だし、寮生活も大変そうだから、地元の高校でいいんじゃないかという考えに落ち着きました」

釜石高校の将棋部に入り、県大会では強豪私立高校将棋部に所属する全国レベルの高校生と対局することもありました。

東日本大震災 避難生活も将棋とともに

しかし高校2年生だった2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。釜石高校にいた小山さんは学校の体育館に避難しました。当時、津波で大きな被害が出た釜石市鵜住居地区にあった自宅に1人でいた母親の聖子さんは津波で家とともに1キロほど流されましたが、なんとか救助され、家族は全員無事でした。しかし建ててから日が浅く、新しかった実家は土台だけを残して津波に流されました。

2011年3月 自宅跡地を歩く小山さん(左)と弟 

小山怜央さん 
「本当にほぼ何もなくなっていたので、衝撃的だったのは記憶にあります」

小学2年生の時から始めた将棋の思い出の品々も自宅とともに流されました。将棋盤や、小山さんが将棋を指す様子を聖子さんが撮りためていたビデオカメラも流出。そんななか、なんとか見つかったものもあります。

小山さんが将棋大会で入賞した際にもらった盾が、自宅跡地から見つかりました。両親が今も実家で大切に保管しています。

自宅が全壊し、小山さんと家族は避難所や仮設住宅での生活となりました。そこでも小山さんの生活は常に将棋とともにありました。弟と対局したりインターネットでの対局をしたりしていました。

避難所で対局する小山さん(右)と弟

小山怜央さん
「その前までは当たり前のように将棋ができる生活だったので、そこに少しありがたみを感じるようになったと思います。盤や駒は学校から借りたりとか、ネット将棋は父親がパソコンを貸してくれたりとかして、何とかやっていたという状態でした」

震災が発生した2011年(平成23年)に行われた将棋の全国大会にも出場しました。県外の大会に朝早く出発する際は、父・敏昭さんが起こして駅まで送り届けてくれていました。

小山聖子さん 
「避難所にいると、周りに迷惑だから目覚ましがかけられないんですよ。お父さんが車に泊まって目覚ましで起きて、それから避難所にいる怜央を起こしに行っていました」

慣れない環境のなかでも、将棋をやめようと思ったことはありませんでした。

小山怜央さん 
「被災前も生活の一部になっていたから続けられたというのもありますし、もっと大会で活躍したい、強くなりたいという気持ちはあったので続けました。将棋関係者がお見舞いに来てくれたことも励みになりました。そういう支えもあって将棋を続けられてきたのだなと、今思うと特に感じます」

「アマチュア名人」獲得も奨励会の厚い壁

高校卒業まで仮設住宅で過ごし、卒業後は滝沢市にある岩手県立大学に進学しました。
大学時代も強さを発揮し、在学中の2015年(平成27年)、アマチュア将棋の日本一を決める大会で優勝し、「アマチュア名人」のタイトルを獲得します。

このタイトル獲得で奨励会に再び挑める権利も獲得しました。プロ棋士の四段の1つ手前、三段リーグに編入できる編入試験の受験資格を得たのです。中学3年生の時以来、再び巡ってきた奨励会入会のチャンス。2勝2敗で迎えた5回戦で敗れ、2勝3敗。惜しくも不合格でした。奨励会の壁が再び立ち塞がったのです。
大学卒業後は、将棋部が強い一般企業に就職することを選びました。

小山怜央さん 
「奨励会受験以来の、プロになりたい気持ちはありました。受験前からダメだったら就職しようという気持ちではあったので、わりとスパっといくことができました」

「将棋は人生の一部」

就職後も、将棋が「生活の一部」であることに変わりはありませんでした。アマチュアとして大会には参加し続けていました。転機となったのは、将棋の八大タイトルの最高峰とされる「竜王戦」の6組でプロ棋士との対局を勝ち抜き、ベスト4になったとき。棋士編入試験の受験資格を得るチャンスが近づきました。そして本格的にプロを目指そうと、将棋に集中するため、おととし2021年(令和3年)4月に、会社を退職しました。

小山怜央さん 
「実はあまり迷いはなかったですね。チャンスが近づいてきたから、退職する気持ちになったという自然な流れです」

会社を辞めるという報告を受けた両親も、小山さんの意思を尊重しました。

小山聖子さん 
「せっかくいい会社に入ったのに残念だけれど、夢があるなら仕方ないなと。自分の好きな道に進んでほしい。怜央の人生だから、たぶん大丈夫。頑張ってくれるだろうと思って」

小山さんの将棋にかける思いとはどのようなものなのか。

2022年12月

小山怜央さん
「将棋は小さい頃からやっている、私の人生の一部みたいなもの。私の人生とは離せないものなので、それを職業にできたら自分にとって、すごく良い人生になると思います」

手にした夢 小山さんの強さとは

プロ棋士編入試験では4人の四段棋士と対局し3人に勝ちました。合格が決まった後の記者会見でカギを握った対局については第1局の徳田四段の対局をあげました。

小山怜央さん
「やはり第1局が一番、私としても何というか結構、奇跡的な勝ち方だと思うのでそういう意味では印象に残っています。いけるとは思わなかったのですが、3連敗は免れたということで自信になりました」

プロにもひけをとらなかった強さはどこにあるのか。小山さんとの対局経験もある中川大輔八段は“決断の良さ”と“粘り強さ”をあげています。

中川大輔八段

中川大輔八段
「難しい場面でも最善だろうと思ったらビシっと指す。そういう決断の良さが一番の長所で劣勢を跳ね返すだけの粘り強さも持ち合わせている。アマチュアは一般的に相手のペースになると押し切られるところがあるが、小山さんは土俵際でぐっとこらえることができる。プロ相手にも好成績をおさめ、すでにプロの水準を満たしているといえる」

さらに小山さんの強さを支えたのはAIの将棋ソフトの存在があります。将棋の世界では今、AIの強さがプロ棋士を上回ったとも言われ、藤井聡太五冠などもAIの将棋ソフトを研究に取り入れています。

小山怜央さん
「正直、私はAIのおかげで何か自分自身の将棋を作り上げることができたと思っていて、もともと私は序盤がけっこうお粗末なところがあるので、教科書となるような指し方を、どう勉強していいかわからなかったので、そういう意味ではAIという武器ができて、そのおかげで強くなった面もあるのかなと思っています」

戦後初めて、奨励会を経験せずにプロ棋士の道を歩むことになる小山さん。そのことを問われると正直な思いを吐露しました。

小山怜央さん
「やはり奨励会を経験せずに棋士になるのは客観的に見ると特別なことだと思うので、それはすごく光栄に思います。奨励会を経験せずにやってきたが、奨励会の経験も私は大事だと編入試験に臨むにあたり正直、思ったところもあったので、どちらにしても結構、大変な道だよということはお伝えしたいです」

2度にわたる奨励会の壁、そして震災の被害を乗り越え小山さんはことし4月1日付けで「四段」となり、プロ棋士として歩み始めます。

小山怜央さん
「東日本大震災を経験して避難所生活がつらい時期もありましたが、お見舞いに来てくれる人もいて、それを励みに頑張ることができました。そういう意味では避難所生活や震災の経験は生きています。まずひとつ編入が決まったことで本当にうれしいし安心もしたが、とはいえまだフリークラスへの編入が決まっただけで今後も厳しい戦いが続いていきます。藤井聡太五冠のように強い棋士になりたいですが、今の実力では足元にも及びません。今後も勉強を続け、人として目標とされる人物になれるよう頑張りたいです」

ページトップに戻る