「明和電機」原点はつくばにあり!
鈴木瞬(記者),郡司掛弘典(カメラマン)
2022年05月13日 (金)

「パチモク(指パッチン木魚)」や「オタマトーン」など、ナンセンス=常識を越えた様々な発明品を世に送り出してきた、明和電機。
その原点が茨城県つくば市にあった!
多感な時期に明和電機に触れて独特な世界観にハマった中年の記者(鈴木)とカメラマン(郡司掛)が、原点に迫った。
若者はポカーン… それでも!
茨城県庁の記者室にある、会見の予定が書き込まれるホワイトボード。この予定を見たとき、記者は目を疑った。
“明和電機展覧会とコンサート開催について(明和電機)”
「あ、あ、あの『明和電機』が茨城県庁で記者会見を開く!?」
興奮を抑えきれず、すぐに明和電機に確認。すると、土佐信道社長・本人があの作業着を着て登場し、開発した楽器も持ってくるという。
「これは一大事だ!」
すぐに同僚たちに連絡したものの、首をひねる若手たち。彼らは明和電機を知らなかったのだ。
しかし、明和電機の社訓は「やったもんがち とったもんがち」。ジェネレーションギャップに傷ついた心は隠し、とにかく、まい進だ。
担当デスク(ひそかに明和電機が好きであろう)に猛アピールし、4月19日の記者会見を取材することになった。
記者会見で土佐社長は、筑波大学の学生時代から10年間を過ごしたつくば市で、凱旋の企画展とライブコンサートを行うと発表した。
さらに、「明和電機の原点はつくばにある」と明らかにする土佐社長。茨城をフィールドにする記者としては、その「原点」に迫らなければならない。「オタマトーンを持っている」と熱く語るカメラマンとともに、さっそく取材を開始した。
電機メーカーではありません
若い同僚たちは誤解していたが、「明和電機」は、電機メーカーではない。中小企業を模したアートユニットで、土佐さんは、その「社長」だ。ナンセンスで独創的な楽器をつくり、世界中で演奏を行っている。
100万本が売れたという「オタマトーン」は、見たことがある人も多いはず。スペインの番組では出演者が演奏して、海外でも大きな話題となった。
“月面基地”つくばで…
明和電機の原点を知りたい。われわれは土佐社長とともに、つくば市をまわった。
土佐社長がいまのつくば駅周辺を見て、そう驚くのも無理はない。
土佐社長が筑波大学に入学したのは、つくば市が誕生した1987年。
その2年前の「つくば科学万博」にはおよそ2000万人が訪れ、大いに盛り上がったが、人口はいまの6割ほど。つくばエクスプレスもなく、いまのようなアクセスの良さはもちろんなかった。
芸術家になりたいという夢を抱き兵庫県から筑波大学の芸術を学ぶコースに入学した若者が、当時のつくばで直面したのは、「孤独」だった。
最初、寂しさというか何ともいえない孤独感があって、人工都市つくばだったので。作品をつくりたいと思っていた、関西の若者が、つくばという寂しい月面基地のようなところに送り込まれて。『わー!楽しい』というだけだった人が、寂しさの中で、自分を見つめ始めるわけです。
大学1年生のときに住んでいたのは、筑波大学の平砂学生宿舎。老朽化から取り壊されることになっているが、特別に許可を得て、あけてもらった。
部屋に入るやいなや、土佐社長は叫んだ。
たしかに、いびつな形の奇妙な部屋だ。土佐社長は当時、この部屋でどう暮らしていたかを説明してくれた。
ここが明和電機の原点か。感動で黙り込むわれわれに対し、土佐社長は当時をこう振り返った。

つくばでの、孤独と迷いの日々。時にはこの奇妙な部屋から飛び出したくなったこともあっただろう。しかし土佐社長は、これらの日々があったからこそ、明和電機が生まれたと語った。

土佐社長が兄の正道さんとともに「明和電機」を立ちあげたのは、卒業後もまだつくばに住んでいた、1993年のことだった。
原点で再び
つくばで孤独に向き合ってから、およそ30年。展示会にはつくばで生み出された作品も並び、凱旋ライブコンサートでは、その作品による演奏も披露された。
コンサートには、ファンだけでなく、多くのつくば市民が集まった。明和電機ワールド全開の、2時間だった。
そこには、孤独のなかでつかんだ「絶対的な自信」があった。
土佐社長に若者に向けたメッセージを聞くと、つくばでの日々を思い返しながら、こう話してくれた。

新型コロナウイルスの影響で周りの人との接触が減って、孤独を感じることが多くなったいまこそ、伝えたいその思い。中年となり、若手とのコミュニケーションなどに悩む記者とカメラマンにも、ぐっとくる言葉だった。
明和電機の原点は、孤独にあり!
孤独をおそれることなかれ!