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名著、げすとこらむ。

安田 登
(やすだ・のぼる)
能楽師

プロフィール

1956年千葉県生まれ。下掛宝生流ワキ方能楽師。元ロルファー。高校時代、麻雀をきっかけに甲骨文字と中国古代哲学への関心に目覚める。高校教師時代に能と出会う。ワキ方の重鎮、鏑木岑男師の謡に衝撃を受け、27歳で入門。現在は、能楽師のワキ方として国内外を問わず活躍し、能のメソッドを使った作品の創作、演出、出演などを行うかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を、東京を中心に全国各地で開催。日本と中国の古典の “身体性”を読み直す試みにも継続して取り組んでいる。『能─―650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)、『異界を旅する能』(ちくま文庫)、『身体感覚で『論語』を読みなおす。』(新潮文庫)、『すごい論語』(ミシマ社)、『身体感覚で「芭蕉」を読みなおす。』(春秋社)、『あわいの力』(ミシマ社)、『日本人の身体』(ちくま新書)、『イナンナの冥界下り』(ミシマ社)、『能に学ぶ「和」の呼吸法』『疲れない体をつくる「和」の身体作法 』(以上、祥伝社)、『変調 「日本の古典」談義』(祥伝社、内田樹氏との共著)など著書多数。

◯『平家物語』 ゲスト講師 安田 登
鎮められるのは誰の魂か

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。」

誰もが一度は聞いたことがある、あるいは学校で習った記憶があるフレーズではないでしょうか。こうして始まる『平家物語』は、平安末期に起こった、平家と源氏の騒乱を描く長大な軍記物語―─というのが一般的な理解でしょう。しかし、実際に読んでみると源氏が本格的に登場するのは物語の後半ですから、全体として見ると、平家の衰退を描く物語と捉えたほうが正確だと思います。

作者は不詳ですが、有力な説としてよく引かれるのは、吉田兼好の『徒然草』二百二十六段。信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)という人が『平家物語』を書き、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語らせた、というエピソードです。しかし、実際の成立にはおそらくもっと多くの人が関わっていて、よくわからないというのが正しいところでしょう。成立年も不詳ですが、鎌倉時代前半までにはおおよそ現在のような形の作品になったと考えられています。

『平家物語』には物語の異なるバージョンが多く存在し、それらは大きく「語り本系」と「読み本系」の二系統に分かれます。現在、私たちが主に目にするのは語り本系の『平家物語』で、盲目の琵琶法師(びわほうし)が琵琶を弾きながら人々に「語って聴かせた」物語の系統です。物語を目で読むのではなく、耳で聴く。これは『平家物語』の大きな特徴です。聴き手にはさまざまな階層の人たちがいましたが、中世から近世にかけて、主な聴き手は武士でした。なぜ武士たちは『平家物語』を聴いたのでしょうか。そのことについて考えてみる前に、能楽師である私と『平家物語』の出会いについてお話ししておきましょう。

私が『平家物語』と初めて出会ったのは、中学生か高校生のときのこと。授業で『平家物語』を学び、「祇園精舎」の平家琵琶を聴いたのですが、正直言っておもしろさは全く感じませんでした。『平家物語』の魅力を初めて知ったのは、能を通してそれに改めて出会ったときのことです。実は、能という芸能は『平家物語』から多大な影響を受けています。能の演目には、『敦盛』『俊寛』『巴』『八島』など、『平家物語』に材を取ったものが八十曲以上もありますし、能を大成した世阿弥(ぜあみ)は、『平家物語』は文章がすばらしいので、源平の名将を主人公とする能を書くときには「平家の物語のままに書くべし」と言っています。さらに、『平家物語』と能は、戦いで命を落とした人や、この世に思いを残して死んでいった人の霊を鎮魂するという、共通の役割を持つ芸能でもあります。

私は二十五歳で能を初めて観て、師匠に弟子入りし、二十七歳から舞台に立つようになりました。『平家物語』のおもしろさを体感したのは、自分が能を演じるようになってからです。まずすごいのは、目の前に(シテが演じているとは言え)平家の武将が実際にいるということ。しかもその人と古語で会話をするということ。これにはいまでも興奮します。

もうひとつ実感したのは、「鎮魂」の意味についてです。それまで「鎮魂」と言うと、平家の人々などの死者の魂を慰めるだけだと思っていました。しかし、それは生きている私たちの魂をも鎮めるものだったのです。

こんな体験をしました。まだ玄人の能楽師になる前です。客席で能を観ていたとき、ふと気づくと途中から能を観ていない。何をしていたかと言うと、ぼんやり自分のことを考え始めていました。しかも、普段は思い出しもしないような過去の記憶がふと意識の表面に現れる。

以前、ある心理学者が言っていましたが、普段は思い出さないような過去をそのままにしておくと、あるときその思い出が自分に押し寄せて自分の人生を駄目にすることがあるそうです。たとえば、突然やる気がなくなったり、急に仕事を辞めたくなったり。私たちは、いまを生きるために過去の自分をどんどん切り捨てています。切って、捨てて、殺した自分がいる。その切った自分、捨てた自分が、能を観ているときにふっと出てくるのです。その衝撃が激しすぎる場合に、おそらく起きていることが不可能になって、寝てしまいます。よく言われる、能を観ると眠くなるという現象が起こる。その場合は寝てしまっていいと思うのです。そして、目が覚めると不思議とスッキリしている。これは、切り捨てた自分の魂が鎮められたのではないか。これこそ現代における鎮魂なのではないのか。現代人が能を観る意味のひとつがそこにある、そう思いました。

おそらく、中世以降に『平家物語』を聴いていた武将たちは、自らも人を殺してきた。そして平家の物語を聴きながら、平家の死者が、自分が殺した敵に重なり、さらには切って捨てた自分の過去とも重なり、心の中でその霊を鎮魂したのではないか。能を観ながら私はそう思ったのです。

さて、そんな鎮魂の物語である『平家物語』は、現代の私たちからすると、人間論や組織論としても読むことができます。なぜ、平家をはじめとするあらゆる組織が衰退に向かうのか。どうすればそれを延命させることができた(かもしれない)のか─―。『平家物語』で描かれる組織衰退のキーワードのひとつは「驕り(おごり)」です。なぜ人は驕ってしまうのか。なぜそれが組織衰亡につながるのか。そんなことにも注目しながら、これから四回にわたり、『平家物語』を読んでいきたいと思います。

大事なことをひとつ付け加えると、『平家物語』はフィクションです。実際に起きた歴史上の出来事をベースにしてはいますが、細かいところで史実と異なる部分は数多くあります。また、『平家物語』の登場人物たちにはある種のキャラクター化が施されている場合が多々ある。今回は、実際の歴史がどうだったのかということよりも、そうしたキャラクター化や象徴化に込められた意味を読み解きながら、物語としての『平家物語』を味わっていくことにしましょう。

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