
20代で子宮頸がんに|出産・仕事・結婚の悩みを超えた「幸せな人生」とは ドラマ「幸運なひと」
ドラマ「幸運なひと」で、がんと診断された松本拓哉(38)が訪れた「患者の会」には、実際にがんを経験した当事者が集まりました。その一人、23歳で子宮頸(けい)がんと診断され、子宮を摘出した女性は、仕事も婚活もうまくいかない中、ある“幸運”が重なり、結婚。二人で暮らすマイホームも購入して、やりたいことのために起業もしたと言います。
この女性が、いま多くの人たちに伝えたいこととは。
(2022年4月15日放送のニュースウオッチ9の企画と、2023年4月4日放送の特集ドラマ「幸運なひと」での取材を元に作成しています)

“台本なし”の「患者の会」 自分役を演じた阿南里恵さん
「患者の会」の撮影が行われたのは、2022年12月19日。
集まったのは、自分自身や身近な人ががんになったという当事者たちでした。

生田斗真さんや相島一之さん、内田慈さんら俳優陣はドラマの中の役を演じながら参加。
一方、当事者たちに台本はなし。「自分役」として、これまで経験したことや幸運だと感じたことを伝えていきました。
その当事者の中で、20代で子宮頸がんと診断された経験を語ったのは、阿南里恵さんです。

阿南さんがまず語ったのは、がんと診断された当時のことでした。
-
阿南里恵さん(患者の会に出演)
-
「私は、23歳のときに子宮頸がんが見つかりました。仕事もすごい楽しくて、おしゃれも好きで、恋愛もして『社会人最高!』というときに見つかって。もうすぐに子宮全摘出になるというのが告げられました」
子宮頸がんやHPVワクチンに関する記事一覧はこちら
「あの日突然、子宮頸がんと告知された」

23歳の誕生日を迎えてまもなく、阿南里恵さんは婦人科を受診しました。
1か月ほど不正出血が続いていたからです。
生理が長引いているのかな、そのくらいに考えていたという阿南さんでしたが、診察した医師から意外な言葉が返ってきました。
-
医師
-
「すぐに両親を呼んでください」
両親と診察室に入り、告げられた病名は「子宮頸がん」。突然のがん告知でした。
阿南さんは、泣き崩れる両親を横目に、ただ呆然としていたといいます。
-
阿南里恵さん
-
「先輩の勧めで子宮頸がんの検診を受けてから半月も経っていませんでした。そのときは異常が無かったし、若い人は死ぬかもしれない病気にはかからないとどこかで思っていたので、がんと言われても、ピンときませんでした」
痛みはありませんでしたが、がんの診断は「ステージ2B」。
子宮とリンパ節などを切除する手術が必要でした。

子宮頸がんは、主に性交渉のとき、ヒトパピローマウイルス=HPVに感染することがきっかけで発症するがんです。 仕事も結婚もこれから、という20代から増え始めます。
子宮頸がんは、性交渉を一度でもしたことのある女性なら誰でもなりえます。原因となるHPVはありふれた、どこにでもあるウイルスなのです。
しかし、阿南さんが「子宮頸がん 原因」とインターネットで検索すると、ブログやコメント欄には目を背けたくなる言葉が並んでいました。
「性に奔放な女性がなる病気」「性交渉が多いことが原因」・・・
世間には、子宮頸がんに対する誤解や偏見が数え切れないほど存在していたのです。
-
阿南里恵さん
-
「母は『あんたはそういう経験が多いんか?』と半分怒りながら私にぶつかってきました。ネットで誤った情報を目にしていたんだと思います。だけど、何も答えられなかった。付き合った人が1人だったらよくて、2人だったらダメなのかとか、わからないじゃないですか。だから、私自身、そうなのかなって考えてしまいました」
家族の中には“里恵が恥ずかしい病気になった”という空気があり、 阿南さんは子宮頸がんになった事実を、親戚や同級生に隠し続けました。
子宮がなくなる恐怖で家を飛び出した
手術前にがんを小さくするため、2回の抗がん剤治療を経験した阿南さん。
副作用のつらさに加え、髪の毛が抜け落ちる現実を受け入れられずにいました。
そして、子宮を摘出する手術の入院前日。
阿南さんは、大阪の実家から突然姿を消しました。
家を飛び出したのです。
当時、母親に送ったメールが残っています。
阿南さんが母に送ったメール
「母さん、ごめん。東京に来ちゃった。りえ、手術する覚悟ができてないねん。手術がどうこうじゃなくて、子どもを産めなくなることに対して。ちゃんと入院までには戻るから。それまで、一人にしてほしい」
-
阿南里恵さん
-
「子どもを産めなくなるってことを短期間で受け入れないといけなかった。言われるがままに治療をこなしてきたけど、自分で納得してから手術を受けたかったんです。結婚して子どもを産んでという漠然とした夢があったのに、子宮を失ってまで生きる価値があるのかとか、一人でひたすら泣きました」
その2時間後、メールが苦手な母、洋子さんから返信が届きました。
母・洋子さんからのメール
「りえ 必ず帰って来て下さい。人間生きてるだけでまるもうけ。子どもが産めなければそれはそれで、また生きていく道があると思います。何時でもりえの事はお母さんの命がある限り応援したいと思います。きっと、きっと思い切り力いっぱいわらえる時まで頑張ってくれませんか。お母さんとお父さんのためにも。元気なりえがやっぱり1番カッコイイとお母さんは思います」
翌朝、阿南さんは新幹線で大阪に戻り、子宮を摘出する手術を受けました。
治療による合併症 「リンパ浮腫」を抱えた日常とは
がんの治療を終えた阿南さんは毎日、分厚いタイツとゴム手袋、それに筒状のナイロン生地を使う生活を送っています。

これは、治療による合併症「リンパ浮腫」の症状を抑えるための必須アイテムです。

-
リンパ浮腫とは
-
がんの手術でリンパ節を取ったり、放射線治療を受けたりした人に多い合併症。老廃物を運び出すリンパ液の流れが滞ることで脚などにむくみが出る。子宮頸がんでは、子宮とともにリンパ節を取った人のうちの2割から3割に起きるとされる。
“脚のむくみ”と聞くと、1日中立ちっぱなしで疲れた日のパンパンなふくらはぎをイメージするかもしれません。
しかし、「リンパ浮腫」ではリンパ液が排出されないことから、脚の太さが2倍以上になる、関節が曲げられない、痛みで歩けない、高熱が出るなど、深刻なケースもあります。
阿南さんの場合、子宮けいがんの手術をした翌年から症状が出始め、リンパの流れをよくする手術を5回繰り返したことで改善しましたが、今も日常生活に大きな影響が出ています。

阿南さんが使う分厚いタイツは、むくみの悪化を防ぐ医療用の弾性ストッキングです。
締め付ける力がとても強く、はくときに引っ張ると手の皮が擦りむけるため、ゴム手袋が欠かせません。
筒状のナイロン生地を素足に身につけてから医療用ストッキングを滑らせるようにしてはき、最後にナイロン生地だけ抜き取ります。

どんなに暑い日でもこの分厚いストッキングが欠かせません。
着脱には10分以上かかるそうで、温泉にも行かなくなったといいます。

阿南さんが次に見せてくれたのは、35着のワイドパンツ。
がんになる前は、スカートにピンヒールが日常でしたが、脚のむくみでどちらも諦めざるを得ませんでした。

-
阿南里恵さん
-
「周囲の人の視線が私の脚にいくのが気になり始めて、スカートをはけなくなりました。ピタっとしたパンツも入らないから、ワイドパンツばかりはくようになりました。スカートは衣装ケースの中にしまっていたんですけど、このあいだ全部処分しました」
「子宮を失った私 仕事は・・・」

脚のむくみは続き、情熱を注いできた仕事にも影響が出ました。
-
阿南里恵さん
-
「毎日夜遅くまで仕事をして帰るのに、明日も早く仕事に行きたいという毎日で仕事に燃えていた時期でした。ですが、立ちっぱなしの仕事をしたり、歩きすぎたりすると、その日の夜に急に脚が腫れ上がって、40度近い高熱が出るんです。そうすると、翌日仕事を休まなければなりませんでした」
高熱は月に一度は突発的に起きました。
前日まで元気なため「本当に阿南さんは病気なの?」という同僚からの声もあり、みんなと同じように働けない申し訳なさから会社を退職。
30代半ばまでの10年間、転職を繰り返しました。
転職の面接では、どうしても合併症のことは言い出せなかったといいます。
「子宮を失った私 恋愛は・・・」
がんの治療後、20代半ばを過ぎると、友達の結婚ラッシュが始まり、出産の知らせも届くようになりました。
しかし、阿南さんは恋愛にも二の足を踏むようになったといいます。
-
阿南里恵さん
-
「子どもが産めなくなったという勝手な負い目がありました。温かい家庭を築きたいという夢があって、いいお父さんになりそうな人を好きになるんです。でも自分と結婚すれば、その人も子どもを持つことを諦めなきゃいけないのかと思うと、自分自身が身を引いてしまうんです」
婚活もしました。
恋愛を始める前に子どもが産めないことを伝えて、それでも受け入れてくれる人を見つけたいと思ったからです。
結婚を意識した男性とも出会いましたが、子どもができないことを伝えると離れていったといいます。
「私は生き直す」 転機となった父の死

28歳のとき、阿南さんは講演活動を始めました。
自分の経験を誰かの役に立ててもらいたいと、自分にできることを模索していたのです。
活動は広がり、さまざまな学校に呼ばれるようになりました。
その一方、仕事も恋愛もうまくいかない日々は続き、自暴自棄になることもありました。
-
阿南里恵さん
-
「治療を終えてからの方が長かったし、つらかった。どうやって人生を築いていけばいいのか分からない。一時は社会を恨んだり、なんて生きづらい国なんだと思ったりしていました」
常に生きづらさを抱えていたという阿南さん。
35歳のとき、人生の転機となった出来事がありました。
父、信秀さんが肺がんで亡くなったのです。

信秀さんの最後の望みは「里恵にそばにいてもらいたい」というものでした。
仕事を休んで病室に寝泊まりしながら二人だけの時間を過ごした阿南さんは、父が亡くなるまでの1週間が「かけがえのない時間になった」といいます。
-
阿南里恵さん
-
「父の愛を今までで一番感じて、愛されていたんだなって思ったんです。父はやっぱり私が人生を諦めることを望んでいなかったんじゃないか、私が幸せになることを誰よりも望んでいたんじゃないかと思えました。これは私にとって、すごく大きなきっかけになったんです」
日本を飛び出す 最愛の人との出会い
父親の死後、阿南さんは海外に行くと決意します。
行き先は、以前からインテリアやデザインを学んでみたいと思っていたイタリアでした。

イタリア語を学び始めて1年半、阿南さんは37歳でイタリアに渡りました。ここで運命の人に出会うことになりました。
3歳年上のアレッサンドロさんです。

語学を学ぶ人が集まる交流サイトで知り合い意気投合。なぜイタリアに来たの?という彼の質問に、おぼつかないイタリア語で、子宮頸がんになったことや子どもを産めなくなったことを伝えると、意外な言葉が返ってきました。
-
阿南さんの夫 アレッサンドロさん
-
「イタリアは子どもをつくるために結婚する国じゃないよ。それより、里恵の体は大丈夫なの?」
-
阿南里恵さん
-
「彼は私の体のことをすごく心配してくれて、子どもを産めないことにも本当に抵抗感がないと感じたんです。すごく優しくて、こんな人を逃して日本に帰ったら、もう二度と出会えないだろうなって思いました」
出会った翌年の2019年12月、38歳でアレッサンドロさんと結婚。
今は、二人で日本に移り暮らしています。イタリア流の濃い目のコーヒーとさまざまな形のパスタを楽しむのが二人の日課です。

夫の隣で見つけた新しい目標 「起業」
一度は諦めかけていた目標を一つ一つ形にする阿南さん。
日本語学校に通いながら、仕事を探す夫と日々を過ごしていく中で、
新しい目標を持つようになりました。
それは、「日本語が話せない外国人の生きづらさを取り除くこと」です。

阿南さん自身、がんと診断され、イタリアに渡るまでの14年間、転職を繰り返しながら10を超える企業や団体を転々とした経験から、日本では、"ハンデとなりうる何か"を抱えたとたんに生きづらくなることを痛感してきました。それは、がんに限らず、日本語を話すことができない夫や、同じような外国人にも当てはまることでした。
日本企業の求人の多くは、日本語能力検定1級という応募要件がつきまとい、病院や市役所、宅配便の再配達まで、常に"付き添い"の存在が求められます。
外国人に対する偏見から、違和感のある対応をされることも珍しくありません。

一緒に日本に来てくれた夫、そして同じ境遇に置かれた多くの人たちの力になりたい。
その思いから、阿南さんはいま、ハローワークの職業訓練を利用しながら外国人に日本語を教えるための講座に通い始めています。
-
阿南里恵さん
-
「来年には起業したいと思っています。イタリアの若い人たちは、日本語は話せなくてもアニメなどの影響で日本に関心が高い人が多くいて、彼らがのびのび日本で暮らしながら自分らしく生きていくための架け橋になることがしてみたいと思いました。語学だけでなく生活支援や就職支援もできる事業を立ち上げ、ゆくゆくはがんの経験者など就職に困っている人も雇っていきたいです」
がんになって変わった自分がいる 「患者の会」の当事者も共感

阿南さんは「患者の会」のみんなと、がんになった後に変わった価値観について話しました。

「前と同じように日本で暮らしていても、彼が一緒にいるから以前のような感覚とまったく違う日本での暮らしができてる。やっぱり家族が1番で。次に仕事というふうに、価値観が全然変わったので」

「そうだよね、だって私はこの先なんのために生きていけばいいんだとかって、そうやって思い悩んだときから比べたら、全然違うよね。よかったね~」

「僕も本当に里恵さんが言う『自分の優先順位』が変わったんです。今までずっと仕事仕事という人生だったけれども、やっぱりわが家に赤ちゃんが生まれて、今後はこの子のために生きていこうというふうに思うと、長生きしなければいけないということも思いますし、今まで自分のためだとあまり体に気を遣ってこなかったけれども、誰かのためになると変わりますよね」

「そうそう。相手に対しても、やっぱり命は有限だってすごく思うので。旦那さんが日本で暮らしていくと、やっぱり同じように大変なんですよ。言葉が話せないので。だから、彼のために私は家のローンを単独名義でくんで、家を買ったんです。私がもしいなくなっても彼はこの家で暮らすことができるから」
いま、やりたいことを迷わずやる。そして、誰かのために自分が変わることを楽しむ。
がんを経験した人たちが話すことの一つ一つに、幸運になるヒントが隠れているのかも知れません。
「若い女性たちへ 子宮を失った私が伝えたいこと」

その一方で、阿南さんは「がん」という病気について、多くの人に知っておいてほしいことがあると言います。
それは、子宮頸がんの予防についてです。
2022年から、子宮頸がんやのどのがん(中咽頭がん)などを予防するHPVワクチンの積極的な接種の呼びかけが再開され、この4月からはより予防効果が高いとされる「9価HPVワクチン」も実質無料で接種することができることになりました。
阿南さんは、知らないまま「予防できるがん」に苦しむことになる人が一人でも減ってほしいと願っていると言います。

-
阿南里恵さん
-
「子宮頸がんになって失った選択肢はあるんですけど、自分の幸せのかたちは見つけることはできると思っています。ただやはり、合併症があったり、早発閉経のリスクがあったり、いつまでたっても、子宮頸がんになったことが私の人生からなくならないんですよね。あのとき予防できていたら、早期発見できていたらという思いはずっとあるんです。接種の積極的な呼びかけが止まっていた9年間で、子宮頸がんへの偏見も変わっていないし、その辛い状況の中で子宮頸がんにかかってしまう人がいるんじゃないかと心配しています。本当にゼロから、子宮頸がんというものを正しく伝えて、ワクチンのきちんとした情報を知ってほしいと願っています」
【次に読むなら】「がんは日々のとなりにある」 多部未華子さんが夫をがんで亡くした女性と対談

多部未華子さんが夫をがんで亡くした女性と対談
多部未華子さん(34歳)は、ドラマ「幸運なひと」で、夫ががんと診断された女性「松本咲良」を演じました。その撮影を前に、多部さんは夫をがんで亡くした女性に話を聞きました。ぜひこちらの記事もご覧ください。
子宮頸がんやHPVワクチンに関する記事一覧はこちら
