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ふるさとに似た場所を、ずっと探していた

笑顔で野菜作りに励む女性。宮城県出身の大友麻衣さん、27歳です。

東日本大震災で父親を亡くし、悩んだ末に九州で農業に挑戦することにしました。

ふるさとを離れたからこそ湧き上がってきた、亡き父、そして家族への思い。それを、震災後の自分を支えてくれた“心の癒やし”だという、東北レインボーハウスの職員に打ち明けました。

東日本大震災で、親や家族、故郷・思い出など大切なものを失った子どもたちの“いまの気持ち”を、誰かとの対話を通じて記録。「家族」「生き方」「人生」…個人の名前が出る話などはのぞき、ありのままの言葉を残していきます。

大友 麻衣さん(27)
仙台市若林区の沿岸、荒浜地区出身。高校1年生のときに震災を経験し、津波で父・喜一さん(震災当時56)を亡くす。「災害危険区域」に指定されたため、実家は仙台市内の内陸部に新設。
現在は母を宮城に残し、宮崎県・綾町で地場野菜などを作る農家で農業を勉強中。
今月(6月)からワイナリーでの勉強も始めている。東北レインボーハウスとの交流は、2016年ごろから始まった。
左:山下 高文さん(32) 右:四海 結花さん(31)
あしなが育英会が運営し、震災などで親を亡くした子どもたちの支援を行う東北レインボーハウスの職員。2人とも東北出身で、学生時代に遺児との交流プログラムを通して「当事者が語れる環境」や「思いを受け止めてくれる存在」の大切さを痛感し、あしなが育英会に就職した。

悩んだ末に転職し九州へ 農業への挑戦

大学卒業後、1度は東京でスポーツ関連の法人に就職した大友さん。しかし休暇のたびに宮城に帰ったり、日本各地を旅行で訪れたりするなか、震災前の暮らしが内面的に充実した時間だったことに気づいたといいます。今の生活に自分は満足できているのか…。仕事を途中で辞めていいものか…。悩んだ末、2019年に宮崎へ移住し、農業に携わることにしました。レインボーハウスの2人とは、移住した直後に会って以来の再会です。

大友さん

久しぶりにゴリさん(山下さん)とチュウカ(四海さん)の顔を見られて、うれしいなという気持ちと、ドキドキワクワクという感じです。

四海さん

めっちゃ、聞きたいことがある!

対談はリモートで実施
山下さん

(最後に会った)「にじカフェ」(※)で「麻衣ちゃん、どうしてるんだろうね」って、四海と話していて。

にじカフェ
東北レインボーハウスが18歳以上の子どもたちを対象に定期的に開催してきた、社会への巣立ちを応援する場。親を亡くした子どもたちや職員たちが集まり、その時々で直面している悩みや将来の目標などについて、毎回ざっくばらんに語り合う。
大友さん

今はこの宮崎の綾町という有機農業を町全体で推進している、歴史が40年ぐらいある町で、農業を家族経営しているところで研修生みたいな形でお世話になっています。そこで週5日、正社員みたいな形で働いてて、2年になります。去年9月ぐらいに畑をちょっと借りて、自分で野菜を育て始めました。私は宮崎にいながら仙台の伝統野菜とか、東北の伝統野菜をこっちでも食べられたらいいなと思って、そういう品種を選んでライフワークみたいな形で始めました。

山下さん

畑の広さはどれくらい?

大友さん

広さはね、自分で食べる分と周りにちょっと配れる分ぐらいの広さで。

山下さん

どういうご縁でお世話になることになったの?

大友さん

3年前に宮崎に旅行に来たときに、すごく気に入った宿があって。そこの料理をしていたシェフの方がたまたま福島出身の人で、話がすごく盛り上がって。そのときは将来的にカフェとかやりたいと思っていて、「農業からやりたいんですよね」みたいな話をしたら、たまたま「卸してる農家さんが、綾町にいるから会ってみる?」って言ってくれて、その次の日に綾町に行って、会って、話して。仕事を辞めたタイミングで「やっぱり宮崎がいいかな」と思って、「働きたいです」って連絡しました。

山下さん

それでもう2年か。

四海さん

あっという間だね。すごいご縁だよね。

大友さん

本当に出会うべくして会った人って感じがする。その人。

四海さん

それをキャッチして宮崎まで行っちゃう麻衣ちゃんも決断力あったよね。

大友さん

その人に会うために宮崎に来たんだなって思えるぐらい、会えてよかった人だなと思って。職場の健康診断の待合室で、たまたま九州の特集ページを読んでいて、そこに、今お世話になってる農家さんもたまたま出ていたの。「綾町」みたいなページで、「有機農業の町なんだ…」と思って。
でも仕事を辞めるに辞められない、どうしようみたいに迷っている時期で、モヤモヤしていたから、とりあえず宮崎に行ってみようと思って行ったら、たまたま紹介してもらった。

山下さん

もう引き寄せられるように。

四海さん

ずっと悩んでたもんね。あのときね。

大友さん

うん。超モヤモヤしてた。
「にじカフェ」で自分の今の気持ちとかを絵に描いたりしてたじゃん?そのときとか、相当悩んでいたんだろうなって思う。

四海さん

(その絵)あるよここに。

大友さん

まじで?

大友さんが描いた絵
右下に「宮崎に逃げたわけではない」と書いている
四海さん

懐かしいと思いながら見てた。“逃げで宮崎に行くわけではない”って書かれてあった。

大友さん

ええ!そんなこと書いてたんだ…。
面白い、なんでだろう。なんでそういうふうに考えてたんだろう。

2020年2月 「にじカフェ」で絵を発表する大友さん

「ずっと似ている場所を探していた」って気づいた

四海さん

もうしばらく宮崎にいる感じ?

大友さん

そうね、肌感覚で「すごく合っているな」という感じがしていて。
地元の(仙台市)荒浜がもう住むことができない場所になって(※)、たぶんずっと似ている場所を探してたのかなって思っていて。それで今いる綾町が、昔を思い出すような感じの雰囲気を感じられて、すごく居心地がいいなって思ったりしつつ、最近はちょっと「地元もいいな」みたいな。チラチラしてきて、ちょっと悩んでいるというか…。

「災害危険区域」に指定された荒浜地区
沿岸部の自治体は、東日本大震災で浸水した地域の一部を、再び津波に襲われる危険性が高いという理由から、住宅の新たな建設を禁止する「災害危険区域」に条例で指定しています。そのため荒浜地区は、居住用の建築物の新増改築ができず、住むことができません。跡地には事業者の招致が行われ、土地活用が進められています。
大友麻衣さん
四海さん

そっか。宮城のことも浮かんでるんだね。

大友さん

この1年で小学校の同級生、女子9人のうち3人が出産して。結婚・出産がバーッときて、地元を考える時間が多い。今、荒浜地区は新しい事業者とかが入ったりして、変わってきているみたいで、そういう話を聞いていたら「ああ、地元もいいのかな」と。
結局、今、綾町でおじいちゃんおばあちゃんと話しながら、心の豊かさを感じるのもすごくすてきだなって思うけど、どこかでたぶん“帰れる場所があっていいな”みたいな気持ちが私の中で最近出てきて。それって結局地元じゃないと落ち着かないのかなって思いながら、ちょっと悩んでいる。

山下さん

ちなみに、どういう将来像を描いている?今。

大友さん

今は、カフェみたいな場をずっとイメージしていて。
前の仕事を辞めたときは、飲食をやるために、まずは(生産の)現場からやりたい思いがあって農業を始めたんだけど、やっているうちに、農業がすごく楽しくて。それをなりわいとしていくのか、趣味程度にするのか、けっこう悩んでる部分で。
でもまず、自分で食べる分とか、周りにあげる分は自分で作っていきたいというのがあるから、ちゃんと野菜を育てられるようになる。あとは“食卓の場”みたいなのが好きだなと思って。だから、みんなで集まっておいしいごはんとかを食べられるような場ができたらいいなってずっと思っているから、形にできたらいいなと思っているかな。

山下さん

さっき荒浜の話も出てきて「将来的には自分が住んだ所で」というイメージも?

大友さん

荒浜が住める場所だったら、やりたいなというのがあるんだけど、住めない場所というのが、けっこう自分の中で引っ掛かっていて…。実家も、内陸の離れた場所にあるから。お母さんはいるけど、ただ家があるだけで実家という感じではない感じがする。この前までは「もう綾町でやる」と決めて、ちゃんとしようと思っていたんだけど、最近は地元もちらつき始めてるというか…。

山下さん

でかいよね。そこの決断は。

大友さん

そう。綾町も本当に地元みたいな雰囲気で生活できているのがすごく心地いいんだけど、でも、どこかでちょっと「羨ましいな」みたいな気持ちがあるのかもしれない。昔を本当に思い出すから。まだ踏ん切りが付かないというか。そんな感じかな。

「あしなが育英会」山下さん・四海さん
四海さん

小さいときも、おじいちゃんおばあちゃんのお茶っこ(お茶会)に混ざってたんじゃなかったっけ。

大友さん

そうそう。本当にそういう感じだったから、昔を思い出して生活できている。そこがいいなと思っているんだけど。

四海さん

そうか、そんなに似ているんだね。雰囲気。

大友さん

小さい豆腐屋さんとかがあったり…似ているかもしれない

ふるさとを離れて感じた、亡き父や家族への思い

大友さんの両親は、宮城県の沿岸部にある塩釜市の港にある仲卸市場で働いていました。
夏の思い出は、家族で海水浴場の「海の家」を営業したこと。一家総出の一大イベントだったといいます。亡き父、そして宮城で1人暮らす母。ふるさとを離れたからこそ感じる思いがありました。

山下さん

麻衣ちゃん、震災とかお父さんの話って最近するの?

大友さん

うん。するする。お母さんとはするね、けっこう。震災当時の話もするね。「あのとき、ああだったよね」とか「ああやって逃げたよね」とか。

大友さんの父・喜一さん
山下さん

どんなお父さんだったの?

大友さん

お父さんは、怒らない人だったかな。夫婦げんかしているところも見たことないかもしれない。たぶんそういう雰囲気が嫌な人で、むしろ私とお母さんが口げんかしたりするじゃん、そうしたらそこから逃げちゃうぐらい。「なんでそんなことで怒るんだ?」ってのが、お父さんに初めて怒られたことだったかな。それぐらい怒る・叱るってことをしない人だった。すごく優しくて、責任感があって、愛される人だったのかなって思う。毎年思い出すね、夏は。海開きとか、7月中旬ぐらいからお盆ぐらいまでの1か月間。ずっと家族で海の家とかしていたから、普通のサラリーマン家庭じゃなくて、自営業をしていた家庭だった。

四海さん

サラリーマンじゃなかったんだっけ?

大友さん

うん。お父さんとお母さんが塩釜の仲卸市場で働いていたから、夏は毎日ずっと学校のプール行くよりも、海に入って、海の家の手伝いをしていた。夜、お母さんと次の日の買い出し行って。朝からおばあちゃんと一緒におにぎり作ったり、海の家を往復したりという生活だったから、普通の家庭じゃなくて、ちょっと珍しい家庭だったかな。そこでの経験が今の自分の原動力になってるなって思ったりはする。

四海さん

家族総出でルーティンを…。その時間は、尊いよね。

大友さん

尊いね。夜、家族みんなで食事をするとかは、お父さんとお母さんの仕事的にも難しくて。たぶん他の家よりもそういう機会は少なかったのかもしれないけど、それ以外で、家族で過ごす時間がすごく大きかったから。塩釜の市場にも、年末、私と弟で手伝いに行ったり。そういう家族の過ごし方が、けっこうあったかなって。結局、自分はそこに戻りたいんだなって。今の綾町での生活じゃないけど、昔に帰る、結局、昔の経験が自分はすごく好きなんだなって思って

一方で、母に対する思いは変わってきたといいます。震災後、一緒に過ごしていたときは“壁”のようなものを感じていたという大友さん。別々に暮らすことになり、“心のゆとり”が生まれたと語りました。

四海さん

前にさ、“お母さんを置いていっていいか問題”があったじゃん。それは今どうなの?

大友さん

お母さんのことが本当に心配で、長生きしてほしいから「ちゃんと健診受けてるの?」「○○してるの?」「ごはん食べてるの?」とか、いろいろ言ったりしていたけど、「お母さんは、お母さんのペースがあるんだ」って思うようになったら、無理に言わなくていいんだと思って。それがお母さんの幸せだったら、もうそれが一番だなって思えるようになって。無理に言っても、しょうがないよな~みたいな、私は私のペースで今も生きてるけど、お母さんにはお母さんのペースがあるから、「ご飯を食べる時間、遅くない?」とか「健診受けろとか」、ああだこうだ言ったりはするんだけど、結局、お母さんはお母さんの幸せがあるからいいよなって思えたら、けっこう楽になった。そこの壁は克服できたかもしれない

山下さん

心のゆとり、余裕みたいなものが、お母さんへの思いの変化を生んでるのかな。

大友さん

それはあるかもしれない。東京にいるときは、バタバタして、毎日あっという間で、自分の将来もこのままでいいのかみたいな感じで、せっぱ詰まっていた感じがあったけど、今はそういう豊かさに触れることが多くて、本当にゆとりがあるのかもしれない

四海さん

自分を、そうやって俯瞰(ふかん)できて「今、いい感じです」って言えるのがすごくいいよね。

大友さん

居心地とか心地いい感覚って、言葉にできないというか、しないから、良さをすごく感じる。美しい自然とか、地元のじいちゃん・ばあちゃんと話すときの会話とか…そういうのって言葉にできない良さみたいな、言葉にしないからいいみたいな感覚。

四海さん

表情がすごく素敵だし、この2年いいこといっぱいあったんだろうなと思った、今。

大友さん

すごく感じてるかも。来てよかったなって思う。宮崎に。

まだ“タイミングじゃないこと”だってある

母との心の壁は無くなったという大友さん。それでも弟との間には、父の死を巡って、今も言葉にできないことがあると打ち明けました。

山下さん

あれ、麻衣ちゃん兄弟いたよね。

大友さん

弟が2個下で、東京にいる。

山下さん

2つ下だと25歳、26歳ぐらい?

大友さん

26だね。私が東京にいたときは、実家に帰るタイミングとかが合わなかったりしたから、お正月とお盆とか、年に2~3回ぐらいしか会っていなくて。

四海さん

うちらも会ったことないからね。

大友さん

そうだよね。私はレインボーハウスの行事に参加していたけど、弟は私がいるから参加しづらいのかなとはずっと思っていて。震災の話とかも、弟はまだできないっていうか、しないから。なんかあるのかな…みたいな、弟は弟なりに。

四海さん

2人の間で震災の話とか、お父さんの話とか、あんまりしないの?

大友さん

なんかしないね。いとことかと集まったときに、お父さんの笑い話じゃないけど、そういうのはするけど、震災当時の話は…。ちょっとまだできないかな。弟自身も、私も、お父さんが亡くなったことを「自分のせいで…」みたいな感じで悩んでいるときもあったし。当時のことを振り返ると、弟も弟でけっこう感じてるところはあるのかな。だから、そこはもうちょっと時間かかりそう。

四海さん

それぞれが、自分のせいで、っていうふうに思っているところがあるの?

大友さん

あると思う。弟は(発災のときに)荒浜にはいなくて。私はお父さんとお母さんとおばあちゃんと荒浜の家にいて、4人で避難したんだけど、弟はいとこの家に避難したんだ。1回、弟が私たちが避難する前に来ていたみたいなんだけど、友達が、中学校に避難しようみたいな感じで言って、いとこの家から1回離れたみたいなのね。で、私たちがその後に来たから、お父さんは、弟が荒浜に戻ったんじゃないかと思って、弟を捜しに行ったんだけど、その途中で津波に遭っちゃって。そのとき、私がお父さんに「弟がいないんだ」って言ったから、お父さんが「じゃあ捜してくる」って言って…。
私はそのひと言を言わなければよかったなって思ったし、あとから「中学校に避難するって言って避難したらしいよ」って言えば、(父は荒浜に)戻らなかっただろうしって思って、けっこう自分を責めた時期もあって…。でもたぶん弟は弟で、いとこの家にいれば良かったとかって思ってるんだろうなみたいなのを感じてて。だから、「あのときどうしてた」みたいなことは、話すには時間がいるのかなって、私的には思っていて。まだそこは触れられてないかな。

山下さん

それはお互いにってことだよね。弟も麻衣ちゃんがどう思ってるのか分からないし、触れていいのか分からないし。

大友さん

そうそう。だから、お父さんがいたころの話とか、本当はくだらない笑い話とかをいとこで集まってわいわい話したりするけど、そこの部分は、何かのタイミングでどうしてたみたいな話は、私も気になるから聞きたい気持ちもあるんだけど、まだタイミングじゃないのかなって

四海さん

無理に話すことじゃないからね。

山下さん

麻衣ちゃん自身は、自分のひと言が…って思っていた気持ちに、何か変化はあったの?

大友さん

そこに対してすごく恨んでたっていうか、言わなければよかったなって思うことのほうが大きかったんだけど、今はお父さんが守ってくれた命なのかなって思えるというか。のちのちお母さんに聞いたら、本当だったらお母さんも「一緒についてこう」と思っていたみたい。でも行かなかった。あのとき行かなかったっていうのは結局、お父さんが守ってくれたんじゃないかみたいな話をお母さんとちょっとしたことがあって。そのときに私もそういうふうに思えたっていうか。
お父さんがのちのち小学校に行ったらしいんだけど、行く前に、地元の同じ地区のおばちゃん2人が足が悪くてどうしようもなかったみたいで、その2人を小学校まで届けて避難させたみたいな話を聞いて、最後まで、お父さんらしかったんだなって思ったら、そういうお父さんらしい生き方を聞けてじゃないけど、なんかよかったというわけでもないんだけど…。これは、言葉にするのはちょっと難しいかもしれない。よかったって言うとすごいそれこそ安っぽい感じというか、当てはまらないんだけど。ほっとしたというか、最後までお父さんっぽい人だったんだなっていう感じかな。

今度は自分が安心や癒やしを与えられる立場になりたい

石巻レインボーハウスでファシリテーターを務めた大友さん(2017年)

大友さんは2016年、レインボーハウスのイベントで、阪神・淡路大震災(1995年)で家族を亡くした人たちと交流する機会を得ました。そこから次第に、少しずつ震災の経験との向き合い方が変化していったといいます。

四海さん

震災から5年たったときにさ、麻衣ちゃんが神戸との交流会に1人で申し込んできてくれたときがあったじゃない?そのときのこと覚えている?

大友さん

覚えている、覚えている。
たぶん、お知らせをたまたま見たんだよね、家で。なんかモヤモヤしてたんだと思う。自分の将来のこともそうだし、震災のこともそうだし、モヤモヤしている時期で。でも神戸で先に震災に遭った人たちがいて、そこで自分のモヤモヤがちょっと晴れるのかもしれない…みたいな気持ちがあって、申し込んだんだと思う。

四海さん

どうだった?

大友さん

節目の捉え方とか、神戸の人たちは10年、20年とかが区切りじゃないということを言っていて。私もそこはすごく腑(ふ)に落ちたと。あとは、私が16歳で震災に遭って、3・11の震災に遭って、神戸の人が言ってたのは“その倍の年”。私だったら32になったときが1つの節目だというふうに言っていて。
それはそのときそこで過ごした時間よりも、別のところで生きてる時間が長くなるからっていうのと、私だったらお父さんと過ごした時間よりも、過ごせない時間のほうが長くなり始めるっていうのを言ってて。それがすごく印象的で。

四海さん

あと数年だね。

山下さん

麻衣ちゃんは、ファシリテーター(※)として、石巻のレインボーハウスにも参加していたことがあったけど、参加してくれたのには思いが何かあったの?

ファシリテーター
自身の気持ちと身体を子どもに向けて、子どもが話しやすいように手助けしながら、子どもの話に耳をすます役割を担う人。
大友さん

自分より下の子たちが、たぶん自分が悩んできたような、お母さんのこととか進路のこともそうだし。それを壁と感じるときがくるのかなって思ったときに、自分がどう越えてきたか、一言を添えることで、その子の気持ちが楽になったらいいな、みたいなところがあって。だから、そういう気持ちで参加していた。
私も誰かに話を聞いてほしいとか、そこに誰かがいることで気持ちが楽になったりとか、そういうことを感じることが多かったから。言葉にはしないけど「いるよ」みたいな、安心感
私だったら、ゴリ(山下)さんとかチュウカ(四海)がいるって思うだけで、やっぱり気持ちが違うし。そういう安心感、心の癒し、そういうのを感じてもらえる存在になれたらいいなと思って参加していたかな。
だから宮崎に来てから(グリーフケアを行う宮崎の団体の)会があって、1回ファシリテーターで参加してきた。

山下さん

どうだった?

大友さん

子どもたちが発散できる場じゃないけど、そういう場所ってやっぱ必要だよなと思った。

山下さん

麻衣ちゃん、今後災害とか同じ経験をしたような子たちと会うかもしれないし。そういう子どもたちに、直接じゃなくても、伝えてあげたいメッセージってありますか。

大友さん

なんだろう…。そのときは誰に頼ったらいいかも分からなかったり、自分だけで考え込んだり…。壁っていうか問題っていうか、気持ちをどうにかしなきゃいけないみたいな。でも、もっと肩の力抜いていいんだなって
言うことが恥ずかしい、人とは違うって見られたくない、私は普通なのになんでみんなそんな違う目で見てくるの?みたいな。その空気…何だろう。ちょっと腫れ物扱いするような空気になるのがすごく嫌で、それを避けるために、出身地をあえて聞かれないように、自分で会話を考えて、先走って会話を作ったりしていて…当時。社会人になってからもそうだけど。
私は普通なのに「なんでみんな普通に見てくれないの」みたいなことをすごく抱えた時期があった。今もたぶんその気持ちはどこかにあって、腫れ物みたいに扱わないでほしいと。でも、誰かに頼っていいんだなという気持ちも持っておくことが大事なのかなって
あまり上手くまとまってないんだけど…。

四海さん

大丈夫。大丈夫。

大友さん

1人で背負わなくていい、あんまり型にはまらなくていいというか。自分が何とかしなきゃいけないとかじゃないんだなって。「もっといろいろな人に頼って!」って。昔は、それを返さなきゃいけないとか、「この人にはこんな恩があるから、どうにかして返さなきゃいけない」とか、すごく縛られていたけど…。私だったら、下の世代の人に違う形で返していくとか、そういう返し方でもいいんだなって思ったら、もっと人に頼ることが楽になったじゃないけど、それはあるかもしれない。

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この記事の執筆者

プロジェクトセンター ディレクター
笹川 陽一朗

NHK仙台放送局に勤務していた入局1年目に震災を経験。その後、被災地の子どもたちの取材を続ける。

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