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名著、げすとこらむ。

沼野充義
(ぬまの・みつよし)
ロシア・東欧文学研究者、文芸評論家

プロフィール

1954年東京生まれ。東京大学教養学部教養学科卒業。ハーバード大学大学院および東京大学大学院に学び、ワルシャワ大学講師などを経て現在は東京大学教授。レム『ソラリス』(国書刊行会/ハヤカワ文庫)、同『完全な真空』『虚数』(ともに国書刊行会)、ナボコフ『賜物』(河出書房新社)、チェーホフ『かもめ』(集英社文庫)など訳書・共訳書多数。翻訳などを手がけた『スタニスワフ・レム コレクション』(全6巻、国書刊行会)が今年7月に完結。「100分de名著 チェーホフ『かもめ』」(2012年9月)でも講師を務めた。

◯『ソラリス』 ゲスト講師 沼野充義
二十世紀世界文学の古典となったSF小説

 スタニスワフ・レム(一九二一~二〇〇六)はポーランドのSF(※1)作家です。ポーランドという国はおそらく多くの日本人にとってはあまりなじみがなく、ポーランドの作家を誰か知っているかと聞かれても、なかなか名前が思い浮かばないのではないかと思います。その中で、レムという人は日本で例外的によく知られ、もっともよく読まれているポーランドの作家でしょう。SFファンのための専門誌が行う人気投票では、レムの作品は時代を問わずたいてい上位に入ります。二〇一四年発売の「S‐Fマガジン」(早川書房)創刊七〇〇号記念特大号で発表された読者投票による「オールタイム・ベストSF」では、海外長篇部門の第一位がレムの『ソラリス』でした。日本で大変人気のあるアメリカSFの諸作品を押さえての第一位だったのです。

 しかし、SFというジャンルは、文学においては特定の読者向けに限定されたものと思われがちです。そのためSFに興味のない人はレムの名前すら知らないし、作品もまったく読んだことがないという状況になっている。これはあまりにももったいないことです。そこで今回、満を持してこの「100分de名著」で、レムの傑作『ソラリス』が取り上げられることとなりました。

『ソラリス』は数多いレムの著作の中でももっとも有名なもので、一九六一年にポーランドの首都ワルシャワで初版が出て以来、ポーランド国内でいまだに版を重ねているのはもちろん、世界四十カ国語以上に翻訳されています。また一九七二年には旧ソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキー(※2)が、二〇〇二年にはアメリカのスティーヴン・ソダーバーグ(※3)が、それぞれ映画化しています。前者の「惑星ソラリス」という邦題を聞いたことがある人もいるかもしれません。

『ソラリス』という小説は、一言で言えば、人間と人間以外の理性との〝接触〟の物語です。主人公の心理学者クリス・ケルヴィンは、その表面を覆う海が意思を持つとされる惑星ソラリスの謎を解くため、ソラリスの海の上空にある観測ステーションにやってきます。しかし、そのステーションでは異様なことが起きており、そこにいた研究員たちの言動は不穏で、やがてクリスの身にもソラリスの海がもたらす不可思議な現象が起きることになります。

 私が初めて『ソラリス』を読んだのは十五歳頃のこと。早川書房の『世界SF全集』の一巻に収められた、ロシア語訳からの日本語訳でした(『ソラリスの陽のもとに』飯田規和訳)。その頃すでに熱烈なSF少年であった私は、この全集のあれこれの巻を手当たりしだいに読み進めるうち、たまたまレムの巻に出会いました。それは偶然でした。ハインライン(※4)やアシモフ(※5)、ブラッドベリ(※6)といったアメリカの作家たちのSF小説を主に読んでいた私にとって、「レム」も「ソラリス」も聞いたことのない名前だったのです。

 しかし、『ソラリス』を読み始めて、私はすぐに理解しました。自分がいま手にしているものは、これまで読んできたSFのどれとも似ていない、何か根本的に違うものだということを。読み進めるうちに、これは特別に強い力をもって読者を引き込む作品であることがわかり、私は単におもしろいというよりは、むしろ、恐怖のような感覚を覚えました。まだ十代半ばの少年であった当時の私には、それを何と呼ぶべきかはまだわかりませんでしたが、いまならば、「形而上的(けいじじょうてき)恐怖」とでも呼んでみたいと思います。それは人間の認識能力の限界を試し、それを越えようとする状況から生ずる感覚です。『ソラリス』の登場人物たちは、読者とともに、「未知の他者」と向き合い、その前で自分の認識能力の限界を悟るとともに、他者に向かって自らを開いていき、違和感そのものに身をひたすのです。

 結局、レムを翻訳で読んだことがきっかけとなり、私は後にポーランド語を学び、専門とするロシア文学の研究と並行して、ポーランド文学探索の道にも足を踏み入れることとなりました。ひとえにレムを原文で読みたいがために、この不思議な世界は原文ではどうなっているのだろうか、という知的好奇心に突き動かされて、ポーランド語の勉強を始めたと言っても誇張ではありません。そして二〇〇四年には、とうとう『ソラリス』のポーランド語原典からの全訳を出すことができました。

 レムは驚異的に博学な作家で、『ソラリス』のような本格SF長篇以外にも、自らが生きた同時代を扱った非SF小説、風刺と諧謔(かいぎゃく)の精神の生きたSF短篇、科学や文学に関する理論的著作、時事批評など非常に多彩な作品を生み出しています。しかし、中でも群を抜いて人気が高いのはやはり『ソラリス』です。この小説には、まずSFファンの想像力をかきたてる、宇宙の未知を探る「冒険」、そしてソラリスの観測ステーションで生じた奇妙な現象に関するスリリングな「謎とき」の側面があります。加えて、人間の意識下によどんだもっともおぞましい形象をソラリスの海が実体化するという、ある種の精神分析的な物語の側面、さらには、そのおぞましさが「懐かしさ」に反転して愛の奇跡がもたらされるという恋愛小説の側面もあります。

 今回は、SFファンがあまり意識していないかもしれない、レムをレムたらしめた地政学的・文化史的文脈にも触れながら、いまや二十世紀世界文学の古典とも言えるこの小説を、みなさんと読み解いていきたいと思います。



【※1】SF……サイエンス・フィクション(Science Fiction)の略。一九二〇年代のアメリカで命名、普及。定義は、直訳の「空想科学小説」から「いまだ存在していない、変化した世界の問題を論じる物語」「異化と認識の相互作用を条件とする文学ジャンル」などまで多様。SFの嚆矢(こうし)は科学技術の人間理性からの離反を描いたメアリ・シェリー『フランケンシュタイン』(一八一八)とされる。

【※2】アンドレイ・タルコフスキー……一九三二~八六。ソ連時代のロシアの映画監督。詩的映像、独自の象徴的・宗教的作風で知られた。八四年亡命、フランスで死去。『僕の村は戦場だった』(六二)、『ノスタルジア』(八三)、『サクリファイス』(八六)など。

【※3】スティーヴン・ソダーバーグ……一九六三~。アメリカの映画監督。一九八九年、長篇デビュー作『セックスと嘘とビデオテープ』でカンヌ映画祭最高賞。『トラフィック』(二〇〇〇)でアカデミー監督賞。硬軟様々な作品で職人芸を発揮する。

【※4】ハインライン……一九〇七~八八。一九四〇年代からSF界を牽引した巨匠。〈未来史〉シリーズの代表作『メトセラの子ら』(四一)、時間旅行の逆説をロマンスに持ち込んだ『夏への扉』(五七)、自意識をもつ人工知能を描く『月は無慈悲な夜の女王』(六六)など。

【※5】アシモフ……一九二〇~九二。ハインラインと並ぶアメリカSF界の巨匠。ロシアに生まれ、三歳でアメリカに移住、帰化。数千年先の未来における帝国崩壊と再建を描く叙事詩『銀河帝国興亡史』三部作(五一~五三)、『われはロボット』(五〇)に始まるロボット・シリーズなど。

【※6】ブラッドベリ……一九二〇~二〇一二。SF、ファンタジー、詩、戯曲の分野で傑作を残した巨匠。地球人の火星探索と植民をめぐる連作『火星年代記』(五〇)、〈焚書〉をテーマに思想統制・反知性主義を風刺したアンチ・ユートピアSF『華氏451度』(五三)など。

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