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名著、げすとこらむ。

西 研
(にし・けん)
東京医科大学哲学教室教授

プロフィール

1957年鹿児島県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。京都精華大学助教授、和光大学教授を経て現職。『ヘーゲル・大人のなりかた』『哲学のモノサシ』『NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラ』『別冊NHK100分de名著 「幸せ」について考えよう』(いずれもNHK出版、「別冊」は島田雅彦・浜矩子・鈴木晶との共著)、『実存からの冒険』『哲学的思考』(ちくま学芸文庫)、『超読解! はじめてのヘーゲル「精神現象学」』(竹田青嗣との共著、講談社現代新書)など著書多数。

◯『エミール』 ゲスト講師 西 研
真に自由な人間を育てるために

十八世紀のフランスで活躍したジャン=ジャック・ルソー(一七一二~七八)は、近代の「自由な社会」の理念を設計した思想家です。フランス革命によって絶対王政が倒れ、封建的な身分制度が廃止されるのはルソーの死の十一年後ですが、ルソーはこの革命を思想的に準備したともいわれています。

今回ご紹介する『エミール、または教育について』は、『社会契約論』と同じ一七六二年に出版されました。『社会契約論』が自由な社会の「制度論」を展開したのに対し、『エミール』は自由な社会を担いうる人間を育てるための「教育論・人間論」を展開しています。この二冊はいわば車の両輪であり、二つで一体の書物だといえるところがあります。
ルソーの考えた「自由な社会」とは、平和共存するために必要なことを、自分たちで話し合ってルール(法律)として取り決める「自治」の社会でした。権力者が勝手な命令を押しつけてきたり、一部の人たちだけが得をする不公平な法律や政策がまかりとおったりすることのない、そんな社会です。
そういう自由な社会をつくるために、『社会契約論』でルソーは「一般意志」(皆が欲すること)という概念を提示しました。〈社会(国家)とは、構成員すべてが対等かつ平和に共存するために創られたものだ。だから、そこでの法律は、どんな人にとっても利益となること、つまり、皆が欲すること(一般意志)でなくてはならない〉。そうルソーはいっています。

人びとが集まって人民集会(議会)を開くときは、提出された法案についてそれが本当に皆の利益になるかどうか(一般意志といえるかどうか)を議論します。最終的には多数決で決めるのですが、その法の正当性は「多数が賛成したから」という点にあるのではなく、それが「一般意志である=皆にとっての利益である」という点にある、とルソーはいいます。つまり、いくら多数が賛成したとしても、一部の人に損害を与えるような不公平な法律には正当性はないのです。
この考え方に最初出会ったとき、ぼくはびっくりしました。「多数決の民主主義は嘘くさい。結局は、力のある者が多数をとって法律をつくるだけになる」。そんなふうに若いときのぼくは思っていたからです。だから、〈法律は一般意志でなくてはならない〉というルソーの考えには強く共感しました。しかし疑問もわいてきました。「人はまずは自分の利益を考えるもの。みんなの利益を考えるようになれるのかな」とも。
自由な自治の社会が成り立つためには、公共の利益を考え実現しようとする姿勢が必要です。自分の利益はもちろん大事ですが、他の人たちの言い分もよく聞いて〝自分も含めたみんなが得になるような〟ルールをつくっていく。そういう姿勢をもつ人間は、どうやったら育つのか。これは、ルソーの大きな思想的な課題でした。
ですから、教育論である『エミール』の目的の一つは、「みんなのため」を考えられる人間をどうやって育てるか、ということになります。もっとも、みんなのため、といっても自分を犠牲にして国家に尽くすということではなく、〝自分も含むみんなの利益〟をきちんと考える、ということです。

『エミール』の目的はもう一つあります。ルソーは、個人としての生き方の面でも、真に自由な人間を育てようとしました。しかしこれにも大きな困難があると考えていました。
〈文明が発達した相互依存的な社会のなかでは、人は自分を、名誉・権力・富・名声のような社会的評価でもって測るようになり、そしてまわりの評価にひきずりまわされる。それでは自由とはいえない。そうではなくて、自分の必要や幸福をみずから判断して「自分のために」生きられる人間こそが真に自由な人間だ〉。こうルソーは考えました。自分のため、といっても単に利己的な人間ということではありません。自分にとって必要なことは何か。また自分はどう生きたいのか。つまり自分の生き方についての価値基準をしっかりと「自分のなかに」もっているということです。

まとめてみましょう。ルソーが『エミール』で課題としたのは、「自分のため」と「みんなのため」という、折り合いにくい二つを両立させた真に自由な人間をどうやって育てるか、ということでした。この難しい課題に対して、この本は彼なりの答えを示しています。

ルソーの提示した、自由な社会と自由な生き方の構想は、隣のドイツでも大きな影響を与えました。「ドイツ観念論」といういかめしい名の哲学で知られるカントやヘーゲルはルソーの熱烈なファンでしたし、ヘーゲルの弟子筋のマルクスもルソーの愛読者でした。ルソーがいなければこれらの人たちは出てこなかった、といえるほど、ルソーの影響は近代の思想家たちに深い影響を与えたのです。
では、ルソーはもう過去の思想家なのでしょうか。決してそんなことはありません。
現代の私たちは、自分のなかに自分の生き方の基準をもつ、自由で自立した人間になっているでしょうか? いまの日本の子どもたちや若者たちは、空気を読むということに必死だといわれます。そのため「個性的」という言葉が、いまは悪口に、つまり「空気が読めないヤツ」ということの婉曲な言い回しになっているのだそうです。「俺はこれがしたい」「わたしはこれで満足だ」という、自分なりの基準をもって生きることはますます難しくなっているように思えます。
また「みんなのため」を考え実現できる、つまり自治できる人間は育っているでしょうか。ルソーがイメージしていたのは、対等に、お互いの都合や利害を正直に出し合い聞き合いながら、「どうするのがみんなのためにいちばん良いのか」を議論することでした。しかし「空気」を恐れながら生きるとき、人は自分の都合を口に出すことはできないでしょう。私たちの社会は人権と民主主義を柱とする憲法をもっていますが、部活やサークルや地方自治の場面など、いろいろなところでほんとうに民主的・自治的な場面をつくれているかといえば、首を傾げざるをえないと思います。
「自分のため」に生き、また「みんなのため」に生きる、そうした人間はどうやったら育つのか。今からおよそ二百五十年も前にルソーが提示したこの課題は、現代においてもまったく古びていないどころか、いまますます重要なものになってきていると思います。

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