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名著、げすとこらむ。

廣野由美子
(ひろの・ゆみこ)
京都大学大学院教授

プロフィール

1958年生まれ。京都大学文学部文学科(独文学専攻)卒業。神戸大学大学院文化学研究科博士課程(英文学専攻)単位取得退学。学術博士。山口大学教育学部助教授、京都大学総合人間学部助教授を経て、現在、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。専門分野は、英文学、イギリス小説。1996年、第4回福原賞受賞。2015年2月、100分de名著「フランケンシュタイン」に指南役として出演。著書に、『深読みジェイン・オースティン―─恋愛心理を解剖する』(NHKブックス)、『謎解き「嵐が丘」』(松籟社)、『批評理論入門――「フランケンシュタイン」解剖講義』(中公新書)、『ミステリーの人間学―─英国古典探偵小説を読む』(岩波新書)、『一人称小説とは何か―─異界の「私」の物語』『視線は人を殺すか─―小説論11講』(共にミネルヴァ書房)、『十九世紀イギリス小説の技法』(英宝社)など、翻訳書に『ジョージ・エリオット』(彩流社)などがある。

◯『高慢と偏見』 ゲスト講師 廣野由美子
十九世紀イギリス小説の礎

 ジェイン・オースティンは、母国イギリスで最も親しまれている作家のひとりです。イギリスの中央銀行であるイングランド銀行の発表によると、今年九月に発行予定の新十ポンド紙幣には、オースティンの没後二百年を記念して、彼女の肖像画が使用されるとのこと。かつて日本の千円札に夏目漱石の肖像が、そして現在の五千円札に樋口一葉の肖像が使われているように、イギリス人にとってオースティンは、まさに国民的作家と言える存在なのです。

 オースティンが国民的作家と呼ばれる所以は、彼女の小説が、いわゆるイギリス的特質が顕著な文学であるからでしょう。では、「イギリス的特質」とは何でしょうか。それは、人間の性格の特徴や、日常における人間関係の洞察に重点を置き、対象から距離を隔てて客観的に、皮肉な笑いをこめて眺めるという風刺の精神があることだと思います。オースティンの作品は、まさにこのような精神で満ち溢れています。

 今回取り上げるのは、オースティンの代表作『高慢と偏見』(原題Pride and Prejudice)です。最近では、映画やドラマ、それにさまざまな関連本の影響で、この小説に出会う読者も多いようです。代表的な六つの小説(『分別と多感』『高慢と偏見』『マンスフィールド・パーク』『エマ』『ノーサンガー・アビー』『説得』)はすべて映画化されていますが、なかでも、一九九五年にテレビ放映されたBBC制作のドラマシリーズ「高慢と偏見」は、イギリスで一大ブームを巻き起こしました。女主人公エリザベスと衝突しながら関係を深めていく大富豪の青年ダーシーを演じた男優コリン・ファースは、このドラマで人気が爆発。放送時間には街から人がいなくなったというエピソードもあるほどです。

 そして、女主人公がこのドラマのファンである、という設定で人気を博したのが、小説『ブリジット・ジョーンズの日記』(一九九六年)です。イギリスの女性作家ヘレン・フィールディングによるロマンチック・コメディで、映画化(二〇〇一年)もされました。独身女性ブリジットがいくつかの恋愛経験を経て恋人を見つけるに至るというストーリーや、相手役の弁護士の名前がマーク・ダーシーであること、映画でその役を演じたのがコリン・ファースであることなどから、オースティンの『高慢と偏見』の翻案だということが直ちにわかる作品です。

 このように、現代においてもさまざまな形で親しまれ続けている本作品ですが、物語を読み解くうえでキーワードとなるのが、タイトルに掲げられた「高慢(Pride)」と「偏見(Prejudice)」です。原題のpride は、邦題では「高慢」「自負」などと訳されていますが、pride という語にはほかにも、誇り、自尊心、満足感、得意な気持ち、自惚れ、思い上がり、などさまざまな意味があります。つまり、「高慢」は原義の一部にすぎず、pride にはプラス・マイナスの両義を含んだ多様な意味が込められているのです。

 また、prejudice には、偏見、先入観、毛嫌い、偏愛、えこひいき、など、こちらも幅広い意味があります。道理のとおらない理由で人を嫌うことだけでなく、逆にえこひいきすることも、「偏見」の一種なのです。 さらに言うと、本編にしばしば出てくるvanity もキーワードのひとつです。ある辞書によれば、vanity の意味は“too much pride in yourself”(過剰なプライド)と定義されています。つまり、自惚れ、慢心、虚栄心といった意味です。

 『高慢と偏見』は、プロットの形から、いわゆる「恋愛小説」として捉えられますが、同時にこの作品では、恋愛のプロセスに沿って、ことに中心人物たちの心理と行動が、実に克明に描かれています。恋愛とは、人生で遭遇する出来事のなかでも、とりわけものの見方が揺れ動いたり、歪んだりしやすい現象です。オースティンは、恋愛と、その結末としての結婚を題材として描くことをとおして、人間のものの見方の歪み─―プライド、偏見、虚栄心など―─を浮かび上がらせていると言えるでしょう。人間の本質というテーマを追求するには、恋愛という事象が格好の素材となるわけです。

 『高慢と偏見』に登場する人物たちはみなそれぞれ、ものの見方や言動に際立った特徴があり、読者にとって忘れがたい、強烈な印象を残します。オースティンはそうした人物たちをユーモラスに描きつつ、一定の距離を置いて皮肉な目を向けることによって、「人間性とは何か」「人間の弱点とは何か」という、より広いテーマを提示しています。それこそが、この作品の大きな魅力であり、真価であると言えるでしょう。

 女主人公エリザベス、大金持ちの紳士ダーシー、そして、彼らを取り巻く家族や友人たちなどさまざまな登場人物たちは、いかに、そしてなぜ、ものの見方が歪んでしまうのか。果たして、彼らはその「歪み」を克服することができるのか。今回は、登場人物たちの会話や心理をじっくり読み解きながら、オースティンが恋愛をとおして描こうとした人間の真の姿に迫ってみたいと思います。

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