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“半径1メートル” で生きた10年

「毎日、自分が生きるのと周りを生かすのとで精一杯でした」

12歳の弟をあやしながら、絵本の唄を情緒豊かに口ずさむ女性。その手慣れた様子は、長い年月にわたってケアを行ってきた事実を、何よりも雄弁に語っているようでした。女性の名前は、上野千草さん (29)。高校生の頃から10年以上、ダウン症の弟やうつ病を患う母親のケアを続け、大学卒業後はバーや居酒屋など、家族のケアが終わった夜間に働ける職を転々としてきました。

昨年ようやく母の健康状態が回復し、ケアの負担を分担し始めたことで初めて手にした「自分の時間」。充実感をもつ一方で、これまで家族にささげてきた膨大な時間に時折「ふと思いがこみ上げてくる」と、複雑な胸の内を私たちに語ってくれました

(大阪拠点放送局ディレクター 二村晃弘)

「母親のような17歳」と言われて

(左が千草さん 右がげんき君)

千草さんが家族のケアを始めたのは、高校2年生の時です。うつ病の症状に苦しむ母親に代わり、同じ年に生まれたダウン症の弟・げんき君の育児やデイサービスの送り迎えを手伝い始めたことがきっかけでした。

未成年の出産をテーマにするテレビドラマ『14歳の母』が流行していた当時、げんき君のケアをする様子を見て、友達からからかい混じりに『あんたもドラマの子みたいな感じになったん?』と声をかけられたこともあったと言います。

周りが親子に見間違えるほど、千草さんが行っていたケアは大変なものでした。まず母親の着替えや荷物を準備し、合併症を患っていたげんき君の手術・診察に同伴。病院は遠く、往復で2時間以上かかりました。その傍ら、当時未就学児だったもう1人の弟の育児を担う必要もありました。身体は疲れ果てていきましたが、当時はまだ高校生。学校に通い、授業を受けなければなりません。

厳しい日々が続く中、父親からは一切サポートを得ることができませんでした。父はげんき君の育児をすることもなく、精神的に不安定な母親に代わって家事を担うこともなかったと言います。千草さんは、「この子(げんき君)にとって父親はいないものだ」「私が家族を支えないといけない」という思いを強めていきました。

高校3年生になると、ケアに加え大学受験が千草さんの上にのしかかりました。周りが受験勉強に専念していく中、千草さんは幼いげんき君から目を離すことは出来ず、日々ケアに時間を取られながら、受験準備をしなければならなくなったのです。

千草さん

「受験勉強をやっていたときは、弟をこうやって膝の上に抱えながら、一問一答や教科書を勉強してましたね。片手がふさがっていて書くのは厳しいので、基本的には見て覚えることしかできない。1時間もすると腕がだいぶ疲れてくるので、今度は反対の手で抱きかかえて、みたいな。これの繰り返しでしたね」

(幼いげんき君を膝の上に抱えながら受験勉強を行った)

たらい回しにされたSOS

ハンデを背負いながらも受験勉強に打ち込み、大学へと進学した千草さん。しかしその一方、ケアも苛烈さを増していきました。大学2年生になると母・敏子さんがうつ病と診断され状態が悪化。感情の起伏が激しくなり頻繁に過呼吸を起こすようになります。

敏子さんは料理や洗濯など一切の家事を担えなくなり、代わりに千草さんが負担することになったのです。千草さんは卒業に必要な最小限の単位のみを受講し、残りの時間は全て家族のケアにあてるという生活に切り替えざるを得ませんでした。

千草さん

「朝起きたらきょうだいを着替えさせ朝ご飯を食べさせる。自転車で弟を送り、自分は1つか2つの授業を受けたらすぐに帰る。帰ったら母の体調を確認し母をなだめる。その後、食材を買いに行き、夜ごはんの支度をしながらその途中で弟を迎えに行く。弟を迎えに行ってからが一番忙しかったです。家族にご飯を食べさせ、弟にお風呂に入れて、寝かせて…という毎日ですよね」

(左が母・敏子さん 右が千草さん)

病状が進み、母・敏子さんは自殺願望を抱くようになります。千草さんはそんな母への「情緒的サポート」も続けてきました。当時、敏子さんは感情の起伏が激しく、気分が高揚した時には包丁を振り回すこともありました。茶碗を割りその破片で自分を傷つけようとする。「こんなん生きとってもしゃあない」「おる意味がない」と電車に飛び込もうとする。そんな突発的な行動を何とかなだめながら弟のサポートもしなければと、千草さんは努力を続けてきました。しかしそのストレスからか、やがて千草さん自身もめまいや耳鳴りに悩まされるようになり、薬の服用が欠かせなくなっていきました。

家族ケアの負担がピークに達する中、周りとのギャップに苦しみ、大学の中でも孤立感を深めていったと言います。

千草さん

「その時期は他人を羨むことがいっぱいありましたね。特に大学生なのでにぎやかな感じとかもあるじゃないですか。部活とかサークルで集まっている人らを目にするたびに、なんで他人は今日もこんなに幸せそうなんだろう?と思ったりとか。友達とかは一切居なかったです。毎日自分が生きるのと、周りを生かすのとで精一杯で。1週間先のこともわからへんのに、1年、2年、3年、10年あとのことは一切考えていなかったです。とにかく今を越えれば、今を越えればというのがずっとでした。」

過酷な状況の中、千草さんは市の生活支援課やこども家庭センターなどに相談したこともありました。しかし繰り返されるのは「でも、お父さんがいらっしゃるんですよね?」という言葉。「父親はサポートしてくれないんです」と返しても、一向に理解はしてもらえず最後には決まって別の部署へと回されてしまう・・・そんなやりとりばかりが繰り返されたと言います。

ある日、千草さんは父親に不満を爆発させました。「何で私ばっかり手伝わなあかんねん」。しかしどれだけ口論を交わしても、父親が動いてくれることはなかったと言います。私が支えるしかないんだ――誰からのサポートも期待できないという思いは、確信へと変わっていきました。

「半径1メートル」を守り続けた10年

(卒業式の写真 左が千草さん)

大学入学当初、千草さんはマスコミュニケーション論を専攻し、出版社への就職希望を持っていました。しかしケアに追われ就職活動さえもままなりませんでした。もし自分が就職したら誰が弟をサポートする?離れているときに母親に何かあったら?そんな問いばかり頭をよぎり、定時の仕事に就く未来を考えられなかったのです。千草さんにとっては、どうしたら家族を守る事ができるか、そのことだけが気がかりでした。

千草さん

「当時はもう自分の『半径1メートル』にしか興味がなくて。就職するというのは本当に頭になくて、自分の人生についてはその当時本当に考えなかったです。親がしない、できないのであれば、大人になっている自分が、とにかく下の子に『普通の生活』を送らせてあげないといけない」

大学卒業後、千草さんはバーや居酒屋など、夜の時間帯でも働ける仕事を転々とすることで日々をしのいでいきます。日中に家族のサポートをした後での夜の仕事は体力的にかなりの負担でしたが、家族をおいて昼に働くことは考えられませんでした。仕事よりも何よりも家族が大事。そんな千草さんを見て周りの人たちは声をかけたと言います。「なぜそんなに自分を犠牲にするの?」「自分の人生を考えたら?」「主体性がないんじゃないの?」…

しかし千草さんにとって家族のケアを行うことは「当たり前」でした。自分の家族として生まれてきてくれた弟のことを思うと、自分を生んでくれた母親のことを思うと、家族を差し置いて自分を優先することなど、夢にも思わなかったのです。

千草さん

「周りから見たら強制的にやらされていることだと見えるかもしれないですけど、当人の事情はそうじゃない場合もあるんですよね。私はそうだったんですよ。自分が守りたいと思った。向き合わないことで後悔するくらいなら、自分を多少犠牲にしてでも思うようにやったほうがいいなと思った」

周りにどう思われたっていい――「半径1メートル」の世界を守り続ける日々が1年、また1年と続き、やがて10年という歳月が過ぎていきました。

長年のケアを経て いま思うこと

千草さんが“自分の人生”を歩み始めたのは1年前のことです。症状が改善した母・敏子さんが家事を分担できるようになり、ケアの負担が軽減されました。千草さんは今、知人の紹介で正社員として昼の時間帯の仕事に就き、アルコールの除菌剤を製造するメーカー会社で製造業務を行っています。手に職をつけようと、今年の冬にはフォークリフトの免許を取得。将来、工場で行える仕事の幅を増やしたいと考えています。これまで持つことのできなかった「自分の時間」を持てていることに充実感を感じています。

千草さん

「これまでの人生は悪かったとも良かったとも思わないです。でも自分の人生を取り戻し始めているという感じがあるかもしれないです。『まともに生きているな、自分』とちょくちょく思います。今までの仕事が全部まともじゃないとは言わないですよ。けど、定時の仕事で働く9時6時で働く仕事ができたらいいなと思っていたんですよね。だいぶ私が思う『普通』に近づいているんじゃないかなという気はします」

周りから何を言われようとも、家族を守り抜きたいとケアに奔走してきた10年間。千草さんは、過酷な状況からも逃げ出さず、常に家族を優先して生きてきました。ケアにささげてきたその時間を、良かったとも悪かったとも評価することなく、あるがままに受け入れ、前を向いて生きてきたのです。

取材中、ずっと聞いてみたかった質問がありました。「家族じゃなく、もし自分に時間を使うことが出来たら、何をしたかったですか?」。私たちの問いかけに千草さんは沈黙しました。考えこむ千草さん、1分、2分と時間が過ぎていきます。そして、絞り出すかのように、こう答えました。

千草さん

「弟がいてくれて幸せだと思うこともたくさんありましたよ。でも、今でもふとしたタイミングで、大学生とか学生さんとかを見るたびに、『ああいう未来があったらよかったな』とか、『私の過去はこうじゃなかったな』とか思って、ボーッとするときがあります。自分はもう一生結婚も何もせずに生きていくものだと思っていました。10年後も、20年後も、私が扶養するのは弟だけなんだと。もし自分自身に時間を使えるのであれば、私はやっぱり、母親になりたいですね。自分の子どもを産んで育てる準備をしたかったな、と思います」

家族をケアする経験、さらに言えば「家族のために生きること」は決して悪いことではありません。しかし、きょうこの瞬間も誰にも助けを求めることなく自分の時間をケアに捧げ、家族のために生き、一日一日をしのぐヤングケアラーたちがいるとすれば、やはり社会は彼らの声に耳を澄ませ、支援の手を差し伸べるべきではないか――取材を通して、そんなことを考えました。

みんなのコメント(4件)

郁ちゃん
男性
2021年4月5日
家族愛というものを感じました。1mのところにいる人に尽くすことと、自分のこれから先をどう生きていくのか興味があります。
おこと
20代 女性
2021年4月5日
家族のことを大切に想う気持ちが伝わってきました。家族を守る選択も逃げる選択も、どんな生き方も素晴らしく、尊重されるものだと感じます。今を生きることで精一杯だったことや周りを羨ましく思う部分もあるという気持ち、共感できるところが沢山ありました。周りの支援者が家族を介護者として見るのではなく、支援が必要かもしれない存在としてみてくれる社会になることを願っています。ありがとうございます。応援しています。
romix
50代 女性
2021年4月4日
#ヤングケアラー について学びたい、と思っていました。何故なら、私自身もそうだったかも、と思い当たる所と、今現在ご家族の為にご自分の時間を割いている若い方々へ、気持ちが惹きつけられてしまうからです。情報ありがとう御座います♪
みや
50代 男性
2021年4月4日
応援します。でも、責任だから?と背負いこみすぎないで−−−あまえてもいぃし、助けを求めてもイィョ大丈夫