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名著、げすとこらむ。

◯『ハムレット』ゲスト講師 河合祥一郎
「謎めいた最高峰」

『ハムレット』は、一六〇〇年頃にイギリスで書かれてから、四百年以上経ったいまもなお頻繁に読まれ、世界中で上演され続けている、シェイクスピア悲劇の最高峰です。
これは四大悲劇の最初の作品でもあります。四大悲劇とは、シェイクスピア後期の戯曲のうち、悲劇時代と呼ばれる一六〇〇~〇六年に書かれた『ハムレット』『オセロー』『リア王』『マクベス』の四つの悲劇を指します。有名な『ロミオとジュリエット』がこのなかに含まれないのは、初期の作品だからです。悲劇の他にも、シェイクスピアは喜劇や歴史劇、問題劇(喜劇だが観終わってすっきりしない劇)、ロマンス劇(荒唐無稽な物語劇)と分類される戯曲を、共作も含めておよそ四十作書いたとされています。
なかでも『ハムレット』は大変よく知られた戯曲ですが、これはおそらく一般に考えられているよりもさらに奥の深い作品です。そしてこの作品は多くの謎に満ちています。
なぜハムレットはぐずぐずと復讐を遅らせ、あっさりと仇をとってしまうことができないのか? なぜハムレットはオフィーリアに「尼寺へ行け」などと言うのか? オフィーリアを愛していないのか、愛しているなら、なぜあんなにひどい、冷たい仕打ちができるのか──。
『ハムレット』の謎は、他にも挙げればきりがないほどたくさんあって、今日にいたるまで多くの人々を悩ませてきました。『ハムレット』が「文学のモナ・リザ」とか、「演劇のスフィンクス」とか呼ばれてきた所以です。またその謎によって、『ハムレット』は数々の誤解も生んできました。ハムレットは優柔不断な青年だから、なかなか行動への決断ができないのだ──そんな誤解をしている人も多いのではないでしょうか。
誤解を解くためにはまず、この作品が復讐劇として始まりながら、後半はもはや復讐劇ではなくなるという複雑な構造をおさえておく必要があります。劇の焦点は、人が生きるとはどういうことかという問題に移ります。これはきわめて哲学的な劇なのです。
そもそもシェイクスピアはとっつきにくい、と思われる方もいらっしゃるでしょう。確かに、ほんの一言でさらりと言えそうなことを厖大な言葉で延々と語ったり、普通なら使わないような言い回しを使ったりするので、慣れないと驚かれるかもしれません。それはなぜかといえば、シェイクスピアの台詞は詩であり、ときおり日常の言葉である散文を混ぜ合わせながらも、ほとんどが韻文のリズム(韻律)で朗唱されるものだからです。
また、「シェイクスピア・マジック」ともいわれるように、いきなり時間や空間がワープしたりすることもあって、私たちが考えるリアリズムでは理解できない、つじつまが合わない現象も起こります。これを理解するためには四百年前のルネサンスの時代、シェイクスピアが活躍したエリザベス朝演劇の舞台についても知る必要があります。
シェイクスピア劇は西洋の翻訳劇なので、日本では新劇(近代演劇)の仲間だと勘違いされることも多いのですが、実はそうではなく、日本でいえば徳川家康の時代のものですから(シェイクスピアと家康の没年は同じ一六一六年です)、むしろ狂言の舞台に近いものでしょう。
そんなあれこれも含めて、これからこのミステリアスな最高峰の謎解きに挑んでみたいと思います。それは、なぜこの作品がこれほどまでに人々の心を摑むのか、という大きな謎を解こうとする試みともなるはずです。

河合祥一郎
(かわい・しょういちろう)
東京大学大学院教授

プロフィール 1960年生まれ。東京大学文学部英文科卒。東京大学大学院より博士号、ケンブリッジ大学よりPh.D取得。主著に『謎解き「ハムレット」――名作のあかし』(三陸書房)、『ハムレットは太っていた!』(白水社、サントリー学芸賞受賞)、『シェイクスピアは誘う』(小学館)、『シェイクスピア・ハンドブック』(共著、三省堂)ほか、翻訳にシェイクスピア新訳(角川文庫)ほか多数。戯曲に『国盗人』(白水社)、『家康と按針』(共同脚本)、文楽脚本『不破留寿之太夫』などがある。翻訳をつとめた舞台「ハムレット」(蜷川幸雄演出、藤原竜也主演)が、2015年1月~ 2月に上演される。

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