
武田真一、佐野元春に聞く―「SONGS」対談を終えて&未公開トーク
つまらない大人にはなりたくない――80年代、このフレーズを胸に青春の葛藤と向き合っていた若者がどれくらいいただろうか。今年53歳になる僕は、そのひとりだ。僕の10代は佐野元春の音楽とともにあった。それから40年。就職し、結婚し、子供が出来て、今年長男が独立して家を出て行った。つまらない大人にならないよう、精一杯生きてきたつもりだが、果たしてどうだっただろうか。
佐野さんは、今年デビュー40周年を迎えた。NHKの音楽番組「SONGS」で佐野さんの特集をやるという。ご縁があって、僕がインタビュアーとして佐野さんに会うことになった。僕にとって最高のアイドル。心が高鳴った。
実は佐野さんと会うのは2回目だ。20年ほど前、NHKの近くのホテルのトイレで、隣あったことがあった。僕はすっかり舞い上がってしまい、佐野さんに声をかけた。佐野さんの音楽と出会ったのは中学生の時で、校内放送で「アンジェリーナ」を聞いたのがきっかけで、そのレコードをかけた友達とは親友になって………と、とりとめもないことを一気にまくし立てた。僕はたぶん泣いていたと思う。佐野さんは、じっとその話を聞いてくれて、「シグニチャー(サイン)しましょうか?」とおっしゃった。手元にはサインをするような色紙もペンもない。僕は、間抜けなことに「結構です」と言ってしまった。
今度こそは、佐野さんに伝えたい。佐野さんもいろんなことがあったと思うけど、僕らも結構大変な40年間だったんです。佐野さんの新しいレコードやコンサートを楽しみに、ヘビーな日常を乗り切ってきたんですよ。コロナ禍で思いがけない40周年になったと思うけど、大丈夫、僕らがついてるから…と。
さて、僕は果たして正気を保って聞くことはできたか?SONGSで入りきれなかったインタビューを公開します。
(インタビュアー・記事執筆 クローズアップ現代プラス キャスター 武田真一)

1980年にシングル「アンジェリーナ」で衝撃のデビュー。80年代の幕開きと共に現れた希代のシンガーソングライターは、新しい時代のカリスマとして、多くの若者たちの心をつかんだ。以来40年にわたって常に時代の先端を走り続けてきた。
佐野元春との出会い はじめに「言葉」があった
――佐野さんにお会いして言うべきことがたくさんあるのに、ちょっと今、言葉にならないです。ありがとうございます。デビュー40周年、おめでとうございます。
佐野元春(以下、佐野):
こちらこそ、楽しみにしてました。ありがとうございます。
――佐野さんとの出会いは、私が中学1年か2年の頃でした。昼休みの校内放送で『アンジェリーナ』を聞いたんです。で、牛乳を飲みながら、「何だこの曲は」とフリーズしたのをよく覚えています。熊本で育った僕にとって、佐野さんが描く、都会の若者たちの心の葛藤の風景に、佐野さん風に言えば、ノックダウンされました。日本中に、恐らくそういった10代の子たちがたくさんいたと思います。
そのことをいま、どうお感じになりますか?
佐野:
デビューしたのが1980年。レコードを作り、全国をライブして回ろう、思いっ切り行こうぜ、という感じでやりました。会場には、どこにも10代の少年少女たちが集まってきてくれて。何か彼らは新しいものを求めているような雰囲気がありました。ちょうど1980年が明けて、時代が少し変わってきた。若い人たちも、何か自分たちにフィットする音楽がもしあるんだったら、それを探したい。そういう雰囲気があった。そうした彼らの前で演奏できた。これは、僕にとっては、とても良かったことだと思います。僕も何か新しいことをやろう としていましたから。

――『アンジェリーナ』もそうですが、『夜のスウィンガー』や『IT’S ALRIGHT』とか、言葉が詰まってますよね。字余りや、ビートからこぼれ落ちるような詞のアイデアはどこから出てきたんでしょうか。
佐野:
もともと小さい頃から詩のようなものを書くのが好きでした。誰から教わるということでもなかったんですが、詩のようなものを書きつけて、自分で楽しんでいました。
やがて、11歳・12歳の頃になると、トランジスタラジオから海外のポピュラー音楽がたくさん流れてくる。それを聴いて心が舞い上がる。ビートの効いた音楽がそこにあるわけですよね。そうすると、言葉とこのビートと、それから素敵なメロディーと、これを組み合わせたら、何かいいものができるんじゃないかと思って。で、作詞作曲というのを始めたのが12歳くらいの時でしたね。もうその頃から、何か言葉を生かした音楽を作りたい。言葉がこうビートの中で生き生きしてるような音楽を作りたいと思っていました。
世の中には、メロディーがきれいな曲もあれば、その編曲が素敵な曲もあるんだけれども。自分が聴いて心に引っかかる曲は、みんな言葉がビートの中で生き生きしていました。ビートルズの曲も、ボブ・ディランの曲も、バーズの曲も、ジム・モリソンの曲も、ラジオから流れてくるそういうビート音楽を聴くと、英語ですので、全部は分からないんですけれども、言葉自体がビートの中で生き生きしている。何か僕に訴えかけてきてるんじゃないかって、何かを伝えようとしてるんじゃないかと、そう思ったんですね。なので、僕もそうい う種類の音楽を作りたいと思いました。
はじめに言葉があった………。確かに、佐野さんの曲のことばは、いくつも僕の心に残っている。 都会の風景をいくつものスチール写真で切り取ったようなことば。
“パーキング・メーター ウイスキー 地下鉄の壁 Jazz men 落書き 共同墓地の中、
みんな雨に打たれてりゃいい“
「情けない週末」
短いフレーズで、生きて行く姿勢を伝えたものもある。
“心はいつでもヘビーだけど 顔では 大丈夫 大丈夫”
「夜のスウィンガー」
そのどれもが、僕の頭の中ではビートとメロディーにのって、何十年もぐるぐると回っているのだ。 中でも、今も僕の心をとらえているあるフレーズについて、佐野さんに聞いた。
「言葉」に込めた思い 誰かにとって意味のあるストーリーを
――佐野さんが今回SONGSで演奏した曲『約束の橋』。「今までの君はまちがいじゃない」というのが、この曲の核になるフレーズだと思います。いま社会では、一人ひとりが大切にされることが求められている時代だと思うんです。本当は一人ひとり多様であっていいはずなのに、ひとつの枠にはめられてしまう、そのことに違和感を持ち苦しんでいる人が多くいると思うんです。
どういうふうに響いてほしいと思って、この曲を演奏されたのでしょうか。
佐野:
僕のほうから「こういうふうに響いてほしい」という特別な要望はないですね。この曲が皆さんの元に届いて、ひとつだけしてほしいことがあるとしたら、ご自身の曲として聴いてもらう。ご自身のバックグラウンドで流れている曲だと思ってくれたらうれしいです。
――佐野さんの代表曲とよく言われる『サムデイ』や、『ガラスのジェネレーション』『約束の橋』。どの曲も、若者たちの葛藤――自分はこのままでいいのか、自分の存在というのは社会から認められているんだろうかという、不安や寂しさをテーマにした歌だと思います。
佐野:
ほとんどの人がそうだとは僕は思わないけれども、往々にして、若いころというのはみんな孤独です。自分がどうあるべきかというのをいつも探している。何か答えをくれる人がそばにいればいいですが、そんなインスタントに答えは転がってないですよね。ですから、自分から探しに行く。探していく途中は、非常に孤独なものですよね。いろいろなためらいもあるし、悩みもあるし、喜びもあるし、何か苦しみもあるかもしれない。でも、そういう状態は、僕はとても美しいと思うんです。人が人として成熟していく、そのプロセスはどうあれ、とても美しいものだと僕は思う。
これはソングライターとしてとても良いテーマなんです。成長するってどういうこと?って。僕の初期の曲もそうですけど、今でもそれをテーマに曲を書いています。

――その音楽は、僕らに人生の気づきや、ヒントを与えてくれるものだと思うんですが、佐野さんは、みんなにこんなことを気づいてほしいと思って歌っているのか。それとも、そうじゃないところから言葉が生まれてくるのか。
佐野:
自分は詩や曲を書いていて、みんなにこんなことを気づいてほしいとは、ちっとも思ったことはないですね。僕がいつも思っているのは、何かましな曲を書きたい。誰かにとって意味のあるストーリーを紡いで、それを歌にして。その歌が必要としている所に、人に届いてほしいということを、いつも思っています。「みんなで分かち合いたい物語があるんだけど、みんな聴いてみて。どう思う?」という感じですね。
本来ポップソングは楽しいものであるべきだと、僕は思う。なぜなら、10代のときに自分が励まされた曲はみんな明るくてポジティブで、どこか楽しげな感じがした。でも、ソングライティングをしている中で、社会と向き合ったり、人々と向き合ったり、「どうしてだろう?」と思うことがある。それを、時折歌にしてみようかなと思うときはありますね。だから、「こうあるべきだ」と僕は歌えないけれども、「僕は世の中をこういうふうに観察しているんだけど、みんなどう思う?」っていうような調子で書いた曲は何曲かあります。
ディストピア的な世界を歌った『ニューエイジ』 音楽だからできる“マジック”
――今回SONGSでは、『ニューエイジ』という曲を演奏されましたよね。それはどういう理由で?
佐野:
この曲は、1983年にニューヨークで生活しているとき、借りていたアパートメントの一室で詩を書きました。直感的に、これから来る自分たちの未来のようなものを想定して。その未来はどういうものだろう?って、思いをはせた。そのときになぜか、明るく、ばら色のすてきな未来が思い浮かんだのではなく、逆にディストピア的なイメージが浮かんだ。でも、未来に生きる僕たちが、そのディストピア的な世界の中で埋もれてしまうのではなく、その闇を裂き、小舟で海原を切り裂いて、そして前進していく、そういう力強くて勇敢な曲を書きたいと思っていました。それが『ニューエイジ』です。
――2020年、コロナが世界中に拡大して、まさに世界はこのまま存続できるんだろうか、とまで考えている人もいると思うんですよね。そういった中で、あえてディストピア的な世界を描いた歌を歌うということに、僕はすごくどきっとしたんですが、佐野さんはどう感じているんですか。
佐野:
作品の中では3分間、4分間の中で強烈なイメージを聴き手に差し出すわけですから、多少表現が大げさになることはある。でも、人生においては、僕はどんなことがあってもあまり大げさに捉えないようにしています。「このまま世の中が終わっちゃうんじゃないか」とか、そういうことを僕はあんまり…どっちかというと楽天的ですね。「どうにかなるよ」と。
で、この「どうにかなるよ」という感じも、ポップ音楽にはとても大切かなと思うんですね。もちろん、ある人にとっては「世の中、やってられない。何て残酷なんだろう」って感じている人はいると思う。そういう人が僕の曲を聴いたときに、現実を真っすぐに見るんじゃなくて、ちょっと横から見てみて、「意外と笑えるんじゃない?」とか、違う視点から見ると今まで自分がイメージしていたものが違ったように見えることもある。それがロックンロール音楽やポップ音楽ができる、言ってみればマジックのようなものですかね。
それはどっちかというと、コメディーに似ている。優れたコメディーは、僕たちに別の視点を与えてくれる。そして、何かつらいと感じていることも、「いや、ちょっと待って、そんなにつらくないよ」って、「見方によっては笑っちゃうじゃん」というような別の視点を受け取る。ロックンロール音楽も、どっちかというとコメディーに似ていると思います。

――この曲が生まれたニューヨークは、すごく多様な街ですよね。そこでどんなことを吸収して、佐野さんの学んだことを投影されたんでしょうか。
佐野:いろんな人種がいて、いろんな宗教の人たちがいて、いろんな考えがあり、いろんなバックグラウンドを抱えた人たちがまるでメルティングポットのように集まっている。そこで、みんな議論をしたり、愛し合ったりしながら、その人間のエネルギーが原動力になって、街自体が動いていってる。何が正しい、何が間違いというところで動くんじゃなくて、人間のエネルギーそのものが原動力となって、街が動いていってる。その有様というのは、とても自然だし、とても力強いものだし、何か信じてもいいものが、そこにあるような気がしました。
――一人ひとりが、いろんなことを考えて、それぞれが自分らしく生きる。そのことをポジティブにとらえることは、この2020年の世の中でも、最大の課題だと思います。
佐野:
僕が一番、自分自身がこうなるのは嫌だなという状態のひとつが、虚無的になること。何か物事に対して「これもダメ。もういいよ」ってふてくされて、誰かとディスカッションすることもしないし、自分から能動的に何かを生み出すこともしない。こういう状態を、一番、僕は恐れます。ときどき、そういう気持ちに襲われますからね。でも、そのときには「ちょっと気をつけなきゃ」って思う。だから、どんな時代でも、虚無的にならず、やっぱり、人と交わって、そして、「自分はこう思う」ということを主張し、相手が「こう思う」と言ったことに対して、攻撃したりせず、いろいろな考え、感じ方があるんだと、それをありのままの状態として受け取ることができれば、その先に、何かいいことが待っているような気がします。
佐野元春が見つめた“コロナ禍”
――今の、このコロナの感染が世界的に拡大している状況を、どういうふうに捉えてらっしゃいますか?
佐野:
大袈裟には言いたくないけれども、将来やってくる、“非接触社会”の予行練習をしてるような感じ。いいことか、悪いことか、分からないけれど、そういうふうに捉えてます。 多分、接触を嫌がる世界がやってくるんだと思います。そのときに、今までの僕たちの習慣が、無駄になるかもしれないから、今、予行練習をしとけって感じですかね。
――握手をしたり、ハグしたり、こうやって直接話したりすることが。
佐野:
そんな世界は嫌だけれどもね。非接触社会がどういうものなのか、考えてみたくはないけれども、でも、もし、そういう未来が来るとしたら、僕たちは練習が必要だ。そう思います。もし、最初から非接触社会に生まれたなら、何の文句も言わない。けれど振りかえってみれば、人との接触でいい思いをし、成長してきた。そこに喜びも悲しみもあり、人として育まれてきたと思っている。人との接触というのは、とても大事なものだと、僕は思います。未来は非接触社会が来るのかもしれないけど、嫌だなと、率直に思ってます。
――私も、今の状況を毎日お伝えして、いろいろなことに気づかされました。例えば、医学・科学は、コロナに勝てるのだろうかとか、人々は支えあって生きていけるんだろうか。あるいは、僕たちは、何を大切にこれから生きていったらいいんだろうか・・・いろんな課題を突き付けられている状況だと思うんです。
そんな中で、佐野さんは、アーティストとして、どんな役割を果たしていけるのかと考えていますか?
佐野:
今、こういう状況だけど、「みんなで上がっていこうぜ。やがて霧は晴れるだろうから、今のうちに、夢とアイデアは蓄えておこうよ」って、仲間たちにはそう問いかけている。長期的に見て、もし、今まで、僕らが良いと思って積み上げてきた経験が、無駄になるとしたら、それは残念に思う。そうならないように、次の新しい時代に向けて、新しいサバイバルの方法を見つけていかなくちゃいけない。自分はたまたま、詞が書けて、曲が書けるので、音楽でもって、それを探求していきたいって思っている。
――このコロナ禍の中で、私自身も報道で何ができるんだろうかと、悩みながら過ごしてきました。多くの方々の苦しい姿をお伝えしていますが、それによって、ほんとうに救われる人はいるのだろうかと葛藤しています。
佐野さんは、音楽、エンターテインメントは、今、この社会の中で、どんな役割があるとお考えですか?
佐野:
いま、エンターテインメントが死にかけてるという言い方もある。僕はエンターテインメントは必要なものだって思っている。エンターテインメントを越えて、何か表現のようなものに行きつけるとしたら、それはとても価値のあるものになるような気がする。それを大事にしたい。そんな気持ちを最新の曲「エンタテイメント!」には込めています。
エンターテインメントというのは、時には人々の気持ちを癒したり、人々の気持ちを楽にしたり、人々のことを笑わせたりして、一時期の気の紛らわしに終わることも、往々にしてある。それは、それでいいんです。エンターテインメントの果たす役割は、そこに一つあると思う。でも、自分がやってるのは、その先ですね。エンターテインメントの先にある、表現にまで行きつきたいって、いつも思っている。それが、後にアートって呼ばれ、何かエンターテインメント以上の表現として認められることにつながるのかなと思うんですね。そのようなエンターテインメントは、僕の中では永遠です。
多感な少年時代から大人になった今・・・

佐野さんと僕らをつなぐ大切なチャネルがラジオだ。
「元春レイディオ・ショー」は、80年代のNHK「サウンドストリート」に始まり、その後様々なラジオ局で今も続いている。我が家には、妻がエアチェックしたカセットテープが数十本ある。佐野さんは、番組のオープニングやエンディングで、「I wanna be with you tonight!」とコールしていた。
今夜、君と一緒にいたいんだ――その言葉通り、僕たちの多感な10代は佐野さんの音楽とともにあり、そのことばに導かれて、大人になった。
――佐野さんはひところ、ラジオでインディーズバンドの紹介をやっていらしたと思うんですけれども。僕は、実は自分のバンドの曲を送ったことがあるんです。
佐野:
あぁ、僕は採用しましたか。
――していただけなかったんですが、楽曲のアイデアはなかなかいけるものがあると。だけど、「演奏や表現力はもう少し頑張りましょう」という、お手紙をいただきました。採用していただきたかったなと思うんですけれども(笑)。そしたら、僕は今ここにいないかもしれない。
僕は佐野さんが書くさまざまな言葉にインスパイアされて、言葉を生かせるような仕事に就きたいと思って、今のこの仕事を30年以上続けています。僕と同じように、佐野さんのつくり出す音楽や言葉、佐野さんが紹介した音楽とともに、多くの人たちがこの40年さまざまな歩みを進めて、そして今に至っている。「つまらない大人にはなりたくない!」と言いながら、何とかもがいて、ここまで来ている、と思うんです。佐野さんは、私たちにとっては本当にいい人生の先生だったんです。
佐野:
自分は先生なんて思ってないですけれども、1980年にレコーディング・アーティストとしてデビューして、自分の思いのとおりに曲を書き、演奏して、ここまでやって来ました。で、いつも思うのは、自分がいい曲を書いたと思っても、それを発見してくれる人がいなかったら、その曲はどこかに埋もれてしまう。ですので今言いたいのは、これまで僕の音楽とともに歩んでくれたファンの方たちがいるとしたら、「ありがとう」と 言いたい。つまり「僕の音楽を発見してくれて、そこに価値を与えてくれてありがとう」と、そう言いたいです。
――こちらこそ、佐野さん、本当にありがとうございます。
佐野:
音楽が持つ力というのは計り知れないですね。特に、自分もそうでしたけれども、10代の多感なころに触れた音楽というのは、今でも自分にとっても大事なものとしてあります。多感な頃ですから、本当にいろんなことを感じるわけですよね、そして、自分はどう生きていったらいいのかということを、人には言わないけども、真剣に考えたりする。その中で、時々、そばにある音楽が励ましてくれたり、「もっと楽になりなよ」と言ってくれたり、何かロマンチックな気持ちにさせてくれた。自分の経験を振りかえれば、多感な頃に聴く音楽というのはとても大事だなと思いますね。僕の音楽が、当時の多感な世代に届いて、そして、その方たちの生活や人生とともに僕の音楽が、もしあったんだとしたら、もうソングライターとしてはこんなに光栄なことはないです。
コロナ禍において、音楽は、芸術は、エンターテインメントに何が出来るのか――
個人的には、その答えは明白だ。芸術やエンターテインメントは、心を勇気づけ、成長させる。僕は、佐野さんの音楽から生きる力や、生きる方向性を得た。もちろん、それがすべてではないけれど、佐野さんの音楽に共感してきた自分だからこそ、今、人々の生き方に共感できるようになったと思うし、僕らが住むこの世界のあり方に疑問を持ったり、それでもこの世界は素晴らしい、と思ったりするようになったと思う。
佐野さんと、これからまた会う機会がどれほどあるかはわからない。奇しくもこの日に交わった僕らは、またそれぞれの日々を格闘したり、楽しんだりしながら、歩んでいく。でも、佐野さんという存在は、僕らの心をこれからも支え続けていてくれるだろう。
――これからも佐野さんの音楽がないと、僕らは生きられないです。佐野さんはいつまで、僕らのそばにいてくださいますか?
佐野:
いつまでとは、約束はできないけれども、このコロナが晴れて、また僕たちがいつも通りコンサートができるようになったら、ぜひ会場に来て、皆さんと一緒に、良い時間を過ごせたらなと思ってます。そのときを夢見て、今、いろいろとアイデアを蓄えているところです。
――いつまでも、僕らは、佐野さんに対して、I wanna be with youです。
佐野:
洒落たこと言いますね。ありがとうございます。
SONGS「第551回 佐野元春」 (2020年10月3日放送)
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