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名著、げすとこらむ。

太田治子
(おおた・はるこ)
作家

プロフィール

1947年神奈川県生まれ。明治学院大学文学部英文科卒業。86年、母の思い出をつづった『心映えの記』で第1回坪田譲治文学賞受賞。NHK「日曜美術館」初代司会アシスタント。主な著書に『母の万年筆』『明るい方へ――父・太宰治と母・太田静子』(以上、朝日文庫)『万里子とわたしの美術館』『万里子の色鉛筆』(以上、朝日文芸文庫)、『恋する手』(講談社)、『小さな神さま』(朝日新聞社)、『石の花――林芙美子の真実』『時こそ今は』(ともに筑摩書房)、『星はらはらと――二葉亭四迷の明治』(中日新聞社)などがある。

◯『中原中也詩集』 ゲスト講師 太田治子
詩を書くことは生きること

 中原中也は、その三十年という短い生涯の中で、青春の切なさや人生の悲しみをうたった繊細な詩を三百五十篇以上も紡ぎ出した詩人です。

 中也の生活はいつも詩とともにあり、「詩とは何か」「詩人とは何か」を全身全霊でもって考え続けました。彼にとっては、詩をつくることイコール生きることだったのでしょう。詩作は詩作、生活は生活、と割り切るような器用さはまったくなかったと思います。詩人の中には、作品としては美しい詩を書いていても、実際にお会いすると「あれ、とても現実的な方だな」と思ったりする人がいるものです。中也の場合はそうしたことがなく、彼の書いた詩と彼の生き方がぴったりと合わさっている。いささかもその合わさり方にブレがないのです。ですから、彼の書いていることはすべて信じられるという気持ちになります。いわゆるきれいごとの詩ではないのです。中也の詩は技術的にも優れていると言われますが、私はそれ以上に、心というものを真っ直ぐに感じる詩だと思っています。

 私が最初に中也の詩を意識し始めたのは二十代の頃です。いろいろと勉強はしているけれど、なかなか進歩が実感できないな、これからどうなるのだろう、などと将来への漠然とした不安を抱えていたとき、「思へば遠く来たもんだ」(「頑是ない歌」)といったフレーズに触れ、ああ、中也さんも同じ思いをしていたのだな、と感じた記憶があります。「汚れつちまつた悲しみに……」も大好きでしたが、中也の詩をすべて暗記するほどのめり込んだというわけではありませんでした。

 中也の存在をより強く意識するようになったのは、三十代になり、作家の大岡昇平さんと出会ってからです。たいへん幸いなことに、私は大岡さんが最晩年を過ごされた町に住んでおり、ときどきお話をしたり、散歩をご一緒したりしていました。大岡さんは中也の友人であり、一九二九(昭和四)年に同人誌「白痴群」を創刊した同人仲間でもあります。大岡さんは中也のことが大好きでした。また、十代の中也にフランスの詩などの教養を授け、二十四歳で亡くなった詩人・富永太郎のことも大好きで、二人のことをよく話してくださったのです。そのお話しぶりからは、二人のことを強く思っていられることが熱く伝わってきました。特に中也を語るときには、涙ぐむような表情で話されていたことを今でもよく覚えています。

 中也と富永はともに若くして亡くなってしまいましたが、大岡さんは第二次世界大戦でのフィリピンへの出征を経て、戦後も長く作家として活躍されました。中也は今でこそ日本を代表する詩人として注目される存在ですが、最初から現在のように高く評価されていたわけではなかったそうです。大岡さんは、それは中也の詩が「わかりすぎる詩」だったからだろう─と話されていました。文学の世界にはいろいろと博識な方がいらっしゃいますが、そうした方たちの中には、「わかる詩」というものをあまり評価したくないという傾向があるというのです。難解なほどいい詩だ、という考えなのでしょうか。大岡さんの「悔しかったよ」という言葉を思い出します。

 大岡さんは終戦の翌年から二十年以上にわたって中也の評伝を少しずつ書いては発表し、一九七四(昭和四十九)年に『中原中也』という一冊の本にまとめられました。その間、中也の全集の編集も手がけられています。こうした活動もあって、中也の詩を見直す雰囲気もつくられていったのだろうと思います。

 この二〇一七年は中也生誕百十年、没後八十年の節目の年です。中也の詩に改めて注目が集まることになるでしょう。今回、この番組とテキストを通して、中也が遺した瑞々しい詩の数々をみなさんと読み、詩とは何かを考え続けた中也の人生を、改めて受けとめてみたいと思います。

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