
京都「ふうせんの会」 元ヤングケアラー”10年介護”の先に
「現役のヤングケアラーであっても、元のヤングケアラーであっても、居場所であったり、社会との接点であったりを作る場所が必要だと思います」
京都市内の喫茶店で出会ったその男性は、静かにそう語りました。朝田健太さん、34才。2019年の暮れ、ヤングケアラーたちが集う場として「ふうせんの会」を立ち上げました。きっちりとアイロンがかけられたシャツ、物静かで、実直な眼差し、清潔感の溢れるそのたたずまいからは、若き日にケアラーとして苦しんでいたことを想像することもできません。10年に及ぶ壮絶な介護経験を糧に支援団体を立ち上げた朝田さん、今はまだ小さくとも、その視線はヤングケアラー同士がつながり支え合う、そんな未来を見据えていました。
「静かなる挑戦者」の思いに耳を傾けました。
(大阪拠点放送局 ディレクター 田中雄一)
突如始まった祖父の介護
朝田さんが祖父の異変に気付いたのは、大学4年生、22才の時でした。
「助けてくれ!」、夜中に祖父の叫び声を聞き、部屋に向かった朝田さんに、祖父は「(家の中に)熊がいる」と言い放ったと言います。認知症を患う祖父の幻覚… それがその後10年に及ぶ介護の始まりでした。
朝田さんは幼い頃に交通事故で父親を亡くし、祖父と同居を始めました。祖父の認知症が発覚した後、母親と共に介護を担ってきましたが、次第にその負担は朝田さんに重くのしかかるようになりました。
朝田さんはディサービスへの送り迎えはもちろん、毎日のように深夜に外出しようとする祖父を引き留めてきました。祖父のケアのために朝田さん自身の生活も昼夜逆転するようになっていきます。
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朝田健太さん
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「夜中に祖父が玄関から外に出ようとするので、『時間がまだ早いから寝ていたらいい』ということを言ったりとか、『自分の家がどこかわからない』と言うので『ここが自分の家なんだ』ということを話したり。一番大変なときは、ひと晩に3回、4回、そういうことがほぼ毎日のように起こっていましたので、かなり心身ともに疲労はしていました。常に疲れが取れなかったり、自分自身の生活を前に進めるような意欲がなくなったりとか、そんな感じです」
研究の夢を断念
祖父の介護が始まった頃、朝田さんは大学4年生、卒業後は大学院への進学を決めていました。明治大正期の歴史史料に興味を持ち、その分野で研究を深めていきたいと考えていました。
しかし、祖父の介護に追われる日々の中では、勉学ははかどりませんでした。夜間の祖父のケアで消耗し、歴史学の難しい資料を読みこなす時間も気力も持てませんでした。大学院でのゼミの発表も滞りがちになり、周囲から信頼を得られなくなっていきました。
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朝田健太さん
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「大学院は毎週のように発表があるんですけども、その発表準備がなかなか介護でできなくて、代わってもらったりとかいろいろ調整はするんですけども、そのうち『またか』『いい加減にしろ』ということになってしまって。『研究は研究』『家のことは家のこと』というところで、そういう話を言われましたね。『大変やけど頑張れ』とか、『君がやらなくてもいいんじゃないか』ということを言われてしまいまして、そう言われてしまうと、『そうですよね』くらいしか言えなくなってくるので。周りに相談できる環境ではなかったなと思っています」

結局、朝田さんは3年で大学院の退学を余儀なくされました。その後は自宅にこもりがちになり、ひとり黙々と祖父の介護を担い続けたのです。
たまに同級生たちと顔を合わせても、介護の日々の中で共通の話題を見いだせません。孤立を深め、社会との接点を見出せなくなっていきました。
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朝田健太さん
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「同窓会とかに行っても、『結婚した』とか『仕事で昇進した』とか『どこかに旅行に行った』とか、そんな話が出てきますので、じゃあ振り返って自分は何をしていたんだろうと思うと、介護しかしていないなと。なかなかポジティブな話が見つけられないので、どんどんしんどくなっていくような印象がありました。予定表が真っ白になっていくのも辛かったですね。そういう予定表を見ていると、自分と社会との接点が少なくなっていると感じて、悲しいなと思っていました。なんで自分だけこんなことになっているんだろうとか、いつまでこの状態が続くのかなと」
空白の履歴書 自分の居場所はどこに?
大学院退学から1年後、朝田さんは祖父の介護を続けながら、行政が企画した若者の雇用促進事業に応募するなど、就職活動を開始しました。しかし、履歴書に書けることがほとんどないことに気付きます。朝田さん自身も祖父の介護は“家のお手伝い”程度に考え、その経験を社会でどう生かせば良いのか分かりませんでした。
その後、朝田さんはスーパーの店員などの仕事を転々とします。介護の経験を生かし、社会福祉士としての道を歩み始めたのは、ようやく4年前、年齢は30才を超えていました。
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朝田健太さん
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「自分なりのこのキャリアというのを見つけるのに、かなり回り道をしたような印象はあります。祖父の介護の経験を、社会に生かして生活していきたいなとは思っていたんですけども、どうすればその道にたどり着けるかというのはわからないことがありまして、自分なりにかなり回り道をしたなと思っています」
風船のように それぞれの色で…

朝田さんが若いケアラーのための会を立ち上げようと考え始めたのは、京都市内の男性介護者の会に参加するようになったことがきっかけです。朝田さんは介護の悩みや不安を互いに語り合う場に出会えたことで、ようやく自分の居場所を見つけられたようにも感じていました。
ただ、参加者の多くは60代、70代の年配の男性たち。メンバーの中でも、明らかに若い朝田さんは介護の勉強をしている学生と間違われることもあったと言います。
朝田さんは時が経つにつれて、次第に世代間のギャップも感じ始め、若いケアラー特有の悩みを語り合う場も必要だと感じるようになっていきます。
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朝田健太さん
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「男性介護者の会では『年金をどう使う』とか『早期退職制度が』という話が出てきますが、自分は今から社会人としてなんとかキャリアを作っていかないと、という時期でもありました。そういう若者特有の悩みには、なかなかマッチしないところがあったのかなと思っています。そういう意味では、若い人の悩みに答えられるような場が必要かなと思いましたし、もっと若い方だけが集まれる場が各地に増えたらいいなと考えました」

若いケアラー同士がつながり、悩みを語り合う場を作りたい—。
朝田さんは同じ境遇にあった仲間と共に一昨年の暮れ、「ふうせんの会」を立ち上げました。会の名称はLINEでやりとりする中で「適当に決まった」と言いますが、朝田さんはそこに特別な思いを寄せています。
会には朝田さんのように認知症の祖父の介護を担った人もいれば、精神疾患を患う母に寄り添い続ける人、障害のある弟のケアを担い続けた人もいます。同じヤングケアラーでもそれぞれに特色があり、それぞれに異なる悩みや苦しみを抱えていました。それはまるで色とりどりの「ふうせん」のようだと朝田さんは考えています。
その「ふうせん」がひとつにまとまれば空も飛べるかもしれない。たとえ、まとまらなくとも、それぞれが自由にはばたいてほしい。そのための足場に「ふうせんの会」がなってほしいと朝田さんは願っています。
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朝田健太さん
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「やっぱりほっとできる場所でもあってほしいですし、自分の考えを整理できる場でもあってほしいなと思います。介護者は自分だけではないんだというふうに気づいていただけるような場にもなると思いますし、ほかの人であればどのように自分の人生を立て直していったのかなとか、こうすれば介護と自分の生活がうまく回るんだというアイデアやヒントを得られる場がもっとあったらいいのかなと。同じ介護者の立場で問題というか、悩みを共有して、考えを整理できて、一歩でも前に進めるような機会になっていけばいいかなと思っています」
今、1人また1人と、若いケアラーが「ふうせんの会」に集い始めています。二ヶ月に一度の小さな集まりですが、悩みを互いに語り合い、時には笑い声もあがる温かな会です。朝田さんが仲間と共に生み出したケアラー同士の繋がりが、その未来の風景を、静かに、そして着実に変えていくように思えます。
ふうせんの会
ホームページ:https://peraichi.com/landing_pages/view/balloonyc/
問い合わせ:balloon.ys2020@gmail.com (ふうせんの会事務局)
Twitter:@yc_balloon