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名著、げすとこらむ。

渡邉義浩
(わたなべ・よしひろ)
早稲田大学文学学術院教授

プロフィール

1962年、東京都生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科史学専攻修了。大東文化大学文学部中国学科教授を経て現職。専攻は中国古代史。文学博士。後漢国家と儒教の関わりや『後漢書』の翻訳などに取り組む一方、「三国志」についての一般向け解説、啓蒙も精力的に行い、映画『レッドクリフ』日本語版監修などを手がける。著書に、『儒教と中国 ──「二千年の正統思想」の正統思想」の起源』(講談社選書メチエ)をはじめ、『三国政権の構造と「名士」』(汲古書院)、『三国志──演義から正史、そして史実へ』(中公新書)、『関羽──神になった「三国志」の英雄』(筑摩選書)、『全譯後漢書』(主編、汲古書院)など多数。

◯『三国志』 ゲスト講師 渡邉義浩
「伝統」か「革新」か

 およそ千八百年前、二世紀から三世紀にかけて、中国は激動の時代を迎えていました。その模様を描いた代表的史書が、陳寿(二三三~二九七)の著した『三国志』です。この当時、中国は春秋戦国時代(紀元前八~前三世紀)と並ぶ、社会の変革期を迎えていました。四百年も続いた「漢」が崩壊し、数多の群雄が栄枯盛衰を繰り広げ、やがて乱世は魏、蜀、呉の三国鼎立状態へと収斂します。そして、最終的に魏を継いだ晋が中国を再統一することになりました。その過程で登場するさまざまな人物の「生きざま」が、『三国志』には克明に描かれています。

 当時の時代背景については、「伝統」と「革新」という構図で見ると、わかりやすくなります。「漢」は長きにわたり中国を統治し、「漢民族」や「漢字」という言葉が現在まで残っていることに明らかなように、後世への影響力が大きく、まさに「永遠の漢」と呼ぶべき存在でした。その漢の後継を自認していた劉備が建国した蜀(正式な国名は漢。そのため「蜀漢」ともいう)と、劉備を支えた諸葛亮は、「伝統」の側といえるでしょう。

 これに対し、曹操が土台を整え、その子・曹丕の建国した魏と、孫権の呉は、いわば「革新」の立場にありました。とくに魏は、漢の制度が限界を迎えていた状況で新たな制度を創出し、後世への影響力は絶大なものがありました。その具体例として、以降の税収体系の基礎となった租調制や、均田制の源流になった屯田制など、国家の支配体制そのものを大きく変えた功績を挙げることができます。

 一方、呉は、孫権が重用した魯粛の「天下三分の計」に基づく新しい発想により、活路を見出した国家です。制度そのものは後漢をそのまま継承していますが、広大な中国において、長江下流の江東だけで独立するという考え方は、紀元前二二一年に中華を統一した秦の始皇帝以降の中国において、非常に斬新なものでした。

 このように、制度的・発想的に新しいことを目指す「革新」の魏と呉に対し、「漢」の「伝統」の固守を試みる蜀、という大まかな構図がありました。そしてその構図のもとに描かれた「漢」崩壊後の趨勢と、混迷の時代を生き抜いた刺激的で個性豊かな数多くの登場人物。それこそが『三国志』の基本要素であり、最大の魅力なのです。

 この『三国志』の世界について、後の時代に成立した『三国志演義』という歴史小説や、さらにその『三国志演義』をもとにした近現代にいたるまでに創作された小説、映像作品、ゲーム等により、三国時代の大筋や、曹操・孫権・劉備・諸葛亮ら主要人物の概要を、すでに把握されている方も多いと思います。私自身、こうして中国古代思想史の研究に携わるようになったきっかけは、高校二年生のときに吉川英治の小説『三国志』を読んだことでした。

 こうした日本人の三国志観に大きな影響をもたらした吉川英治の小説に限らず、日本ではNHKの人形劇しかり、横山光輝の漫画『三国志』しかり、幾度となく『三国志演義』を土台とした物語世界の受容がブームとなってきました。その影響は漢字文化圏のみならず、西洋文化圏にも及んでいます(映画『レッドクリフ』などはフランスでとくによく見られたようです)。
『三国志演義』は魅力的な作品ではありますが、あくまでも『三国志』や後世のさまざまな伝承、そして中国の近世のさまざまな文化的土壌をもとに成立した創作物です。もちろん、そこから『三国志』が受容されてきた社会のあり方、中国の民心、さらにそれを受け入れた日本の考え方が見えてきますので、『三国志演義』というフィクションそのものにも重要な意味があります。

 しかし、二十一世紀の現在、私たちは生きる指針を見出しにくい混迷の時代を生きています。戦後、高度経済成長期に生まれた科学技術に対する展望や信頼は、三・一一以降大きく揺らぎました。経済の閉塞感・停滞感はあらためて指摘するまでもないでしょう。三国時代もまた、四百年間続いた漢という国家、そしてその疑いのない指針とされていた儒教が潰れようとしていました。既成の価値観が大いに揺らぐ状況の中で、先人たちはどのような歩みをたどり、時代を切り開いていったのか。このような問いかけを行うとき、私はやはり後世のフィクションではなく、同時代人である陳寿の著した『三国志』の中にこそ、そのヒントが数多く隠されているのではないかと思います。

 それでは登場する主要な人物たちの足跡をたどりながら、陳寿の描いた『三国志』の魅力についてご紹介していきましょう。

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