もどる→

名著、げすとこらむ。

先崎彰容
(せんざき・あきなか)
日本大学危機管理学部教授

プロフィール

1975年東京都生まれ。東京大学文学部倫理学科卒業。東北大学大学院文学研究科日本思史専攻博士課程単位取得修了。フランス社会科学高等研究院に留学。文学博士。専攻は近代日本思想史・日本倫理思想史。主な著書に『高山樗牛――美とナショナリズム』(論創社)、『ナショナリズムの復権』(ちくま新書)、『違和感の正体』(新潮新書)、『未完の西郷隆盛――日本人はなぜ論じ続けるのか』(新潮選書)など、現代語訳と解説に福澤諭吉『ビギナーズ日本の思想 文明論之概略』(角川ソフィア文庫)などがある。

◯『南洲翁遺訓』 ゲスト講師 先崎彰容
混迷の時代を照らす「灯火」

 現在の日本は、先行きが不透明な時代だ─―そんな言葉をよく耳にします。この国の大きな転換点だとも言われる二〇一一年の東日本大震災を経て、これから日本はどちらに向かって進むべきなのか。一九九〇年代以降の経済不況の頃から言われ続けている「先行き不透明」という表現は、日を追うごとに身近になり、もはや常套句になっているように思えます。

 では、どうすればよいのか。闇雲に前進すればよいのでしょうか。むしろ私たちは、自らの来た道を振りかえり、そこから未来を照らしだす「灯火」を得るべきではないでしょうか。

 先の見通せない時代、不安定な時代になると、必ず名前が挙がってくる二人の日本人がいます。夏目漱石と、今回取り上げる西郷隆盛(一八二七〜七七)です。漱石は、小説家として近代日本の文明について考えた人で、「私の個人主義」という講演録が話題になることも多い人物です。一方、『南洲翁遺訓』の西郷隆盛は、政治家としてはもちろんですが、それ以上に人々を惹きつけてやまない人間的魅力をもつ、懐の深い指導者として、不安定な時代になるとたびたび登場してくる印象があります。

 西郷隆盛の一般的なイメージというと、最も典型的なのは、封建的な武士の棟梁というものでしょう。それは、上野公園の銅像や有名ないくつかの肖像画の、いかにも豪傑といった姿に拠るところも大きいと思います。どちらかというと保守的な、あるいは古色蒼然とした、古い時代の人という印象を抱いている方が多いのではないでしょうか。実際、第二次世界大戦後には研究者の間でも、以下のような理由によって否定的に評価されるのが普通でした。

 一つは、戦争中の大陸進出を動機づけた元凶として「征韓論」が槍玉に挙がったことです。西郷を明治六年の「征韓論」のカリスマとして記憶している人も多いでしょう(実際には、西郷は「征韓論」という言葉自体、使ったことはありません。西郷の主張は、近年では「遣韓論」とも呼ばれるようになっていますが、詳細は第3回で解説します)。

 もう一つ、同時代に活躍した大久保利通(一八三〇〜七八)に比べて、明治維新以降の新しい日本をつくる明確な国家像─司馬遼太郎の言葉でいえば「青写真」─―を持たない人物だったというイメージもあります。日本の近代化には役立たなかった、政治的にはあまり有能ではなかった人物、そんな風にさえ思われている節があります。

 封建的で保守的、そして日本の近代化には全く理解のない男。さらには「征韓論」の急先鋒で、数年後には日本最大の内乱「西南戦争」まで引き起こしてしまった─―。以上のような西郷像に、あまりよいイメージを持たない人も多いのではないかと思われます。しかし近年、以上のような「イメージ」とは異なる、西郷の「実像」を明らかにしようという動きが活発に出てきています。これについては本論できちんと見ていくことにしましょう。

 西郷が遺した『南洲翁遺訓』とはどういうものか。またなぜ、今、読むに値するのか。第1回で詳述するので、ここでは簡単に触れるにとどめますが、「南洲翁」は西郷隆盛の尊称です。実は、この本は西郷隆盛本人が書いたのではなく、旧庄内藩の関係者が、聞き書きをまとめて編纂したものなのです。出版されたのは、西郷の死後、賊名が解かれた明治二十三年(一八九〇)のこと。内容は、為政者としての心構えをはじめとして、西郷の国家観・文明観を示す多彩なものです。政治家や組織のリーダー的地位にある人を意識して語られていて、非常に示唆に富む内容です。と同時に筆者は、とりわけ西郷の死生観がこの書に溢れていることが、今日でもなお、西郷に私たちが惹きつけられる理由であると考えています。その詳細も本論で明らかにしていきます。

 「政治家」としての西郷隆盛について書かれた、歴史学者による研究書は多くあります。しかし今回は『南洲翁遺訓』に書かれている言葉に注目し、精読することで、思想史の立場から見た西郷像を示したいと思っています。より具体的にいえば、実際にどのような学問をまなび、それを糧に時代と格闘したのかを検証し、「人間」西郷隆盛に迫ってみよう─―これが今回の「100分de名著」で挑戦したいことです。

 現在と同じくらい、いや、もっと激しく先行き不透明で、混迷した時代を生きた西郷隆盛。彼の実像に迫ることで、現在のような社会状況において羅針盤になるような何かを、読者のみなさんと摑み取ることができれば幸いです。

ページ先頭へ
Topへ