おもわく。
おもわく。

1989年、世界に激震を走らせた「東欧革命」。中でも異色だったのはチェコスロバキアの「ビロード革命」です。市民による非暴力的な活動と対話によって平和裏に民主化を果たし、世界的に大きな注目を集めました。率いたのは劇作家のヴァーツラフ・ハヴェル(1936-2011)。後にチェコ大統領も務めた彼の主著「力なき者たちの力」が今再び、脚光を浴びています。アラビア語に翻訳されたこの著作は「アラブの春」を支えた市民たちに熱心に読まれました。また、トランプ政権下のアメリカでは、政治学者や歴史学者たちが、この本から「新しい形の全体主義」に抵抗する方法を学ぼうとしています。

1970年代のチェコスロバキアは、東欧でも最も過酷な全体主義体制の只中にありました。そんな体制を果敢に批判し続けたハヴェルは何度も投獄。出所後も秘密警察による厳しい監視にさらされます。この体制に一人の人間として抵抗を続けていく方法はありうるのか? ハヴェルは仲間たちと積み重ねてきた経験や知恵を抽出する形で、この著作を書き上げたのです。

ハヴェルによれば、全体主義は、消費社会の価値観と緊密に結びつく形で「ポスト全体主義」という新たな段階を迎えたといいます。強圧的な独裁ではなく、「精神的・倫理的な高潔さと引き換えに、物質的な安定を犠牲にしたくない」という人々の欲望につけこむ形で、高度な監視システムと個人の生を複雑に縛るルールをいきわたらせる社会体制。そこでは、市民たちは、相互監視と忖度によって互いに従順になるように手を差し延べあいます。このような社会では、既存の政治綱領など全く意味がありません。それよりも「思っていることを自由に表現できる」「警察に監視されない」「威厳をもって人間らしく暮らせる」といった、最も基本的な「生の領域」に働きかける新しい形の運動が必要だというのです。

ハヴェルは、地下出版や真実を訴える音楽家グループらと緊密に連携しながら、地道な形で抵抗の基盤を形成し続けました。そうした積み重ねが、強固な「ポスト全体主義」体制に風穴を開け、「ビロード革命」を成し遂げたのです。この著作には、ハヴェルが展開してきたそうした運動のアイデアや方法がリアルな形で書き綴られています。

ハヴェルの研究を続けるチェコ文学者の阿部賢一さんは、現代にこそ「力なき者たちの力」を読み直す意味があるといいます。豊かな消費社会を享受しながらも、IT技術による高度な情報統制や、個人生活の監視が巧みに強化されつつある現代社会は、たやすく「ポスト全体主義」体制に取りこまれていく可能性があるといいます。番組では、この著作を現代の視点から読み解くことで、世界を席巻しつつある高度な管理社会・監視社会や強権的な政治手法とどう向き合ったらよいかを学ぶとともに、全体主義に巻き込まれないためには何が必要かという普遍的問題を考えていきます。

ページ先頭へ

第1回 「嘘の生」からなる全体主義

【放送時間】
2020年2月3日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2020年2月5日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2020年2月5日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】
阿部賢一…東京大学准教授・チェコ文学者
【朗読】
池内万作(俳優)
【語り】
小口貴子

第二次大戦中はナチスに蹂躙され、戦後は社会主義体制にのみこまれ、自主的な判断をしようとすると戦車に踏みつぶされてしまう東欧。とりわけチェコスロバキアは常に大国のはざまで決して主体とはなれず、受け身としてしか存在できなかった。その結果、巧妙な全体主義、官僚支配体制、監視社会等々二十世紀の暗部の集積地となった。一言でいうと、独裁と消費社会が結びつくことで生まれた「ポスト全体主義」と呼ばれる新たな現象だ。それは強圧的な独裁ではなく、「精神的・倫理的な高潔さと引き換えに、物質的な安定を犠牲にしたくない」という人々の欲望につけこむ形で、高度な監視システムと個人の生を複雑に縛るルールをいきわたらせる社会体制だった。第一回は、ハヴェルたちが立ち向かった抑圧的な体制のしくみを明らかにすることで、現代社会にも通じる歴史の暗部を浮き彫りにする。

ページ先頭へ

第2回 「真実の生」を求めて

【放送時間】
2020年2月10日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2020年2月12日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2020年2月12日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】
阿部賢一…東京大学准教授・チェコ文学者
【朗読】
池内万作(俳優)
【語り】
小口貴子

「ポスト全体主義」という体制の中では、市民たちは、相互監視と忖度によって互いに従順になるように手を差し延べあう。そこでは既存の政治理念など全く効果をもたない。対抗するには「人間らしく暮せるか否か」という基本に立ち返り、人間の「いま、ここ」を起点として政治運動を再構築する必要があるという。「真実の生」を求めたハヴェルたちのこうした運動は、21世紀の様々な問題を先取りしており、そこで生み出された知恵や思想には現代の問題を解決する大きなヒントも溢れている。第二回は、現代社会にも通じる「ポスト全体主義」にハヴェルたちがどう抵抗したかを明らかにし、一人ひとりの人間が社会を変えていくには何が必要かを考える。

名著、げすとこらむ。ゲスト講師:阿部賢一
ページ先頭へ

第3回 並行文化のの可能性

【放送時間】
2020年2月17日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2020年2月19日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2020年2月19日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】
阿部賢一…東京大学准教授・チェコ文学者
【朗読】
池内万作(俳優)
【語り】
小口貴子

抵抗運動の大きな波が始まる起点は、あるロックミュージシャンの逮捕だった。ただ自分たちの好きな音楽を演奏し、真実の生を謳歌したいだけだった「プラスチック・ピープル」のメンバーが治安紊乱罪で逮捕。これを契機に「他者の自由のために立ち上がらなければ自分たちも自由を断念することになる」という機運が人々の間に芽生え、やがてそれは基本的人権を擁護しようという運動に繋がる。同時に、地下出版、アングラ・ミュージック、自主講座、独自の宗教活動など、公的な領域とは独立した活動の場が次々と拡大、体制を揺さぶり始めるのだ。第三回は、ハヴェルが「並行文化」と呼ぶ市民たちの活動に注目し、その可能性を深く考察する。

安部みちこのみちこ's EYE
ページ先頭へ

第4回 言葉の力

【放送時間】
2020年2月24日(月・祝)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2020年2月26日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2020年2月26日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】
阿部賢一…東京大学准教授・チェコ文学者
【朗読】
池内万作(俳優)
【語り】
小口貴子

劇作家でもあったハヴェルは、生涯「言葉の問題」を追究し続けた。イデオロギーとして働く言葉は真実を覆い隠し、人々を「見せかけの世界」に埋没させる恐ろしさを持つ。その一方で、言葉は、動かしがたい強固な現実をずらしていくことで、人々を「真実の生」へと解放しゆく、市民たちの武器ともなりうる。第四回は、この著作と合わせて、戯曲や「視覚詩」なども一緒に読み解き、言葉に対して懐疑と批判的なまなざしを向け続けたハヴェルの思索を通して、言葉のもつ「闇」と「可能性」を浮き彫りにしていく。

アニメ職人たちの凄技アニメ職人たちの凄技
NHKテレビテキスト「100分 de 名著」はこちら
○NHKテレビテキスト「100分 de 名著」
『力なき者たちの力』 2020年2月
2020年1月25日発売
ページ先頭へ

こぼれ話。

〈慎ましい仕事〉とは?

嘘の上に嘘を塗り固めた政府、忖度に支配された悪しき官僚制、我が身の保身や安定と引き換えに倫理や尊厳を売り渡す人々。そんな「ポスト全体主義」と呼ばれるかつてのチェコスロバキアの社会主義体制と劇作家ハヴェルはどう闘ったか? 今回取り上げた「力なき者たちの力」は、ハヴェルが仲間たちと積み重ねてきた経験や知恵を抽出する形で書かれた名著です。当時は、地下出版という形で出され、わずか10部ほどしかなかったといわれています。

実は、1970-80年代のチェコスロバキアは、内部告発が権力によって握りつぶされ、ルールが恣意的に捻じ曲げられ、空虚な官僚的言語によって現実が隠蔽され続けるなど、東欧でも最も過酷な全体主義体制の只中にありました。そんな厳しい体制に対して、市民たち一人ひとりはどう抵抗できるのかをハヴェルは考えぬきました。

こう書いてきて、今、私は戦慄を覚えています。「オルタナファクト」「フェイクニュース」といった言葉に代表されるように、今、私たちは、かつてハヴェルたちが生きた時代と酷似した時代を生きてるのではないか。今、世界で起きているさまざまな事象を見つめるとき、ハヴェルが描いたディストピアは、更に先鋭化する形で現代に現れていると思えてならないのです。その意味で、彼の主著は、今でも全く古びていません。古びていないどころか、私達が今を生きぬいていく上で貴重なヒントが、この著作にはたくさん埋め込まれているように思えます。

実は、この企画、最初は全く別のものになるはずでした。私自身も大好きなカレル・チャペック「山椒魚戦争」を解説するというのが最初の企画の形で、チェコ文学者の阿部賢一さんに持ち込んだのです。しかし、予想外の展開に。直接お会いした際、「今、この時代にどうしても多くの人に読んでもらいたい本がほかにある」と阿部さんがいいます。その時に出た名前がヴァーツラフ・ハヴェルでした。

ところが、これが奇跡ともいえる邂逅で、私はポーランドのレフ・ワレサとチェコスロバキアのヴァーツラフ・ハヴェルがいなければ、今頃テレビ局で働いていないのではないかといえるほど、この二人に影響を受けた人間だったのです。何しろ私が就職活動をしたのが1989年。就職面接を受けまくっていた当時、次々に東欧諸国が倒れていきました。ワレサは壁の向こうからやってくる電波が世界を変えたと高らかに宣言しました。ハヴェルは「真実の言葉」が世界を変えたと叫びました。日々のニュースにもまれながら、複数の内定先からNHKを選んだのはまさに彼らの言葉があったからなのです。

今も阿部さんに初めて取材した時の音源が残っていますが、取材の半分くらいは熱に浮かされたようにハヴェルのことを語り合っています。カレル・チャペックの話はどこかに吹き飛んでいました。

1990年代はハヴェルの本が続々と翻訳されていました。「ハヴェル自伝」「ハヴェル獄中記」「反政治のすすめ」「ビロード革命のこころ」などなど。残念ながらほぼ全て絶版ですが、NHKに入ったばかりの私はこれらハヴェルの本を貪るように読み漁っていました。しかし、まだ主著ともいえる「力なき者たちの力」は翻訳されていませんでした。かろうじて、チェコの思想史を研究している石川達夫さんの論考などに、いくつかの部分が引用がなされているのみ。何しろチェコ語は読めませんから全体像を掴むことはできませんでした。

あれから三十年。ようやく阿部さんの手によって翻訳された「力なき者たちの力」のゲラを、出版社のご了解も得て、この取材の直後に読ませていただくことになりました。夢にまで見たあのハヴェルの主著です。興奮の坩堝でした。そして半分も読まないうちに確信しました。これは、今の社会に必要な本だ、と。知名度の点で企画を通すハードルは高いと思いましたが、それは切り口次第だと思い直し、企画書の文章を相当に練り上げました。案ずるよりも産むがやすし。蓋をあけたら「これは非常に強く現代性が感じられる企画だ」と評価を得て採択、意外にも著作の知名度は不問に付されたのでした。

こうしてさまざまな出会いと幸運によって、およそ1年前に採択された企画ですが、驚くべきことに、放送が近づくにつれ、ますますハヴェルが直面したかつての状況と、現代に生きる私たちが向き合っている現実が似通ってきました。

上滑りする空虚な官僚言語が人々に蔓延する恐怖を描く戯曲「ガーデン・パーティ」。「平和」という言葉を連呼するうちに、いつの間にか「戦争」という意味に転化していくことを象徴的に表現した視覚詩「戦争」。そして、「現実を隠蔽する偽りの言葉」や「定型句だけを使って、全く責任をとろうとしない匿名化する権力」の怖ろしさを鋭く批判した「力なき者たちの力」。チェコスロバキアをかつて覆った「ポスト全体主義」へのハヴェルの鋭い批判は、現代を生きる私たちをも鋭く刺し貫きます。

では、「忖度」や「同調圧力」に支配された体制にあって、一人ひとりの市民には具体的に何ができるのでしょうか? これも、ハヴェルが貫いた姿勢から学ぶことができると思います。

「国民の前で決して嘘はつかない」。ハヴェルが大統領就任演説で示したのはその強い姿勢でした。前政権のごとく嘘でごまかすことなく、「我が国は繁栄していません」と赤裸々に現実を語ったハヴェルの言葉に、国民は「ようやく真実を語るリーダーが現れた」と歓呼の声を上げました。これは、何よりも、ハヴェル自身がディシデント(反体制派/異論派)と呼ばれた頃から変わらず続けてきた「真実の生」の実践でした。

たった一人の勇気ある行動が一個師団をまるごと武装解除する力を持つことがあるとハヴェルはいいます。「真摯に取り組んだ、〈慎ましい仕事〉が悪い政治の批判となる」とも述べています。何も難しいことではありません。我が身の保身や安定と引き換えに倫理や尊厳を売り渡すことなく、良心に恥じない誠実な仕事を地道に続けること。自らの醜い欲望だけのために嘘を塗り固めて現実を隠蔽しないこと。ハヴェルが一貫して語り続けたことは、実は極めてシンプルです。そうした人間が一人、また一人と増えていき、互いにつながりあっていったとき、立ちはだかる分厚い壁が揺らぎ始めるのです。ハヴェルは、そのことを身をもって示してくれました。

私自身も、番組制作を通して〈慎ましい仕事〉を続けていきたいと深く決意しました。ハヴェルから私が学んだ最も大事なことは、そのことかもしれません。

ページ先頭へ
Topへ