
「震災後の新しいわたし」を生きていく
福島県浪江町出身の鍋島悠希さん。11年前の東日本大震災のときは小学6年生でした。両親は津波の犠牲となり、父親はいまも行方不明です。
鍋島さんには、3月11日を毎年のように一緒に過ごす親友がいます。避難先の神奈川県で出会った、同級生の小山夏菜恵さんです。
これまで改まって話すことはなかった、両親のこと、そしてその後の日々…。鍋島さんは小山さんに、11年かけて見つけた「震災後の新しい自分を生きる」という思いを明かしました。
(報道局 社会番組部 ディレクター 中村 優樹)
東日本大震災で、親や家族、故郷・思い出など大切なものを失った子どもたちの“いまの気持ち”を、誰かとの対話を通じて記録する「いま言葉にしたい気持ち」。
「家族」「生き方」「人生」…個人の名前が出る話などはのぞき、ありのままの言葉を残していきます。

福島県浪江町出身。小学校6年生のとき、両親と祖父母は津波の犠牲に。父の彰教さんはいまだ行方不明。震災と原発事故の後、神奈川県の父方の祖父母の家に身を寄せる。現在は栄養士として東京で働いている。

神奈川県出身で現在は医療事務として働く。鍋島さんと中学3年生のときに同じクラスになり親友に。3月11日はほぼ毎年、鍋島さんと一緒に過ごしている。
“無神経だった?” “ううん、普通に接してもらえて楽だった”

月に何度も会うという鍋島さんと小山さん。この日は鍋島さんがよく行くピザ屋にやって来ました。
震災直後の2011年4月、同じ中学校に入学した2人。仲よくなったのは、3年生で同じクラスになってからでした。その前の2年生のときから小山さんは、鍋島さんが震災で両親を失ったこと、原発事故で避難してきたことを知っていたと語り始めました。

友達づてに聞いて。

そうなんだ。

最初は半信半疑というか、福島の人が避難をしてるっていうのはニュース上では知るわけじゃん。でも、身近にそんな人がいなかった、うわさ程度にそれ聞いたから、全然信じてなくて、「ほんと?」みたいな、「たまたま誰かが言ってるだけじゃない?」って思いながら過ごしてたところはある。

へえー。

で、中3で仲よくなって、家とかいいよって、遊びに来ていいよみたいな感じで遊びに行かせてもらったときに、「おじいちゃんおばあちゃん家で」ってなったときに、そのときには確かにもう信じてはいたけど、確信じゃないけど、「あっ」ってなったのは覚えてる。そう(両親を失ったから)だよなって。

うちの家に来るとみんなそう。

でも、そこで、ナベの性格的に、暗く出しちゃうのもあれだなって思って、だったらもう気にしない。“ナベんちはこれがナベんち”っていうのがあったから、だから行きづらくなったとかじゃなくて逆だったね。「ナベんち、行きたい、行きたい」、ナベんちで遊ぼうってなったら「行く行く」みたいな感じ。

へー。

結構乗り気だった。だから、最初は本当に何も考えてなくて申し訳ないなと思ってた。どっちの方がよかった?

それでよかった。

考えなくても?

うん。そのスタンスがよかったから。

よかったです。ほんと、たまに1人でいると、結構、無神経かもって思うときはある。フフフ。


みんなが大人の対応っていうかさ、空気を崩さない対応をしてくれるからさ、ありがたかったよね。居やすかった。こっちも(震災のことを)考える暇もないっていうか。普通に接してもらえたほうが楽だったよね。全然。

でも、いつだっけ、それこそ最初とか、「やっぱお父さんとお母さんがいる家の人と会うのはちょっとなって思うときがある」って、(鍋島さんから)聞いた記憶があるわけよ。でも、(私たち)毎日バンバン会ってたからどうなんだろうと思って。

なんか…(親子連れを)見るのが嫌だっただけなんだよね。でも、そんなこと言ってもさ、しかたないじゃん。だから、だったらまるごと仲よくしてもらうっていう感じ。みんなが家に呼んでくれたりするじゃん。そういうときとかに(その子の)お父さんとお母さんとも仲よくなるスタンス。

(仲よくなるの)うまいよ。

それだったらさ、寂しくもならないわけじゃん。サキエ(※中学時代の友人)んちもそうじゃん。「いつでも帰ってきていいよ」って言ってくれる場所だったじゃん。

家、めっちゃあるね、じゃあ。

うん。みんなそういうスタンスできてくれるから、「あっ、じゃあ、お言葉に甘えて」っていう感じだった。
“死んで両親のお墓に一緒に入りたかった”

小山さんと友達になった中学3年生のころは、明るさを取り戻しつつあったという鍋島さん。しかし震災直後の1年生のころは、両親を失った現実を受け止められず、自死すら考えていたことを明かしました。

(震災直後は)自分が死んじゃえばこの苦しみもないし、死んだ先がどうなってるかなんて知らないけど、(両親に)会える可能性があるわけじゃん。で、一緒のお墓に入れる。もういいことでしかないじゃんって思ってたから、だから、見守ってる両親の気持ちも、(震災当時1年生だった)弟のこともなんも考えてない。ただ自分のことだけ。自分がただこの苦しみから解放されたいって思うだけで生きてたから、だから安易な考えだよね。それで死のうと思ってさ。でも、一人じゃ抱えきれなくてソフトボール部の友達に相談したらド正論向けられて、『生きてたほうがいいこといっぱいあるし、それを望んでる、2人(両親)はそれを望んでると思う』って。

助かるね。ソフト部のおかげだね。

そこで「あっ、2人のこと何も考えてなかった」と思って、2人がどう思ってるか、それを全然考えてなくて、ただただ私が会いたいだけの一心で命を粗末にするところだった。2人のことを考えたら、絶対命を粗末にしたら怒られるだろうし、その考えを持ってる時点で、たぶんいま怒ってるだろうし、というので、怒られたくないと思って、ほめられたいと思って。
そこでもうね、まず、親のために死のうって考えはやめるわけじゃん。いま逝ったところでたぶん(お父さんに)ビンタされて終わるだろうなって。だったら、久しぶりに再会したときに、「よく生きたね」って言ってもらったほうがうれしいじゃん。言ってもらえる人生を送ることが親孝行なのかなって思い始めてここまできた。

そうよね。ソフト部が(鍋島さんから)話を聞いて自分の思ってることを伝えたから(鍋島さんが)踏みとどまっているわけで、そういうのは大事だなって思うから、これからも私はそうしていこうって思いますけど。

ブレーキかけといてください。いきなり直進しないように。

かけるわ、めっちゃ。

操縦してて、ずっと。

だから、話したくなったら話せばいいし、なんだろう、そういうのを話すのがいちばんベストなのがソフト部ならソフト部でいいし、ただ「へらへらしたいな」だったら私といればいいし、そのときどきでね、選択してもらって。これからも、2人仲よくできたらいいですね、フフフ。
3月11日 この日は2人で一緒に過ごしたい
周りに支えられ、震災後の日々を一歩ずつ進んできた鍋島さん。毎年3月11日、小山さんは鍋島さんに声をかけ、この日はできる限り2人で一緒に過ごすようにしてきました。


なんだろうね。やっぱ11というだけじゃなくてさ、3月っていうのがね、1か月ぐらい、目に見えてわかる暗さとかじゃないけど、「あー、さみしいだろうな」っていうのはあったよ。

びっくりしたの、(私が沈んでいるって)感じてて。

ほんと?じゃあ、よかった。まあね、やっぱ当日はしかたない。しかたないというか考えるよね、やっぱり。

メディアだらけだからね。

考えざるをえないよね。そこらじゅうやってるし。

そう。黙とうの鐘だって鳴っちゃうし。

前日ぐらいからやり始めるとこはやり始めるし。「あー」ってなるよね、なんか。

なんかね、誰だったっけかな、めちゃくちゃ最初のほうに「メディア見るな」って言われたんだよね。テレビも携帯も、携帯っていってもニュースとかは「開かなくてもいいと思う」って言ってくれたんだよね。誰だったっけかな。ユウスケ(※中学時代の友人)とかかな。

ありそう。言いそう。

そこから見なくなったから、基本見ないようにしてるっていうか、テレビも。

絶対一生わからないわけじゃない、ナベの気持ちはたぶん。ナベの経験はしてないんだしって自分でも思うから、なんか、全部どうこうできるかって言われたらできないんだけど、わかってあげられないけど、なんか、ちょっとでもさみしさが埋まればいいかなって。

小山さんは毎年3月11日の朝、必ず鍋島さんにメッセージを送ってきました。去年のメッセージを、私たちにも少しだけ見せてくれました。
「おはよう、元気にしてる?また今年も今日がやってきたね。
ナベは強いけど、地震があるたびに、ニュースになるたびにすごくすごく心配になる。
今年からナベも忙しくなって会えるのも少ないかもしれないけど
私はずっとナベを応援してるよ。」

私が何か送ったところで、思い出したくないとかだったら悪いなって思ってめっちゃ考えるけど、でも、私の思ってることは言ったほうがいいかなって思うところもあるから、とりあえずLINEしましょうってLINEするんだけど、実際それをどう思ってたかはわからないから、そう。「要らないよ」って思ってたらごめんねって。

あれは、誕生日のLINEをもらった感覚だった。

なるほどね。

思い出させないことなんて無理なわけじゃん。絶対思い出すから。だけど、なんだろう、隣にいてくれるっていうか、近くにいてくれるっていう存在を示してくれる文章だから安心するっていうか、それこそ、「あっ、頑張ろう」ってなる。

よかった。

LINEで全部表してくれてるよね。


考えるね、でも、すごい当日はやっぱり。……想像を絶するよね。やっぱ。毎回考えちゃうのは、お父さんとお母さんがいないというのは結構考えちゃうから、なんか、当日も「自分だったらどうなんだろう」って考えて、結構、生きていけないって思っちゃう。私、めっちゃ好きなのよ、お母さんお父さん。やっぱり。

それはそうだ。当たり前よ。

そう。それでね、いないって考えたときにね、死にたくなるよなって思うことはある。だから、自分だったら息できないなって思うんだけど……って思って、「ああー」ってなって1回考える、思考すら止まっちゃう。で、ぼーっとするんだけど、考えてLINEを送ってる、いつも。最初はそこから始まっちゃうね、やっぱ。毎年思ってる。「いないってどういうこと?」って、その人にしかわからないからきついなって。それこそ、なんなら、だって小6って何歳ぐらい。12とか?

うん。

信じられないよね。だって12歳ってお母さん、お父さん、すべては家族、親に守られて生きてますぐらいの。それでいないっていうのは表しようがないよね。それで生きてるからすごいよ、本当に。それは思う、心から。「どうやってるの?」って思っちゃう。
小山さんからの問いかけに対し、鍋島さんは「最近、気がついた」という震災後の自分の「生き方」について話しました。

小6までの自分はあっち(浪江町)に置いてきてるの。中学校1年生からは神奈川の自分なの。だから、性格も違うし、小学校の自分といまの自分の性格も違うし、環境も違うし、出会ってる人も違うわけじゃん。これを一緒にしたくない。

ほう。

ひとつの自分にしたくなくて、小6までの自分は親がいて学校の友達がいて習い事の友達がいる私なの。だけど、中1からは両親がいない、別の環境で育ってる私。だから、たぶん小6のうちが同じ感じできてたら、みんなに支えてもらうとかもないだろうし、なんだろう、時間の問題とかでもないと思う。けど、(浪江町に)置いてきたから新しい自分になってるから、ゼロからのスタートというか、ゼロから成長していってる。いま、その段階ってことで。あっちに戻れば小6までの私と会えるよっていう、思い出として。

なるほどね。

でも、これを神奈川に持ってきたりはしないよっていう。最近気づいた感じ。生まれたときからこの性格じゃないから。

しんどくはないの? 神奈川の自分は。

しんどくない。

大丈夫なの。そうなのね。

だから、「こういう性格だったんだ、私」って気づいた感じ。小6までそんな性格は一切なかったから。確かに愛きょうはあったけど、自分で言うのはあれだけど(笑)

変わらずね(笑)

そう。愛きょうは確かにあったけど、なんかね、誰かに甘えられる性格でもないし、かといって、バンバン友達をつくりにいく性格でもないし、という感じだったから。違う自分が入ったんじゃないか、ぐらい変わったと思う。

でも、そうなのかもね、確かに。この前会ったとき言ったけど、「全然方言とか出なくね?」みたいな話したじゃん。でも、置いてきたんだろうね。

うん。置いてきたっていうか、方言自体、なげた。こっちであの方言を使いたくない。

いいのに、方言。好きだよ、方言は。
“自分の手でお父さんを捜し出したい”

震災から11年、鍋島さんにはある夢があるといいます。
それは、行方不明の父親を自分の手で見つけること。
海での捜索のために、ダイビングの資格を取るための勉強を本格的に始めるつもりです。

すごい、すごいなって思うし、なんか、なんだろうね、また変わったことのひとつだよね……って思う。「自分で捜していこう」みたいな、前向きだなって思うし、協力はしたいけど、ちょっと私は泳げないので、水は怖すぎてどうにもできないから、できる範囲でね。

あれ買って、道具。

そっち?マネー的なね、援助でね。

うん。

なるほどね。フフフ。できたらいいなって思いますけど。応援はしてる。やりたいことをやったらいい。

はい。捜せるなら自分で捜したいよね。自分の手で拾い上げたい。

見つかったら行くわ、私も。お墓とか。まだ行ったことないから。

ヒーローだよね、見つけたらね。特大の親孝行だよね。

ヤバいね。

親孝行はできてないから、ねえ。だって、生きることしかできないもん、いまの時点で。

まあね。

だからね、特大の親孝行させてもらわないと。

確かに。頑張ってもらって、勉強から。

はい。じゃあ、道具は買ってもらって(笑)。
鍋島さんの弟・悠輔さんと親友の対話はこちらから読むことができます。
「もう一度つながりたかった」 10年ぶり 母校で再会 | わたし×小学校時代の親友
クローズアップ現代+「東日本大震災から11年 “あの人と話したい” 福島・請戸小学校の子どもたち」
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2022年3月3日 夜10時放送
あの日以来、離ればなれになった請戸小学校(福島・浪江町)の93人の児童。
NHKは、去年10月、校舎が震災遺構として公開されるのを機に、当時の児童に作文を募集。これをきっかけに集まることになった。
親友たちとの念願の再会、恩人の先生から初めて明かされた亡き父のエピソード。
空白と向き合い、前に進もうとする若者たちの姿を見つめる。