
30代で夫が「がん」に 家族で見つけた「幸せのかたち」
「家族ががんで亡くなってかわいそう、だけではなくて、わたしたちは幸せに生きていることを知ってほしい」
こう話すのは西川まりえさん、32歳です。キラキラ光る海辺で手に取ったのは、がんで亡くなった夫が愛用していたカメラ。2歳になった息子の成長を記録し続けています。
将来父親のことが分かるようになったとき、「お父さんは幸せな人だった」と伝えたいというまりえさん。家族ががんになって考えた「幸せ」について聞きました。
(2023年4月14日放送のドラマ「幸運なひと」制作舞台裏をもとに記事を作成しています)

結婚から1年でわかった夫・シニさんのがん
まりえさんと夫・鄭信義(チョン シニ)さんが出会ったのは2013年。
当時シニさんは金髪で、“チャラチャラしている印象”だったそう。
それでも好意をまっすぐに伝えてくれて、だんだんと「意外といい人なのかも」と思うように。
勉強が好きで、いつも本を読んでいたかと思うと、おちゃめに笑わせてくれたというシニさんと、5年の遠距離恋愛の末に結婚しました。

しかし、そのわずか1年後、シニさんに大腸がんが見つかりました。
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西川まりえさん
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「私の祖父母ががんだったということもあって、自分の中でのがんのイメージは『高齢の人がなるもの』でした。なので、最初にシニさんにがんの可能性があると聞いたときには、『えっ、なんで?』という気持ちが大きかったです」
(シニさんとデートをする西川まりえさん)
「若い年齢でのがんということを全く想像できていませんでした。がんになったら入院をして寝たきりになって亡くなるというイメージがあったので、シニさんががんになったときはそういう未来しか見えなくて」
(新婚旅行のときのシニさん)
「実際にシニさんと一緒に勉強会などにも参加するようになって、若い人のがんがたくさんあるということ、仕事も家庭もあって、“がんと共に生きていく”という考え方、そういう生活があるということを初めて知りました」
いつもユーモアを忘れなかったふたり

シニさんの手術が終わったあと、医師から「余命は2年」と伝えられました。
それを聞いたまりえさんとシニさんのご家族は「本人には余命を伝えない」という選択をしました。
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西川まりえさん
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「当初私は、シニさんは全部知りたいだろうなと思ったので伝えようと思っていました。
ですが、シニさんのご家族と話し合う中で、『余命を伝えたら生きる希望がなくなってしまうかもしれない』という話が出て、余命は伝えないまま病状や治療の方針を伝えるというふうに、お医者さんがすごく上手に話してくれました。余命というのはやっぱりちゃんと診断結果とかに基づいて言われているので、信じないといけないという思いと、信じたくないという気持ちもあったのですが、とにかく今を楽しく生きようという思いでいました」
治療中も決してユーモアを忘れなかったという、まりえさんとシニさん。
抗がん剤治療の影響で髪が抜けてしまう前に、シニさんの親友の美容室で行ったのは「断髪式」。

薬の副作用で顔がむくんだときにも、ふざけて写真を撮りました。

デートをしたり、近場に旅行へ出かけたり、ふたりで笑い合う時間が多かったと言います。
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西川まりえさん
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「抗がん剤治療も、しんどいときはしんどいと言ってくれるのですが、しんどくないときは切り替えて自分の好きなことをするというふうに過ごしていました」
「検査の結果が悪くて暗い気持ちになったときにはお寿司食べに行こうかみたいな感じで、一緒においしいものを食べに行って。シニさんはもともとバイクが趣味だったのですが、治療が始まってからは乗らなくなってしまって、代わりに電動自転車を買ってよく2人でサイクリングに行きました。これはがんになってからできた趣味ですね」
「毎日できることをして過ごして、楽しめることは楽しんでいる姿を見て、これでいいんだろうなと思って過ごしていました」
ある日のケンカ 「死を受け入れないで」まりえさんの感じたさみしさ

仲むつまじい二人でしたが、治療中ケンカをしたこともありました。
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西川まりえさん
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「シニさんはよく『いつ死んでも後悔はない。死は終わりじゃないから、別れではない』みたいなことを話していました。すごく勉強熱心で仏教の本も読んでいて、いま思えば将来自分が亡くなったあとも私が自分の人生を歩んでいけるようにと考えながら、優しさで言ってくれたのかなとも思うのですが、それがそのときの私には理解できなくて」
「『死んだら終わりじゃない?話もできないし』と伝えてケンカになったことがありました。シニさんが死に対してあまり恐怖を感じないというか、死を受け入れているところがあって、それが私にはすごくさみしかったです」
"子どもが生まれたら生きる希望になるかもしれない"
2週間に1度の抗がん剤治療を続けていたシニさん。
治療の効果をみるために行う腫瘍マーカー検査の結果に気持ちが落ち込んでしまう日々が続いていました。その頃、まりえさんの中にある思いが芽生えていました。
子どもを授かりたいという気持ちです。

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西川まりえさん
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「治療を進める中で私にできることは本当になくて、日々ちょっと楽しくなるようなことをすることはできるけれど、生きる希望につながるような大きな幸せをあげることはできないなという思いがあって、子どもを持ちたいという思いは2人ともあったので、子どもが生まれたら大きな喜びになるかなと思いました」
「シニさんに希望を持ってほしいという思いももちろんありましたが、『シニさんが希望を持って生きている姿を見たい』という、自分のためという部分もあったかなと思います」
もともと子どもがほしいと思っていた2人。シニさんの抗がん剤治療が始まる前に、精子の凍結を行っていました。当時非常勤職員として働いていたまりえさんは、経済的な面も考えて正職員になるための試験を受けることを決意。合格を機に、シニさんに妊娠への一歩を踏み出したいと告げ、体外受精で陽向(ひなた)くんを授かりました。

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西川まりえさん
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「治療にもお金がかかるし、絶対に陽向を幸せにしたいという思いがあったので、正職員の試験の勉強はちょっと頑張りました。近くに寄り添って看病するというのは専門の人に任せて、私ができることは、シニさんに安心してもらえるようにすることだと思っていました」
息子が生まれ初めて出た言葉 「死にたくない」

陽向くんが生まれたのは、シニさんのがんが分かってから2年2か月後。
その後7か月間、3人で一緒に過ごすことができました。その中で、がんになる前には知らなかったシニさんの一面にふれることになります。
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西川まりえさん
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「陽向が生まれてから、『死にたくない』という言葉を言うようになりました」
「それまでは弱さとかは全然見せなかったし、がんになってから今までなかったことだったので、すごく驚いたことでもありました。でもそれを言ってもらえたことがすごくうれしかったです」
「自分のエゴになってしまうかなと思うのですが、子どもを持つ理由でもあった『希望を持ってほしい』と本当に思っていたので、そういうふうに思ってくれるようになったことが、うれしくもあり、すごく悲しくもありました。でもそのときは、『幸せ』を実感しました」
シニさんが息子に残した手紙
亡くなる2週間前、シニさんは陽向くんへのメッセージを残していました。
その一部を紹介します。

君へ
この手紙を君が読めるようになるころ、僕はこの世にいないだろう。
もう僕は神や仏を信じるとか信じないとかというレベルではなく、
信じざるを得ないところまで僕は追い詰められている。
僕は死にたくない。
君の人生をずっとずっと見ていたい。
君の母をもっともっと愛したい。
僕の母より先に死ぬことを申し訳なく思う。
しかし、何度もくじけそうになっても
「私の人生はここから始まる」
という魔法の言葉に何度も救われる。
それは過去を背負い未来を歩む言葉だ。
海に沈んでいく太陽、波の満ち引き、体に触れる風、君が感じる全てに僕は存在している。
だから安心して欲しい。姿、形は見えないが、君と共に生きていくことを誓う。
どんな時でも君を愛することを誓う。
なにより、君の母は最高だ。なんでも相談するといい。
生まれてきてくれてありがとう。
またどこかで会おう。じゃあ。
父より

【次に読むなら】「がんで亡くなった夫は"幸運なひと"だった」 脚本家・吉澤智子

"がん患者・患者家族らしさ"と「わが まま」な生き方 ドラマ「幸運なひと」 脚本家の実体験
ドラマ「幸運なひと」は、脚本家・吉澤智子さんの実体験をもとに制作されました。
肺がんでこの世を去った吉澤さんの夫・雅司さんは生前、「俺は運がいい」と口癖のように話していたと言います。ぜひこちらの記事もご覧ください。
