おもわく。
おもわく。

人間にとって「知とは何か?」「言語とは何か?」「政治とは何か?」……数多くの根源的な問いを投げかけ、全世界で5500万部を超えるベストセラーを記録した一冊の小説があります。「薔薇の名前」。世界的な記号学者ウンベルト・エーコ(1932- 2016)によって書かれた推理小説です。人間がいかに「言語」によって翻弄される存在なのか、人間の「知」や「理性」がいかに脆弱なものなのかを、克明な人物描写、巧みな古典の引用を通して見事に描き出したこの作品から、現代人にも通じるさまざまな問題を読み解いていきます。
物語の舞台は14世紀初頭。対立する教皇側と皇帝側の間を調停するための密使として北イタリアの修道院に派遣される修道士ウィリアムと見習いアドソ。到着早々、彼らは謎の連続殺人事件に遭遇し修道院長に事件解決を依頼されます。遺体発見の場は「ヨハネの黙示録」に描かれた世界終末の描写と酷似。持ち前の論理的な思考を駆使して推理を続けるウィリアムはやがて修道院内の図書館の奥に納められている一冊の本が事件の鍵を握っていることに気づきます。一体誰が何のために殺人を行っているのか? 一冊の本に秘められた謎とは? 果たしてウィリアムはその謎を解くことができるのか?
世界30カ国以上で翻訳され、映画化も果たすなど、この作品が多くの人々の心をとらえてやまないのはなぜでしょうか? イタリア文学者の和田忠彦さん(東京外語大学名誉教授)は、その理由を「人間が言語や記号といったものを離れては生きられない」という根源的な真実を描いているからだといいます。私たちは、この作品の中に、言語に支配し操られる人間の宿命や逆に言語を武器として自由を求めようとする人間の可能性を、自らに重ね合わせながら読み取ることができるのです。
それだけではありません。この作品は推理小説であるにもかかわらず、最後まで完全に謎が解き明かされることはありません。快刀乱麻ともいうべき主人公の知性は、事件解決のための鋭い切れ味を各所で示しながらも、最後にはこの事件の大半が偶然の産物であることがわかり、彼の推理は大きく裏切られます。この小説は、近代的理性の限界を暴く物語でもあるのです。
番組では、「薔薇の名前」という作品を、人間が決して避けることができない「言語の罠」にスポットを当てて読み解き、人間は自らが作り出した「知」や「政治」、「宗教」といった問題とどう向き合っていけばよいかを考えていきます。

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第1回 修道士は名探偵?

【放送時間】
2018年9月3日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2018年9月5日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2018年9月5日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【講師】
和田忠彦(東京外語大学名誉教授・イタリア文学)
【朗読】
三上博史(俳優)
【語り】
小口貴子

北イタリアの修道院に派遣される修道士ウィリアムと見習いアドソ。到着早々、彼らは謎の連続殺人事件に遭遇し修道院長に事件解決を依頼される。鮮やかな推理をみせるウィリアムとその解説者アドソの設定は、ホームズとワトソンをモデルにしていることは明らかだ。ホームズ的な探偵小説という形を借りて、中世秩序がほころび近代が黎明を迎える中で「知」を武器に言語や記号の解明に挑む人間の姿が鮮やかに描かれていく。第一回は、この作品を「探偵小説」として読み解き、記号を解読する能力を駆使する人間の可能性と限界を見極めていく。

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第2回 知の迷宮への旅

【放送時間】
2018年9月10日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2018年9月12日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2018年9月12日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【講師】
和田忠彦(東京外語大学名誉教授・イタリア文学)
【朗読】
三上博史(俳優)
【語り】
小口貴子

黙示録に描かれた世界終焉の描写をなぞるように連続する殺人事件。ウィリアムは、その知力を駆使して、事件の鍵が失われたとされる一冊の本にあると推理。その本を探し出すべく修道院内の図書館に潜入する。しかし、そこは、さまざまな仕掛けや暗号で守られた迷宮だった。人類の知の宝庫ともいうべき膨大な蔵書の中を巡りながら、ウィリアムは多様な解釈を試み、図書館の謎に挑戦していく。この知の迷宮への旅は、私たち人間と書物の関係を象徴的に示している。第二回は、ウィリアムが挑んだ謎解きの過程を通して、人間にとって「知」とは何か、「解釈」とは何かを探っていく。

名著、げすとこらむ。ゲスト講師:和田忠彦
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第3回 「異端」はつくられる

【放送時間】
2018年9月17日(月・祝)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2018年9月19日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2018年9月19日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【講師】
和田忠彦(東京外語大学名誉教授・イタリア文学)
【朗読】
三上博史(俳優)
【語り】
小口貴子

教皇側から派遣された異端審問官ギーが修道院に乗り込んでくる。彼は異端派たちを強引にも犯人に仕立て上げ火刑に処す。その勢いをかって皇帝側を会議で断罪。教皇側と皇帝側の調停は決裂してしまう。実は、こうした描写は、当時イタリアの政治状況を隠喩的に表現したものだ。反政府勢力に対する苛烈な弾圧、要人誘拐事件を政府側の一方的解釈で捻じ曲げ、結局要人が殺害されてしまう「モーロ事件」等々。イタリアでは、言葉狩りのような言論弾圧が横行し、知識人たちが黙して語らない「鉛の時代」を迎えていた。この小説は、エーコによる告発と読むこともできる。第三回は、この物語を「政治小説」として読み解き、権力と言語の関係や、異端を排除する記号システムの恐ろしさを明らかにしていく。

アニメ職人たちの凄技アニメ職人たちの凄技
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第4回 謎は解かれるのか

【放送時間】
2018年9月24日(月・祝)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2018年9月26日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2018年9月26日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【講師】
和田忠彦(東京外語大学名誉教授・イタリア文学)
【第四回ゲスト】
中沢新一(野生の科学研究所所長・人類学者)
【朗読】
三上博史(俳優)
【語り】
小口貴子

ウィリアムはついに図書館の奥へ入るための暗号を解く。秘密の場所へ辿りついた彼らを待っていたのは、老僧のホルヘ。「笑い」の重要性を説くアリストテレス「詩学」第二部こそ事件の鍵だった。「笑い」はキリスト教を滅ぼす脅威となると考えたホルヘは、この本に毒を塗り読むものを死に至らしめていた。推理はことごとくミスリードだった。それどころか、彼の知への驕りはホルヘの傲慢さと瓜二つ。ウィリアムは自らの「知性」の限界を突きつけられる。第四回は、人類学者の中沢新一さんをゲストに招き、ついに全ての謎が解き明かされない結末などの重要なシーンから、人間の知への驕りへの警告や、言語に翻弄され続ける人間の宿命を読み解いていく。

NHKテレビテキスト「100分 de 名著」はこちら
○NHKテレビテキスト「100分 de 名著」
『薔薇の名前』 2018年9月
2018年8月25日発売
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こぼれ話。

言葉や記号に翻弄される人間の宿命

「最近、『言葉』というものがもつ重みが、なくなってしまっているのではないか?」

「薔薇の名前」という作品を再び読んでみたいと思ったきっかけはそんな感慨からでした。インターネットやSNSの普及で、ものすごいスピードで大量の言葉が流通し、行きかっている現代。でも蓋をあけてみると、便利さの裏で、びっくりするようなことも起こっています。

「平気でうそやデマを流す」「間違った言葉を発しても謝罪しないどころか撤回もしない」「これまで積み上げてきた言説をいともたやすくひっくり返す」「都合のよい情報や言葉だけを集めて歪んだ世界観を作り上げそこに安住する」「一度作り上げてしまった世界観は、たとえ綻びを見つけても、チェックも検証もしない」

こんなに「言葉」が軽く扱われた時代がかつてあったでしょうか? もう一度「言葉」のもつ重みについて深く考えるためにも、「言葉」や「記号」と格闘し続けた知の巨人ウンベルト・エーコの代表作「薔薇の名前」を、今こそ読み直すべきだと直観したのです。

ちょうどそんなことを考え始めていたとき、とあるシンポジウムで出会ったのが、今回、講師を担当したイタリア文学者の和田忠彦さんです。イタロ・カルヴィーノの作品などを通して「翻訳の本質」に迫った非常に優れた発表でした。和田さんのことは、カルヴィーノやアントニオ・タブッキの訳業を通して存知あげていたのですが、生で作品解説を拝見するのは初めて。この人ならば「薔薇の名前」の解説はうってつけかもしれないと強い確信をもちました(恥ずかしながら、まだこのときには、和田さんが生前のエーコと親しく交流していたことなどは全く知らなかったのです……)。「薔薇の名前」を再読し終えた今年2月、思い切って取材依頼のメールを差し上げたところ、滞在先のボローニャからすぐにお返事をいただきました。最初の取材の際に、今回番組で紹介した大事な論点はほぼ押さえてくださっており、その場で講師のオファーをさせていただきました。その的確な解説については、番組をご覧になった視聴者の皆さんにはあらためて繰り返す必要はないでしょう。

一つだけ補足すると、学生時代に愛読していた頃には全く気づかなかったことを教えていただきました。「薔薇の名前」に描かれたことが、執筆当時のイタリアの政治状況を隠喩的に表現したものだということです。反政府勢力に対する苛烈な弾圧とそれへの報復、要人誘拐事件を政府側の一方的解釈で捻じ曲げ、結局要人が殺害されてしまう「モーロ事件」など。イタリアでは、言葉狩りのような言論弾圧が横行し、知識人たちが黙して語らない「鉛の時代」を迎えていました。この小説は、エーコによる告発と読むこともできるのです。

特に、元首相のアルド・モーロを死に追いやった「モーロ事件」の顛末は、本人の意図を捻じ曲げる形でモーロの手紙をよってたかって「過剰解釈」し、本人の要望を無視して見殺しにしたという戦慄すべきものでした。この言葉や記号への解釈の乱用は、まさに、私が冒頭に掲げた印象にも通じており、現代社会の似姿とも感じられました。エーコ自身も「モーロ事件がなければこの作品を書くことはなかった」と述懐している通り、この作品からエーコの現代社会への警告を読み取らなければならないと、和田さんの解説を聞きながら強く思いました。

さて、もう一人、大事な功労者をここでご紹介しなければなりません。人類学者の中沢新一さんです。該博な知識を駆使して、主に哲学的な視点から「薔薇の名前」の奥深いメッセージを見事に読み解いてくださいましたが、25分の時間制限のため、泣く泣くカットせざるを得ない解説も多々ありました。いくつかのポイントに絞って採録したいと思います。

○「笑い」について
中沢さんは、この作品の隠れた真の主人公は「笑い」ではないかといいます。老僧ホルヘが人間にとっては害悪をなすものとあくまで退け続けた「笑い」。しかし、一方で、主人公のウィリアムをはじめ、多くの人たちがこの「笑い」の魅力に魅了されています。中沢さんは、この「笑い」を、記号にもならないし名前にもおさまりきれない何かが動いているもの、根底で人々や事象を動かしている何かを象徴したものだといいます。それが物語全体を動かしている。「笑い」は秩序を吹き飛ばし、ひっくり返す力をもっているものであり、だからこそ、人はそれを恐れたり、魅了されたりするのではないでしょうか?

○カーニバルと民衆世界
その「笑い」を古来から支えてきたものが「カーニバル」であり「民衆世界」だと中沢さんはいいます。キリスト教世界がもっとも危機感を覚えたのが「民衆世界」。民衆文化であるカーニバルは、世俗権力を全部ひっくり返したり、男が女になったり女が男になったり、ありとあらゆる価値をひっくり返すもの。そういう文化がイタリアには深く根付いている。エーコはそのことをこの作品にこめたのではないでしょうか?
またカーニバル的な世界は、異端の世界にも通じている。カタリ派などの異端は、民衆の中から湧き上がってくるような宗教改革運動ですから、そのメンタリティや思想の中には、必ずカーニバル的なものがある。そして、その淵源は、厳格な一神教のキリスト教的な世界観ではなく、笑いに満ち溢れた多神教的なギリシャ世界に発している。「喜劇」の本質を追究したとされるアリストテレス「詩学」第二部は、まさにそこに横溢していた「笑い」を分析した書なのだから、それを通じてキリスト教世界に「民衆的なもの」「カーニバル的なもの」がはいってきてしまうと既存の秩序が崩壊してしまう。だから、ホルヘたちは、「異端」以上に、この本を畏れたのではないかというわけです。
当時のカーニバルでは、「薔薇の名前」の中にも出てきた風刺画のように、教皇の格好をしたロバが出てきて、ひひーんと鳴きながら神聖な説教をしたりする。カーニバルや民衆世界というのは、ある意味罰当たりなものであり、権威的な物言いや、「これこそが真理だ」といった態度を、根本から笑いのめしてやろうという強力な力が働いているものだから、体制側は必死でそこから教会を守ろうとしていたわけです。そうした構図が「薔薇の名前」では見事に描かれているんですね。

○反知性主義に抗するために
エーコが活躍していた1970年代というのは、ある意味で、西欧の知的なテンションがもっともピークに達している時代だといいます。その真っ只中で書かれたのが「薔薇の名前」という小説。記号を徹底的に相対化したり、笑いや無の中に人々を放り込んで圧倒するという知的にハイレベルなはなれ技をやってのけたエーコは、まさに「反知性主義」とは正反対の存在なのです。
現代は、反知性的なものが蔓延していて、こういう著作が読まれなくなってしまっているけど、こういう流れというのは大体50年周期で循環しているというのが中沢さんの見立てだそうで、2020年から30年くらいに、もう一回、この知的テンションは上昇してくるのではないかといいます。そのときに、次の「薔薇の名前」が書かれるだろうとも。「だから待ちましょう、次の『薔薇の名前』を!」と最後におっしゃっていました。

「知」と「笑い」というものが根底において通じ合っているものである視点は、まことにエーコらしく、その後の多くの著作の中に通奏低音のように鳴り響いているように思います。そして、エーコは、この「知」と「笑い」というものを武器に、既存の秩序や権力と対峙しようとしたのではないかとも感じます。

エーコの言うとおり、本来ならば、「知」と「笑い」は、人間が自らを呪縛する桎梏や居丈高な権力と立ち向かうための強力な武器であったと思います。ところが、現代という時代を見渡すと、どうも「知」も「笑い」も、権力と対峙するどころか、権力に奉仕し、支えるものとして使われてしまうことが多々あるようです。

私たちは、エーコに学びながら、この「知」と「笑い」という人類に与えられた武器を鍛えなおさなければならないと痛感します。文学を深く読むという体験は、そうした貴重なことを教えてくれるのです。

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