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もっと「エミール」もっと「エミール」

今回のキー・フレーズ

動く物質はある意志をわたしに示してくれるのだが、一定の法則に従って動く物質はある英知をわたしに示してくれる。(中略)そういう存在者が存在するのだ。どこに存在するのが見えるのか、とあなたはきくだろう。回転する天空のなかにだけでなく、わたしたちを照らしている太陽のなかにも存在するのだ。わたし自身のうちにだけではなく、草をはむ羊、空を飛ぶ小鳥、落ちてくる石、風に吹かれていく木の葉のうちにも存在するのだ。

(ルソー「エミール」第四編 「サヴォワの助任司祭の告白」より)

とても美しいイメージで語られる「ある意志」「ある英知」。これは、ルソーが考えた神のイメージです。あらゆる存在を貫く「理法」のような存在としての神を基盤にした宗教は、「自然宗教」「理神論」と呼ばれています。ルソーは、全ての宗教に共通する根源がこのような「自然宗教」にあると考えました。

「エミール」第四編には、いささかバランスを失するかたちで、「サヴォワの助任司祭の告白」という長大な文章が挿入されています。若き日のルソーと、ある聖職者との出会いを描いた独立した作品ともいえるような体裁をとっています。それは聖職者の口を借りて語られるルソーの宗教論ともいえるもの。果たして、なぜルソーはこのような文章を「エミール」に挿入したのでしょうか?

講師の西研さんは、懐疑に陥りがちな青年期のエミールに「生きる意味の問い」への答えを与えるためだと解説してくださいました。番組でも少しだけ触れましたが、私はもう一つあるのではないかと思います。

ルソーが生きた当時のヨーロッパは、カトリックとプロテスタントの間で、凄惨な対立が繰り広げられていました。同じ神を信じるものたちの間で引き起こされる苛烈な弾圧、虐殺……ルソーはこうした事態に強い疑問をもっていたのではないかと思います。こうした不毛な宗教対立を乗り越える方法はないのか……そんな視点がこの「サヴォワの助任司祭の告白」に感じられるのです。

「サヴォワの助任司祭の告白」には、宗教を理性的に考えることはできないかというルソーの姿勢が貫かれています。「内面の光り」と呼ぶ理性の力によって、疑いようのない存在として「私」と外界の「物体」が存在するという前提から出発した助任司祭は、自然状態にある静止した物体が運動するには、何らかの意志が介在する必要があると考えます。ちょうど、静止した石は人間が拾って投げなければ動かないように。世界を見渡せば、天体は一定の法則のもとに運行しているし、全ての物質、物体は調和した秩序のもとに動いている。だとすれば、同じようにそこに何らかの意志や英知が働いているのではないか。そのような存在こそ、「神」と呼ばれる存在なのではないかと助任司祭は推論します。そして、あらゆる宗教に共通する基盤は、ここにあるのではないかと考えたのです。そして、誰もが理性によって認めることのできる、こうした「宗教の根本」さえはっきりさせればよい、という立場に立つのです。

サヴォワの助任司祭は、このような宗教論を展開するのですが、もう一つ疑問が残ります。助任司祭はこのような「自然宗教」を信じながらも、カトリックの司祭として日々まじめに、形式にのっとって儀式や礼拝を続けています。若き日のルソーは「こうした行為と、自らが信じる自然宗教との間に矛盾はないのか?」と疑問を投げかけます。助任司祭はこう答えます。キリスト教、イスラム教、仏教といった既存宗教の相互の違いは本質的なものではなく本来一つのものであり、固有の儀式作法の違いはその宗教が生まれた民族、国、土地などの違いから生じるものだ。人々はそうした儀式作法によって神に接しているのだから、それを本質的なものと考えるのは間違いだけれど、それが本質的でないからといって軽蔑したり否定したりすべきではない。自分はたまたまカトリックに属する人間だからカトリックの方式にのっとって儀式作法を真面目に実行しているだけで、既存の宗教の特殊性を尊重しながら、その特殊性を通じて、世界共通の宗教を信じているのだ……というのです。

ルソーは、「サヴォワの助任司祭の告白」で、全ての宗教に共通する基盤を明らかにすることで、それぞれの既存宗教が対立することなく、尊重しあえるような論理を提示しようとしたのではないかと、私は感じます。もちろん、現代の視点からみれば論理が荒いところもありますが、「自然宗教」によって宗教対立を乗り越えようとしたルソーの思想は、相次ぐテロや宗教紛争にさらされている現代の世界にも貴重な示唆を与えるものだと思います。

ですが、ルソーのこの思想は、彼の生きた時代には受け入れられることはありませんでした。「エミール」は当局によって禁書にされ、ルソーには逮捕状が出されて、フランスにも故郷スイスにも住めない状況に追い込まれてしまうのです。

一つだけ救いがあります。ルソーの宗教論は後世に巨大な影響を与えるのです。「エミール」を読んで衝撃を受けたカントは、やがてルソーの宗教論をベースに道徳哲学の主著「実践理性批判」を書くことになったのではないか、というのが西研さんの説です。カントは、「サヴォワの助任司祭の告白」の信仰箇条を踏まえて、「神の存在、自由意志の存在、魂の不滅は、理性によって合理的に証明できるものではないが、人間がよく生きようと欲する限り、それらを信じないわけにはいかなくなる、そういう種類の事柄だ」と考え、この論理を「実践理性の要請」と呼びました。カントの道徳哲学は、ルソーの思想をカント流に作り直したものではないかというのです。

ルソーの思想は、現代にも貴重なヒントを投げかけていると思います。異なる価値観や宗教対立が渦巻く現代。憎しみの連鎖を断ち切るためにも、互いの立場を尊重しあえるような、排他的ではない新しい論理をルソーに学びながら鍛え上げなければならない。「エミール」から学べるところは大きいのです。

アニメ職人たちの凄技

【第15回】
続いてスポットを当てるのは、
ケシュ♯203

プロフィール

ケシュ#203(ケシュルームニーマルサン)
仲井陽(1979年、石川県生まれ)と仲井希代子(1982年、東京都生まれ)による映像制作ユニット。早稲田大学卒業後、演劇活動を経て2005年に結成。NHK Eテレ『グレーテルのかまど』などの番組でアニメーションを手がける。手描きと切り絵を合わせたようなタッチで、アクションから叙情まで物語性の高い演出を得意とする。100分de名著のアニメを番組立ち上げより担当。
仲井希代子が絵を描き、それを仲井陽がPCで動かすというスタイルで制作し、ともに演出、画コンテを手がける。また仲井陽はラジオドラマの脚本執筆(ex.NHK FMシアター)も手掛け、奇妙で不可思議な町「田丁町(たひのとちょう)」を舞台とした連作短編演劇群『タヒノトシーケンス』を立ち上げるなど、活動は多岐に渡る。

ケシュ#203さんに「エミール」のアニメ制作でこだわったポイントをお聞きしました。

「エミール」は、ルソーの教育論を小説という形式で描いた作品ですが、今回アニメで表現するにあたって、ストーリーの起伏を見せるよりも、エミールに対するルソーの眼差しなど、空気感を表すことに重きを置きました。
 キャラクターの造形や背景のタッチは親しみがわきやすいようにデフォルメし、色彩は優しさを表すため淡く、ペン画のような線や模様は人の心を教育するデリケートさを表しています。

また、登場人物の口を借りて語られる教育論については、いかに物語の雰囲気を壊さず分かりやすく伝えるかという点に心を砕きました。
 抽象的な概念を表現する際にはいつもそうなのですが、説明をただそのまま絵にすると単なる図説になってしまいます。「絵が動くから伝えられる」というアニメならではの特色を生かし、例えば、転がる岩が公転する地球へと変化するなど、比喩を上手く使った演出にしました。

家庭教師としてルソーは時に厳しくエミールに接しますが、1歩下がって見たときにそこに愛情が見えれば嬉しいです。

ぜひケシュ#203さんの凄技にご注目ください!

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