
「集まってしまって、ごめんなさい」
2月最初の週、東京で数千人規模のデモが相次いで開かれました。主催したのは日本に住むミャンマー人たち。母国で軍がクーデターを起こし全権を掌握したことに抗議するためです。デモは日本各地に広がり今後も予定されています。
取材を進めるなかで、参加者の若者たちから託されたのが冒頭の言葉です。
「日本の皆さん、こんなときに集まって、ごめんなさい。私たちがいまやらないと、私たちの明日がなくなるんです」。
(報道局社会番組部ディレクター 髙田 彩子)
緊急事態宣言下に相次いだデモ
2月1日の朝、ミャンマーでアウン・サン・スー・チー国家顧問が拘束されたニュースが在日ミャンマー人の間を駆け巡りました。その日、東京の国連大学前には1000人もの在日ミャンマー人が集まり「スー・チーさんを解放して」「国際社会は軍事政権を認めないで」と訴えました。
2月3日には外務省の前におよそ3000人。さらに2月7日には在日ミャンマー大使館前に5000人が集まりました。日本に住むミャンマー人は昨年6月段階で3万3000人あまり、そのうち約1万7000人が関東地方に住んでいますが、単純計算でその3分の1に近い人を動かすうねりが生まれています。
緊急事態宣言下の東京で、あえて集まる決断をした在日ミャンマー人たち。取材を進める中で私は、その強い覚悟と背景を知ることになりました。

カメラの前で謝った女性
2月4日、デモを呼びかけた団体のひとつ、在日ミャンマー人の労働組合(在日ビルマ市民労働組合)などが、抗議の趣旨を説明するために開いた記者会見。会場前方に在日ミャンマー人コミュニティのリーダーたちが座り、それと向き合う席に日本のメディアが10社ほど。その後方で20人以上の在日ミャンマー人が成り行きを見守っていました。
在日ビルマ市民労働組合は、1980~90年代に来日したミャンマー人らが作った組合です。在日ミャンマー人の間に不安と悲しみが広がるなか、コミュニティの中の情報整理を行い、デモが平和に行えるように会見や、警察とのやりとりなど実務的なことを引き受けました。
軍事クーデターへの抗議声明が読み上げられたあと、多くの時間が質疑応答にあてられました。

会見の途中で、鮮やかな民族衣装を着た女性が手を挙げました。看護師のレー・レー・ルィンさん。来日8年目で、来年にはミャンマーに一時帰国して、日本で学んだ医療や看護技術を伝える予定だったといいます。
クーデターによって、日本とミャンマーの人材の行き来やビジネスは先が見えない状況になっています。
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レーさん
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「日本に来ている若者は、みんな夢を持ってきました。でも、このままではミャンマーは鎖国になって、未来も何もない国になります」
レーさんは、医療が行き渡らない農村の出身で、治療が間に合わずに弟を亡くした経験があります。医者を目指したものの、軍関係者の子息の教育が優先される教育システムのなか夢は叶わず、日本に留学して看護大学を卒業してようやく、医療に携わる道を拓いたのだといいます。
キャリアにまい進するために、来日後も政治的なことには関わらずに暮らしてきました。しかし、クーデターで家族と連絡すら取れなくなる中、自分が動いて民主政権を取り戻そうと決意しました。
マイクを握りしめて語ったレーさん。最後に、「もうひとつ」と息をつぎました。
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レーさん
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「多くの人が集まってデモ活動を行ったことについてですが、コロナの中でこうしたことをやるのは本当にありえない、看護師としても本当にありえないと思います。日本の皆さんにも本当に申し訳ない気持ちです。申し訳ありません。本当にごめんなさい」。
声をつまらせながらレーさんは、深くおじぎをしました。

「日本のように平等な社会がほしい」
会見が終わって多くの人が会場をあとにする中、何か伝えたそうな様子でたたずんでいる2人の女性がいました。
大学で観光ビジネスを学ぶタン・タン・ニュンさん(29・来日6年目)と、旅行会社で働くエー・トェー・トェー・ミョンさん(32・来日5年目)です。エー・トェーさんが「取材を受けてもいいですよ」という視線を送ってくれたように感じました。タンさんのほうは、会話の中のここぞというときに追加情報を差し込んでくれる、仲の良さそうなコンビです。
在日ミャンマー人社会の“いま”を象徴する、若い世代に話が聞きたかった私は、2人に話しかけることにしました。
私は2012年から2015年にかけて、ミャンマー民主化の過程を取材した経験があります。「スー・チーさんが通る」というだけで遠くの丘まで埋め尽くす支持者たち、民主化の流れに乗って移住した日本人ビジネスマン、祖国に貢献しようと帰国した民主活動運動家らに、日本や現地で幾度となく、話を聞きました。
日本からミャンマーの民主化を実現しようとする運動は、「88世代」と呼ばれる人たちが担ってきました。1988年のミャンマーでの大規模な民主化要求に関わったり、影響を受けたりした人たちです。1988年の運動はミャンマー全土に広がったものの軍に鎮圧され、多くの人がミャンマー国外に亡命し、日本にもたどり着いたのです。
一方、1988年以降に生まれた世代は軍事政権下で教育を受け、2011年の民主化の始まりまでは、民主主義を知らずに育っています。

1988年生まれのエー・トェーさんは、ヤンゴン近郊の貧しい家に育ちました。家族は民主化を待ちわびスー・チー氏を支持していましたが、政治のことを家の外で話すと逮捕されるかもしれない、という恐れを心の中に抱えながら育ちました。
タンさんは1992年生まれ。両親は軍人で、ミャンマーの民主化の歴史やスー・チー氏のことは全く知らされずに育ちました。高校に入ってからスー・チー氏の存在を知ったものの、犯罪者と同列に考えていたといいます。
2人とも、ミャンマーでは十分な教育を受けることができなかったことで来日を決意、10歳近く年下の日本人学生に混ざって勉強をしてきました。
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エー・トェーさん
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「私たちの世代は、教育レベルが低くて、インターネットもパソコンもなく育っていて、頑張ってようやくここまで来ました。ミャンマーではどういう家に生まれるかですべてが決まります。運命だと言われてしまいます。日本のように、平等な社会がほしいです」
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タンさん
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「年を取ってから日本の大学に入学しました。日本の子供はいいな、19歳で入学して本当にうらやましいと思います。なぜ私はそういう時代や国に生まれなかったんだろう」
私と話しながらタンさんは嗚咽していました。いま留学や就職などで日本にいる20代から30代のミャンマー人の多くは、日本に来て初めてミャンマーの「経済や社会の遅れ」を実感し、ミャンマーの発展のために努力を積み重ねているといいます。クーデターによって、時代が逆戻りすることに心底から抵抗を覚えているのです。声を詰まらせるタンさんを補うように、エー・トェーさんが語気を荒げました。
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エー・トェーさん
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「世界の中でも時代遅れで、教育も何もできないのに、2021年でもう戦争の時代じゃないのに、なんでこんなことをやっているのか!国のメンバーとして、国民として本当に、ありえない!」
日本にいるからこそ 声を上げる
エー・トェーさんとタンさんにとって、自分の意見をメディアに向かって伝えることは、簡単なことではありません。2人が義務教育を受けた時代のミャンマーの学校では暗記が重視され、疑問や自分の考えを口にすると「感想はいらない」と叱られたといいます。
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エー・トェーさん
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「いまだに、こう言ったら相手はどう思うだろう、と考えてしまう癖がついていて、なかなか返事ができないことがあります」

声を上げることに慣れておらず、しかも故郷の家族にも危険が及ぶかもしれないのに、民主化運動に参加し、私のようなメディアの人間に話をすることに、2人には、迷いはなかったのでしょうか。
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タンさん
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「迷いはないです。私がこんな場にいると知ったら、親は嫌がるでしょう。軍人の父はクーデターで喜んでいましたから。言葉にならないくらい苦しいですが、ひとりの人として、参加しています。何もできない状況にいるミャンマーの友達のために、私が代わりに頑張らないと」
エー・トェーさんは、クーデター後、外に出るたびに、気を張り詰めるようになったといいます。ミャンマーのことで取材を受けたら答えられるように、毎日、日本語・英語の両方で考えを整理して出かけるのだそうです。
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エー・トェーさん
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「私たちは言葉ができるので、説明する責任があります。いま世界はネットでつながっています。海外から閉ざされた軍政下で起きた1988年の弾圧のときのようには負けません。血を流すのではなく、SNSやメディアを使って海外に自分たちの声を伝えて、国に残っている人たちに、一緒に頑張りましょうと言いたいです」
”1988年のようにはならない” の意味
先に話したように、ミャンマーでは、1988年に起きた大規模な民主化運動が軍によって弾圧され、学生を含む多くの人が命を落としています。エー・トェーさんの話を聞きながら、私は、これまで運動を担ってきた在日ミャンマー人の「88世代」とのやりとりを思い出しました。

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筆者
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「クーデターに反対する動きが過激になると、1988年のようにミャンマー国内で犠牲者が出ることにならないか心配です。平和に運動をしていくために、どういうメッセージを発信していますか?」
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ティン・ティン・ウーさん(在日ビルマ市民労働組合)
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「今はネット社会で、ミャンマーの若者たちにも、民主化活動をしてきた私たちの考えや、スー・チーさんのことが伝わるようになりました。昔みたいに血を流すことは、やりたくない。犠牲になってほしくない。ネットや若い力で世界からの支持を集めたいです」
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ミン・スエさん(在日ビルマ市民労働組合 書記長)
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「海外からミャンマーの政治を直接変えることは難しいですが、日本からミャンマーの人たちの心に力を与えようとしています。気持ちを伝えることがすごく大事です」
軍事政権に反対することの重大さを身に染みて知っている「88世代」は、世界各地で連携し、不服従で運動を広げようとしています。ミャンマー国内では抗議デモがいつ鎮圧されるかわからない緊張感がありますが、日本では集会と言論の自由があり、ルールを守っていればメッセージを伝えることができます。
2014年のタイの軍事クーデターへの抗議運動や香港の「雨傘運動」で広がった、無言で指を3本立てるサインを、日本のデモでも国軍への抵抗の表明として積極的に使っています。

やらないと私たちの明日がなくなる
緊急事態宣言下の東京で行われたデモでは、3つのルールが徹底されていました。熱があったり調子が悪かったりしたらデモに参加しないこと、常時マスクを付けること、デモ会場入り口でアルコール消毒を受けることの3つです。2月7日にミャンマー大使館前で開かれたデモでは、10人ほどが消毒係として会場入り口で待ち受けていました。

日本語で「日本人の皆様へ、デモ活動を行って本当に申し訳ないと思っています」など、という紙を掲げている人達も散見されました。

ネット上では、デモのニュースに対して非難のコメントが多数寄せられています。
「今のデモは、コロナ感染を拡大させる無謀で迷惑なやり方です」
「東京都内は緊急事態宣言下です。はっきり言って迷惑です」
「国に帰ってやって」
日本語が堪能なミャンマー人の間では、こうした不安や批判のコメントに対して返信を書く動きも始まっています。ミャンマーの状況を説明する人、自分はデモには参加しない、と書いている人もいます。日本社会の理解を得るために自然発生的に生まれたアクションです。

記者会見で出会った2人の女性、エー・トェーさんとタンさんは、今回反発を覚悟でデモに参加した理由について、言葉を選びながら次のように話しました。
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エー・トェーさん
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「実は、会社でも恥ずかしいです。世界がコロナと闘っている時期に軍がクーデターをやったのが悔しいです。コロナで皆が困っているにもかかわらず、集まって抗議している自分たちが悔しいです。でも、私たちの命、みんなの命、1人1人の命は、コロナとも戦わないといけないけれど、軍政とも戦わないといけないのです」
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タンさん
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「いま抗議をしないと私たちの明日がなくなります。日本の皆さんに対して本当に申し訳ない気持ちですが、どうか理解してほしいです」
わたしたちにできる“支援”と“翻訳”
もし、エー・トェーさんやタンさんのような人達を応援したいと思ったら、私たちには何ができるのでしょうか。
一つは、小さなことでも関わって手助けをすること。思い出したのは、2人と出会ったあの記者会見のことです。会見はリモート中継も行われ、日本語、ミャンマー語で配布物が配られましたが、手伝ったのは日本の労働組合のJAM(ものづくり産業労働組合)でした。メディアとの連絡や配布プリント用の翻訳など、日本人に発信するために必要なものを、一緒に整えたそうです。JAMの椎木盛夫副書記長は、「在日外国人の生きる環境をよくすることは、私たちの生活環境をよくすることなんですよ」と話しました。
もう一つは、私たち自身が知ろうとすることです。60年近くにわたり在日ミャンマー人と付き合い「お父さん」と頼りにされてきた田辺寿夫さんは、とにかく耳を傾けてください、と言います。
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田辺寿夫さん(ビルマ研究者、ジャーナリスト)
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「ミャンマー人がなぜ行動しているのか、彼らの話をきちんと聞き、向こうの背景をきちんと知ることが大切です。日本人の中には、“途上国のためにやってあげている”、“日本がいいことをしてあげている”、という態度が時々見られます。対等に付き合い、お互いに助け合える関係を築くことで、言葉ができなくても、彼らの”翻訳者”にもなれます」。
話を聞かせてくれたミャンマー人の誰も、デモをせざるを得ない今の状況を望んではいませんでした。待ちわびてきた民主主義が奪われるかもしれない今、個々人にできる数少ないことを、やっているだけなのです。
まず知ってみよう、という方のために、この記事が情報になればと思います。
取材後記
ついこないだまで「民主化で経済発展する国」だったミャンマーが、「軍事クーデターで混とんとした国」になってしまっています。
絶望する時間もなく動き出した在日ミャンマー人たちを見て、ただでさえ苦労の多い在日外国人が行動することの重みを感じました。自分も、よりよい社会のために、必要なときに声を上げていきたいと感じています。
(“インクルーシブな社会”準備室 ディレクター 髙田 彩子)
【写真で見るデモの1日】





