
いまさら母国には帰れない 日系人写真家が伝える“デカセギ”
「コンビニでアルバイトをする留学生」「農家や工場で働く技能実習生」・・・
いまの日本に欠かせない外国人労働者たち。その先駆けともいえるのが日本にルーツを持つ外国人たちです。1990年に入管法が改正され、多くの日系ブラジル人や日系ペルー人などが来日し、貴重な労働力として製造業などを支えてきました。それから30年の節目となった今年、私は日系ブラジル人が多く暮らす東海地方を中心に取材を続けてきました。
(クローズアップ現代プラス「60代の孤独死 団地の片隅で ~外国人労働者の末路~」)
取材中で出会ったのが”デカセギ”の歴史を写真で表現しているジュニオールさんです。ジュニオールさんの写真から、外国人労働者の30年の歩みを見つめました。
(NHK名古屋放送局 ディレクター 植村 優香)
日系ブラジル人の30年を知ってほしい デカセギの歴史切り取る写真家

静岡県浜松市に住む、日系ブラジル人のマエダ・ジュニオールさん。初めて会った日、一冊の写真集を見せてくれました。タイトルは「デカセギブラジル」。被写体は、90年代に出稼ぎのために来日した「デカセギ・ブラジル人」たちの生活。それも、当時撮影したものものではなく、ジュニオールさんが日系ブラジル人たちの協力を得て、90年代のデカセギの日常の様々な風景を再現して撮ったものです。


ジュニオールさんがあえて「再現」という手法を使っているのは、デカセギに来た人たちが経験してきた困難や複雑な心境を、日本人や新たに日本にやってきた外国人に伝えるためです。当時の空気を想像してもらうためにモノクロカラーで表現しています。

撮影:マエダ ジュニオール

撮影:マエダ ジュニオール
14歳でデカセギになったジュニオールさん
ジュニオールさんが来日したのは1990年。14歳の時でした。この年、出入国管理法が改正され、日系のルーツのある外国人が日本に住み、働くことができる在留資格が与えられることになりました。
ジュニオールさんは、祖父母が高知県からブラジルに移住した日本人で、日系3世にあたります。祖父母は十代の頃、貧しさから抜け出し豊かさを求めたいと、国も奨励していたブラジル移住に踏み切りました。実際に待っていたのは、厳しい農業での労働。安定した収入を得られるようになるまでに時間がかかりました。しかし、ブラジルで子どもたちも育ち、亡くなるまで日本に戻ることはしませんでした。
ブラジルで生まれ育ったジュニオールさんの父は、家電屋で働いていました。ブラジルは80年代以降激しいインフレで、給料は安いのに家賃や光熱費など支払いは高く、生活は苦しかったといいます。貧しい暮らしを続ける家族にとって、ジュニオールさんが日本でデカセギをすることは一筋の希望の光だったといいます。
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ジュニオールさん
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「ブラジルのすごく貧乏なところで過ごしました。ファベーラ(貧困街)に住んでいたんです。8歳から働いていました。デパートの従業員にレストランから弁当を運ぶ仕事です。弁当を渡して、食べ終わるまで待つ。そして、また空の弁当箱を集めてレストランに運んでいました。日本に行けば、普通の生活ができるかなと思っていました」

ジュニオールさんは来日してすぐ、千葉県の自動車部品工場で働き始めました。日本語も分からない中、ひたすら必死に働きましたが、ときに、日本人の上司から「バカ、アホ」「クビ、使えない」と暴言を吐かれることもありました。日本語の意味が分からなかったため、メモをして後で調べて意味を知り、傷ついたことも。
いろいろな仕事を転々とする中、最もきつかった仕事は、魚の解体工場でした。朝6時から、遅い日には夜11時まで。鰹やマグロをひたすらさばき続けました。・・・それでも、ジュニオールさんはブラジルと違って十分な給料をもらえる仕事がある幸せを噛みしめていたといいます。
“デカセギ”のままではいられない病!?
ジュニオールさんが面白い言葉を教えてくれました。「デカセギ病」という言葉です。デカセギのつもりで日本にやってきても、だんだん帰ることができなくなる現象をブラジル人たちの間ではそう呼んでいるそうです。ジュニオールさんも最初は少しお金を貯めたらブラジルに帰って、欲しかったバイクを買おうと思っていたといいます。しかし、仕事は過酷でも欲しい物を買うことができる日本の生活は、だんだん手放しがたくなっていきました。
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ジュニオールさん
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「ブラジルは大好きだったけど、うまくいくチャンスが少ない。日本は頑張ればなんでもできます。20万円もらえれば何でも買える。車を分割で買ってもいいし、いい服を買ってもいいし、レストランで毎日ご飯を食べることもできる。日本に長く住んだ人はブラジルに戻ったら生活になじめない。それを”デカセギ病”っていいます」
ジュニオールさん自身は現在独身ですが、日本の生活の中で恋愛をし、結婚をし、子どもが生まれるブラジル人たちも増えていきました。苦労が多い労働の日々、家族の存在が大きな精神的な支えとなったのです。多くのブラジル人はある程度お金を貯めることができたら、ブラジルに帰ろうと計画していました。しかし、日本で生まれ育つ子どもたちは、日本の保育園や学校に通ううちに日本語もペラペラに。友達も日本で作り、勉強も日本で始めた子どもたちは、むしろ母国を知らず、親が帰国を決意しても、子どもたちに拒まれるという場合も少なくありません。
私たちがブラジル人100人に行ったアンケート調査では、「20年以上日本に住んでいる」と答えた60人のうち大多数の53人が、「当初は5年以内に帰国予定だった」と答えています。

コロナ禍だからこそ思い出して 12年前の痛み
ブラジル人の多くは短い契約の非正規雇用で働いています。早くに帰国する予定だったため年金保険料も払っておらず、老後の保障がまったくない人も少なくありません。いま、新型コロナウイルスの影響で多くの人たちが職を失っています。もちろん、日本人も状況は同じですが、外国人は特に真っ先に解雇や雇い止めの対象となるケースが後を絶ちません。

多くの外国人労働者が突然仕事を失う事態は、10年以上前にも起きていました。リーマンショックの影響でいわゆる“派遣切り”が横行。職を失うと同時に、派遣会社の寮で暮らしていた多くのブラジル人達は、住む場所も失い、突然帰国を余儀なくされました。下のグラフは日本に住むブラジル人の数です。経済の浮き沈みと共に雇用の調整弁となっているようすが読み取れます。

ジュニオールさんは、リーマンショックの頃のことを写真で表現したいと、当時の悲惨な状況を目の当たりにしていた人に話を聞きました。浜松市のキリスト教の教会の神父としてさまざまなボランティア活動を行っていたブラジル人の神父、比嘉エバリストさんです。

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エバリストさん
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「当時は、多くのブラジル人が仕事を失って、助けを求めて教会に集まっていました。さらに、ブラジル人学校に通っていた子どもたちが、親が月謝を払えなくなり学校に通えなくなり、教会に集まってきていました。私たちは炊き出しをしたり、臨時の教室をつくって支援をしました。また、橋の下でホームレス生活をするブラジル人たちがいました。私たちはそこへ見回りに行き、食べ物や着るもの、銭湯の券などを配りに行っていました」
ジュニオールさんは、エバリストさんから聞いた写真を一枚の写真で表現しました。 橋の下で寄り添う家族。右下に写した女性の姿は、家族を助けに来た支援者ともとれるし、家族の前を通り過ぎる無関心な人にも見えます。家族に手を差し伸べる人はいたのか?日本社会のまなざしを問いかけました。

日本で暮らし続けたい デカセギ30年の重み
私が日系ブラジル人たちを取材していて、一番よく聞く言葉があります。
「私たちはブラジルにいるときは日本人だと言われていた。でも日本にやってきても“ガイジン”と言われます」
ルーツは日本にあるけれど、ブラジルで生まれ育ち、そして日本にやってきたジュニオールさん。自分はいったい“ナニジン”なのか?そんな葛藤をジュニオールさんも抱えてきました。それでも今は、自分の生きる国は日本だと感じています。
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ジュニオールさん
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「もう30年近く日本にいます。もし今ブラジルに戻ったら、僕はまた外国人です。何も分からない。人間関係も仕事も最初から始めなきゃいけない。日本でずっと暮らし続けたいです」

ジュニオールさんの祖父母は、ブラジルで長年農業に従事したあと、晩年は日本式の写真屋を営んでいました。その影響もあって、小さな時からカメラが好きだったジュニオールさん。最初の工場に勤めていた10代の頃、稼いだお金でカメラを購入しました。友達もおらず、工場のまわりで花や木を一人で撮影していたといいます。
そのとき、ジュニオールさんに話しかけてきた工場の日本人の先輩がいました。写真の撮影を趣味にしていたその先輩は日本語もうまく話せないジュニオールさんにカメラの使い方を身振り手振りで教えてくれたといいます。それから二人は、色々な場所へ一緒に撮影に行きました。ジュニオールさんは、彼に言われた言葉を今も覚えています。
「言葉とか関係ない、やる気があればどこまでもいける。ジュニオールが一生懸命頑張れば、きっと信じられないところまでいけるぞ」

ジュニオールさんはその言葉を胸に、工場で働くかたわら、時には睡眠時間を削って写真の勉強を続けてきました。「ブラジルでバイクを買いたい」だったジュニオールさんの夢はいつしか「日本でカメラマンになりたい」という夢に変わっていたのです。

そして去年、ついにジュニオールさんの夢は叶い、日本の写真館で正社員として採用されました。ジュニオールさんはいま、写真館でフルタイムで働きながら、日系ブラジル人の写真も撮り続けています。写真館で働くジュニオールさんに会いに行くと、目は輝きにあふれ、その陽気な人柄で自然と引き出すお客さんたちの笑顔がとても印象的でした。
少子高齢化が止まらない日本は、今後も外国人労働者の存在がなければ経済が立ちゆかないのが現実です。しかし今回ジュニオールさんたちを取材する中で改めて思ったのは、ふだん私たちが彼らの「労働者」としての側面しか見ておらず、ひとりひとりの「人生」に目を向けてこなかったのではないか、ということです。
外国人と日本でともに暮らすこと、それは私たちが彼らの「人生」を受け入れることにほかならないのだと、強く感じました。
(NHK名古屋放送局 ディレクター 植村 優香)
関連番組「ワタシたちはガイジンじゃない!」 2020年12月放送
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