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名著、げすとこらむ。

◯「アラビアンナイト」ゲスト講師 西尾哲夫
多くの謎を秘めた物語

「アラビアンナイト」はまたの名を「千一夜物語」といい、洋の東西を問わず、年齢を問わず親しまれている文学です。その原形ができたのは九世紀ころといわれ、日本でいえば平安時代にあたります。そんなに古い時代にできた物語が、いまも変わらず世界中で愛されているのは稀有なことではないでしょうか。
世界を見回せば、アラビアンナイトと同時代に生まれた文学はたくさんあります。この日本にも少し時代はくだりますが、『源氏物語』や『伊勢物語』のような名作があります。しかし、アラビアンナイトほど有名でないのはいうまでもありません。また言えば、同時代の中東に生まれた文学も、アラビアンナイトだけではありません。にもかかわらず、なぜアラビアンナイトだけがこれほどビッグネームになったのでしょうか。
アラビアンナイトの成立を説明するのは簡単ではありません。今日目にするような千一夜分のお話が揃った大長編になったのは比較的最近のことで、その昔はもっと小規模な物語だった可能性もあります。さらに、どのお話がどんな順番で入っていたのかなどは、よくわかっていません。千一夜の「千一」とは、文字通りの1001 のことではなく、「非常にたくさん」という意味だという説もあります。アラビアンナイトは多くの謎を秘めた文学なのです。
アラビアンナイトは十八世紀にフランス人によって見出されるまでは、中東でもそれほどポピュラーではありませんでした。むしろ埋もれていたふしがあります。ではなぜ近代になって急に注目されたのかというと、このころヨーロッパ列強の帝国主義が中東世界の植民地化をもくろみはじめたことと関係があります。アラビアンナイトは国際的な力学の中で、征服者が被征服者を理解するためのツールとして使われたのです。
もちろん、物語そのものの魅力が西洋人をとらえたということもありますが、一筋縄ではいかない要因がからみあって、アラビアンナイトは「世界文学」として育っていったのです。
現在、アラビアンナイトを生み出した中東世界では、民主化革命や紛争が頻発し、シリアやエジプトなどアラビアンナイトと関わり深い国々が、混沌とした予断を許さない状況に陥っています。人命が失われたというニュースが入ってくるたびに、胸が痛みます。
いまや中東が“月の砂漠”の世界だと思っている人はいないでしょう。しかしながら、日本人にとってはまだまだ遠い国であり、誤解や偏見抜きに理解できている人はあまり多くありません。その点においても、いまアラビアンナイトを再読する意味はあると私は考えます。娯楽的な夢物語だと思っている方も多いかもしれませんが、けっしてそんなことはありません。アラビアンナイトにはイスラームの人びとが歴史の中で培ってきた文化や宗教観がたっぷりと込められていますし、すぐれた交易民であったゆえのグローバルな精神も随所に垣間見ることができます。多少大袈裟に言うならば、この物語の中には、現在の東西文明の衝突を解決するための手がかりも秘められているかもしれないのです。
シナイ半島の遊牧民の研究をしてきた私が、アラビアンナイトの世界に深く入り込んで、長い月日が経ちました。そのおもしろさにとりつかれていくつか本も書き、二〇一一年には子どもたちに向けてやさしく訳した『子どもに語るアラビアンナイト』(こぐま社)も出版しました。
この本を作るとき、私にはちょっとした思い入れがありました。それは、ここに書かれている物語から「教訓」のようなものを得ようと思わないでほしいという気持ちです。などと言うと語弊があるかもしれませんが、これは嘘いつわりのないところで、ただお話としてのおもしろさを純粋に味わってほしいと思ったのです。じっさい、アラビアンナイトは「人間はかくあるべきだ」とか、「世の中はこうあるべきである」といったことを言わないところに真骨頂があるのです。
それは楽天的とか享楽的とかいうものとはまったく位相の異なるもので、だからこそ、アラビアンナイトは世界文学になりえたのではないかと思うのです。

西尾哲夫(にしお・てつお)
国立民族学博物館教授

プロフィール 1958年、香川県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。文学博士。言語学・アラブ研究専攻。アラブ遊牧民の言語文化の研究やアラビアンナイトをめぐる比較文明学研究に従事。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助手、同助教授を経て、現在、人間文化研究機構国立民族学博物館民族社会研究部教授、総合研究大学院大学文化科学研究科教授。主な著書に『世界史の中のアラビアンナイト』(NHK出版)、『子どもに語るアラビアンナイト』(こぐま社)、『アラビアンナイト――文明のはざまに生まれた物語』(岩波新書)、『図説アラビアンナイト』(河出書房新社)、『ヴェニスの商人の異人論』(みすず書房、近刊)などがある。

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