
父を亡くして、人の痛みや苦しみに気づけるようになった|「あの日」の子どもたちへの10の質問
東日本大震災を経験し、大切な人やものを失った子どもたちに、いまだから語れる気持ちを尋ねる、「『あの日』の子どもたちへの10の質問」。
今回答えていただいたのは、宮城県仙台市出身の萩原彩葉(さわは)さん(19)。震災当時は8歳、小学2年生でした。
仕事で沿岸部に行っていた父を津波で亡くした萩原さん。悲しみをも誰にも見せずに過ごしていましたが、支えてくれる人と出会ったことで、気持ちが変わっていったと言います。
今は保健室の先生になるという夢に向かって大学で学んでいる萩原さんに、「10の質問」をしました。(2022年2月)


最近あったうれしいこと…えー、何だろう。どのジャンルでもいいですか?最近あったうれしいことは、高校時代の自分の後輩たちが、全国大会に出たことです。
萩原さんは高校時代、バレーボール部のマネージャーとしてチームを支えていました。


震災を思い出すのは…最近地震が多いので、地震が起きたときに「あのときみたいになるんじゃないかな」って思い出すのと、ニュースとかで「震災何年」とかの記事が出たりするので、そういうときに思い出します。


自分の中で大きく変わったなと思うのは、震災で父を亡くしたことで、人の痛みとか苦しみに気づけるようになったことが大きく変わったことで、変わらなかったことは、苦しいときとかしんどいときに笑っていられる強さは変わらなかったなと思います。


10年前の自分に声をかけるんだったら、「絶対に自分の気持ちを分かってくれて、受け入れてくれる人たちがどこかにいる」っていうのを伝えてあげたいです。


震災で自分が悲しいとか苦しいとか、そういうマイナスな、負の感情を振り返ると長かったって感じますけど、父が亡くなったことで、あしなが育英会と出会えたり、もっといろいろな大切なものと出会えたときは短かったなって思います。
震災後、家族や友達の前ではつらい気持ちを隠し、笑顔で過ごしていたという萩原さん。親を亡くした子どもを支援する「あしなが育英会」に通い始めたことで、少しずつ気持ちを話せるようになり、悲しみと向き合う大切さを知ったと言います。



私の今の夢である養護教諭になって、学校の保健室で、子どもたちの支えになるような人になっていたいなと思います。
震災後、周りに同じ境遇の子はおらず、特別視されていじめに遭ったという萩原さん。そのとき支えてくれたのが、保健室の先生でした。今度は自分が子どもたちの支えになりたいと、今、保健室の先生を目指して大学で学んでいます。


10年後、私は29歳でもうアラサーになっているので、ちゃんと今の夢の養護教諭になれているかっていうのと、誰かと結婚したりとか、結婚していなかったとしても、今幸せかっていうのを質問したいです。


今いちばん会いたいのは、あしなが育英会の「つどい」に参加していたときに出会ったファシリテーター(遺児と接するボランティア)で、そのファシリテーターに会っていなかった期間、自分がどれくらい成長して、どういう毎日を送ってきたかっていうのを伝えたいなと思います。
あしなが育英会で出会ったボランティアの森田望奈未(みなみ)さんは、萩原さんが、父を失った悲しみを初めて打ち明けることができた相手です。
このインタビューのあと、萩原さんは、森田さんと4年ぶりに再会しました。
ふたりの対談は、この記事の下にリンクがあります。



父が亡くなる前は、家族って何なんだろうっていうのを考える年齢でもなかったので、どう変わったかっていうのは分からないんですけど、同じ苦しみを乗り越えたチームみたいな感覚です。


私の宝物は、父との思い出とか、あしなが育英会での思い出とか、高校のときの思い出とか、物っていうより、私が今まで経験してきたことがいちばんの宝物です。
出会わせてくれて、ありがとう
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