小野正嗣
(おの・まさつぐ)
作家、早稲田大学教授
1970年、大分県生まれ。仏語文学研究者。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。パリ第8大学文学博士。立教大学教授を経て現職。「水に埋もれる墓」で朝日新人文学賞、『にぎやかな湾に背負われた船』(朝日文庫)で三島由紀夫賞、『九年前の祈り』(講談社文庫)で芥川龍之介賞受賞。『残された者たち』(集英社文庫)、『水死人の帰還』(文藝春秋)、『ヨロコビ・ムカエル?』(白水社)ほか著書多数。訳書に、マリー・ンディアイ『ロジー・カルプ』『三人の逞しい女』(早川書房)、アキール・シャルマ『ファミリー・ライフ』(新潮クレスト・ブックス)、アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』(ちくま学芸文庫)ほか。2018年4月から、NHK「日曜美術館」のキャスターを務める。
ある作家と人はどのようにして出会うのでしょうか。
僕が大江健三郎を知ったのは、テレビを通じてだったと思います。高校生くらいのときでしょうか。画面のなかで訥々(とつとつ)と喋っている人を見て、この大江健三郎という人はどういう人なのか、と母に尋ねました。僕の記憶では、えれえ人じゃ、四国の人じゃ、愛媛じゃったかの、と母は答えました。
僕の郷里は、九州の東側、大分県の南部、リアス式海岸の作る入り江のひとつに面した小さな集落です。晴れた日には、複雑な海岸線を作る小さな湾を越えたさらにその先遠くに、うっすらと四国の山並みが見えます。なぜかその作家に親近感を覚えました。たぶん、この作家を読むことが自分にとって大切になるという漠然とした直感みたいなものがあったのでしょう。
大学に入って、大江健三郎を真剣に読むようになりました。周囲に大江を読んでいる人は、教師も学生も含めてたくさんいたように思います。そこで気づいたのは、大江作品には前期と後期があるようだ、ということでした。そして前期のほうが物語としては面白かった、という感想をよく耳にしました。後期になると、自分の家族のことが語られ、外国の詩や小説の引用が多くて、読むのが大変だ、と。
しかし僕が強く惹きつけられたのは、むしろ後期の作品群でした。障害を持った息子との共生と、作家自身の故郷の四国の森のなかの土地の神話や伝承という二つの主題が、作品ごとにていねいに深められています。そこにそのつど、作家にとって大切な詩人や小説家の作品の深い読解が重ねられます。そうやって作家の壮大にして繊細な想像力は、毎回、さまざまな驚くべき出来事にしるしづけられた物語を、すみずみまで丹念に練り上げられた文体を駆使して展開していくのです。そしてこのような書き方――ナラティヴの手法――が確立されて、豊かに繁っていく時期、それを僕は大江作品の後期と呼びたいと思います。
今回、取り上げる『燃えあがる緑の木』は、その後期の作品のなかでもっとも重要な作品のひとつであり、大江健三郎という作家の代表作といっても過言ではない作品だと思います。
そこで作家は「魂のこと」に取り組んでいます。人間の魂は死後どうなるのか、人間にとって「祈り」とはどのような行為なのか、ということが、「救い主」とされた「ギー兄さん」という男性の受難に満ちた生涯を通して語られます。そしてそれを語るのは、彼をそばから支えた特殊な身体的な特徴を持つ「サッチャン」という女性です。
作家は毎回、みずからの切実な問題意識に呼応してくれるような詩人を必要とするのですが、『燃えあがる緑の木』において、四国の森のなかの土地に生まれ、幼いころから樹木を愛したこの作家に寄り添うのは、アイルランドの詩人イェーツです。「燃えあがる緑の木」という神秘的なイメージ自体が、イェーツの詩に喚起されたものです。「梢(こずえ)の枝から半ばはすべてきらめく炎であり/半ばはすべて緑の/露に濡れた豊かな茂りである一本の樹木」は、この作品において何を象徴しているのでしょうか?
大江健三郎という作家は、障害を持つ息子との共生を大きな主題としていると書きました。そのことは作家自身もくり返し公言しています。作品を解釈する際に、もっぱら作家の現実の人生で起きた出来事に関連づけて理解しようとする伝記的なアプローチを多用するのは慎むべきだと思います。しかし大江健三郎は、彼自身が現実生活をフィクション化し、そうやってできた小説が今度は現実生活に深い影響を及ぼすという書き方を長いあいだ続けてきた人です。
そのせいか、小説のさまざまなところから、目を凝らせば、たがいを必要とし支えあう作家と息子が見えてくるように思えるのです。そのような僕の読解は、ややナイーブに過ぎるところがあるかもしれませんが、後期の大江の作品を読むたびに、僕の魂を揺り動かすのは、そのような父(そして家族)と息子の姿なのです。障害のある息子はひとりでは生きていけないかもしれません。しかし、そのような人がそばにいることで父は大きな贈り物をもらっているのです。困難な状況を生きる息子に手を差し伸べる父は、息子を支えるという機会を与えられているのです。ケアを与えられていると思われる人も、ケアを与える側と同じくらい、いやそれ以上に多くのものを与えている。人間が二人、つまり複数いることの意味はそこにあるのかもしれません。人間というものへの希望と信頼。『燃えあがる緑の木』にも、そのようなことを感じさせてくれる美しい瞬間─―それは一瞬よりはいくらかは長い間つづくのですが─―がたしかにあります。
信仰のない者は、何に対して、どのように祈ることができるのか。『燃えあがる緑の木』は、悩み苦しみながらも、そのような問いにまっすぐ向かいあった人物たちの、つまりは作家自身の魂の軌跡でもあるのです。