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名著、げすとこらむ。

若松英輔
(わかまつ・えいすけ)
批評家、随筆家

プロフィール

1968年新潟県生まれ。批評家、随筆家。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。2007年「越知保夫とその時代 求道の文学」にて第 14 回三田文学新人賞評論部門当選、2016年『叡知の詩学――小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会)にて第2回西脇順三郎学術賞受賞、2018年『詩集 見えない涙』(亜紀書房)にて第33回詩歌文学館賞(詩部門)受賞。『魂にふれる 大震災と、生きている死者』(トランスビュー)、『霊性の哲学』(KADOKAWA/角川学芸出版)、『小林秀雄美しい花』(文藝春秋)、『悲しみの秘義』(ナナロク社)、『イエス伝』(中央公論新社)、『詩集 幸福論』『常世の花――石牟礼道子』(ともに亜紀書房)、『代表的日本人――永遠の今を生きる者たち』(NHK出版)など著書多数。また、中島岳志との共著に『現代の超克――本当の「読む」を取り戻す』、和合亮一との共著に『往復書簡 悲しみが言葉をつむぐとき』(岩波書店)がある。

◯『生きがいについて』 ゲスト講師 若松英輔
「生きがい」と出会うために

『生きがいについて』を真剣に読み直す契機になったのは、二〇一一年に起こった東日本大震災でした。
この出来事で多くの人が、耐え難い試練に直面し、それは今も続いています。世の中は、「復興」という旗印のもと、壊れたものを再建し、新しいことを始めようとしました。これらが重要なのはもちろんですが、震災で失われたのは、物理的なものだけでなく、じつは「生きがい」と呼ぶべきものではなかったか、と思ったのです。
この本でいう「生きがい」とは、生きる意味であり、将来への期待であり、今、ここで行われる挑戦であり、また、知らない間に育んできたものの現われでもある。著者である神谷美恵子は、それは人間が努力して一から作り上げるものではなく、発見すべきものであるといいます。そしてその「生きがい」の発見は、自分が何か大きなものに包まれているという実感から始まる、というのです。
神谷は、その大いなるものをさまざまな言葉で表現していますが、「大地」もその一つです。この言葉は、この本を読み解くとき、鍵になる言葉になっています。彼女はそれを「自然」と書くこともあります。
『生きがいについて』を読んで、神谷美恵子が「生きがい」をどう捉えていたのかを知ることも大切ですが、もっとも重要なのは、私たち一人ひとりが、自分で心の底から「生きがい」だと感じられるものに出会うことです。たとえば、彼女は、「自然」という表現を用いながら、次のように述べています。

社会をはなれて自然にかえるとき、そのときにのみ人間は本来の人間性にかえることができるというルソーのあの主張は、根本的に正しいにちがいない。少なくとも深い悩みのなかにあるひとは、どんな書物によるよりも、どんなひとのことばによるよりも、自然のなかにすなおに身を投げ出すことによって、自然の持つ癒しの力─それは彼の内にも外にもはたらいている─によって癒され、新しい力を恢復するのである。

「ルソー」とは、『告白』や『エミール』の著者ジャン゠ジャック・ルソーです。ルソーは、悩める同時代人にむかって、自然に還れと言いました。それは、原始的な生活をすることを意味しません。自然とのつながりを感じながら生きることを指します。
ここで見過ごしてはならないのは、ルソーと神谷が、人間もまた「自然」の一部であることをよく理解しつつ、そう述べていることです。山川草木や花鳥風月との真の関係を取り戻すとき、私たちは同時に、本来の自分も他者との関係も取り戻すことができる。
別な見方をすれば、「自然」は、私たちを生かしてくれているものでもあります。「生きがい」と呼ぶべきものは、人間が、生きようと強く感じるときよりもむしろ、生かされていると感じるところにその姿を現わす。「生きがい」は、社会や人が作り出すものであるよりも、もっとも深い意味で「自然」が与えてくれるものである、と神谷は感じている。
野に一輪の花を見るように、また、さえずる鳥の声を全身で引き受けようとするときのように、私たちが隣人の言葉と向き合うとき、眠れる「生きがい」が何ものかによって照らし出されるというのです。
本文でもふれますが、神谷はこの本をさまざまな人の助けと教えを受けながら書き進めました。そのなかのひとりにという詩人がいます。神谷はこの本で彼の詩を一度ならず引用しています。次に引くのは志樹の「土壌」と題する作品です。

わたしは耕す
世界の足音が響くこの土を
………
原爆の死を、骸骨の冷たさを
血の滴を、幾億の人間の
人種や 国境を ここに砕いて
かなしみを腐敗させてゆく
わたしは
おろ おろと しびれた手で足もとの土を耕す
泥にまみれる いつか暗さの中にも延ばしてくる根に
すべての母体である この土壌に
ただ 耳をかたむける。

『生きがいについて』の本質は、この一篇の詩に収れんしていく、といっても過言ではない作品です。
志樹は、ハンセン病を患い、筆舌に尽くしがたい困難を生きてきました。彼はその苦しみと悲しみの経験を通じて、人生の「土」と呼ぶべきものの発見に至ったというのです。そして彼は、その「土」にふれることによって、戦争やさまざまな不条理な出来事のなかで亡くなっていった人々と時空を超えてつながるという経験をします。悲しみによって他者とつながり、深い孤独の苦しみから抜け出したということでしょう。
「かなしみを腐敗させてゆく」とこの詩人はいます。悲しみは、落ち葉のように「土」に舞い降りる。落ち葉はもう人の眼を楽しませることもなく、樹木にとって光を吸収する働きもない。一見すると不要なものに映る。しかし、私たちは、それは「土」が新生するためになくてはならないものであることを知っています。ここでの「土」は、世界そのものを示しています。この世界は、個々の人間のそれぞれの悲しみによって支えられ、育まれているというのです。
神谷は、「生きがい」は、苦しみや悲しみの経験のなかで芽吹き、花開かせると考えています。また、人は、大地の上で生きているのではなく、大地に「生かされて」いるのではないか。「生きがい」とは、大地が与えてくれているものを発見することなのではないか、と志樹の詩を引くことによって問いかけるのです。
『生きがいについて』で神谷は、古今東西、有名無名のさまざまな人々の言葉を引いていますが、読者のなかには、神谷の言葉なのか、彼女が引用した人物の言葉なのか、その境界線が分からなくなるような経験をする人もいるかもしれません。
神谷は、真実は、時代や立場、社会的地位などを超えて、どんな人によっても語られ得ることを、賢者は、私たちの目に見えないところに存在することを、引用を重ねることによって浮かび上がらせようとします。私たちも、「誰が」語ったかばかりでなく、「何が」語られているのかに注目しつつ、この本を読み進めてみたいと思います。

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