「100分de名著」100シリーズ記念対談
「名著を100冊読んだら人生変わっちゃうかも?」
   伊集院光さん × プロデューサーA

8月放送のエンデ「モモ」のシリーズで、2011年にスタートした「100分de名著」がついに100シリーズ目を迎えました。そこで、歴代もっとも長く司会を務めた伊集院光さんと同じく歴代もっとも長くプロデューサーを務めたAが、裏話を交えながら100シリーズを振り返り、外からでは見えにくかった、番組の魅力の源に迫る対談を企画しました。前後編でお送りします。ぜひご一読ください。(構成:仲藤里美)
※写真は、対談開始前の約1分間ほどの時間で撮影したもので、対談本編は、ソーシャルディスタンス、換気、消毒などに十分な配慮をして行いました。

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  • 後編

「見栄を張るな」と自分に言い聞かせていた

プロデュ
ーサーA
(以下A)
「100分de名著」が、今年8月放送の『モモ』で100シリーズ目を迎えました。伊集院さんには2012年からこの番組の司会を務めていただいていますが、最初に出演が決まったときのことを振り返っていただけますか。
伊集院
司会を引き受けることになって、最初に決めたのが「いわゆる読書家でもなんでも無い僕が理解できることを基準に番組を作れば、どんな視聴者の方でも、ついてきてくださるはず」ということで「僕はそのための基準をやろう」ということでした。文学に精通している人でなくても、全然知識のない人でもわかるような番組にしたかったんです。
だから、収録のたびに「見栄を張るな」って自分に言い聞かせてましたね。つい、恥ずかしくて、わかったふりをしてしまいそうになるんだけど、それは絶対にやめよう、と毎回誓いを立てて向かっていました。
当時は私もまだプロデューサーではなくて、一視聴者の立場で見ていたんですけど、そこがすごいなと思っていました。普通、テレビに出る人ってどうしても「よく見せよう」と自分を飾る部分が出てきてしまうんですけど、伊集院さんにはまったくそれがなかったんです。
伊集院
いやあ、よく見せたいという気持ちは僕にもあります。けれど、文学に関する知識量が少なすぎて、背伸びしたってどうせどこかで絶対にボロは出る。それなら分からないことは正直に「分かりません」って言おうと。
それができたのは、毎回番組に出てくださる講師の先生方が、僕がどんなに低いレベルの質問をしても、決して嫌な顔をせずに答えてくれたからでもあります。本番中突然思いついたことをどんどんぶつけてしまうんですが、皆さん、全然動じずに受け止めてくださるんですよね。
私がプロデューサーとして講師を選定するときの一番の基準も「伊集院さんがどんなボールを投げても受け止めてくれる人」です。びっくりするようなボールが飛んできても、どんな話が出てきても、「よくぞ投げてくれました」「それいいですね」と面白がってくれるような懐の深さのある人。いわば、伊集院さんにとって「揺さぶりがいのある人」。そういう人こそが、実は研究者としても優れているんだと思うんです。
伊集院
面白がってもらえるというのは、講師の先生方の立場だと、質問してくるのも知識のある人なわけで、そういう人だったら絶対に聞いてこないだろう、という質問が出てくるのが新鮮ということなんでしょうね。
たとえばシェイクスピアが専門の先生の解説に対して「それって本当ですかね、僕の身の回りの男と女の関係だと、、、」なんて言っちゃった。シェイクスピアに関する高名な先生が相手にする人もシェイクスピアの勉強をかなりしているわけで、先生の解釈に対して疑問を持ったり、反論したりなんて絶対にしないじゃないですか。僕はそこがよく分かっていないから軽口叩いちゃうんですけど、それを逆に喜んでもらえたりして(笑)

新たな解釈が生まれた『ハムレット』

さて、シリーズ100回の中でも特に印象的だった回を振り返っていきたいのですが、今、シェイクスピアの話が出たので、まずはそこから……。2014年12月に、英文学者の河合祥一郎先生を講師にお呼びして『ハムレット』を取り上げたのですが、あの回は私にとっても一つのターニングポイントになりました。
私は収録をモニター越しに見ていたんですけど、伊集院さんの話を聞いていた河合先生の顔が、ある瞬間にさーっと青ざめるのが分かったんです。主人公ハムレットの伯父であるクローディアスが、ハムレットの父を殺した罪を懺悔するシーンについて話していたときでした。
祭壇に向かって懺悔するクローディアスの姿を見つけたハムレットは、今こそ父の仇を討つチャンスだと剣を振り上げるのですが、当時のキリスト教の考え方では、祈りの最中に殺したのでは相手を天国に送ることになってしまう。それで結局、その場では殺さずに剣を収めるんですね。しかし、当のクローディアスはその後、「心の伴わぬ言葉は、天には届かぬ」とつぶやく。これは、俺は本気で懺悔なんてしていないのに、そんな気持ちが天に届くわけないだろう、という意味である、つまり舌を出して「なーんちゃって」と言っているんだ、というのが従来の解釈で、河合先生もそう解説してくださったんです。
ところが伊集院さんは、それに対してまったく違う解釈を示された。「僕は、本音を言った後に照れ隠しで『なーんちゃって』と言っちゃうことがよくある。もしかしたらクローディアスも『こんな大罪を犯した俺が懺悔で許されていいわけがない、天国に行っていいわけないじゃないか』と自己否定するような気持ちで、真摯に『天には届かぬ』と言っているんじゃないか」とおっしゃったんですね。
河合先生の顔色が変わったのは、そのときでした。そして「すごい! ちょっと目が覚めてしまいました」と。こんな解釈は聞いたことがない、かつこれは「あり」だと思う、とおっしゃったんです。
伊集院
あれは本当に嬉しかった。まぐれ当たりなんだけど「そういう考え方は面白い!」って。
「この解釈で論文が1本書けるかもしれない」とまで言っておられましたね。日本のシェイクスピア研究の第一人者で、『ハムレット』のこれまで出た翻訳のすべてに目を通しておられるという河合先生が、新たな読解の可能性を伊集院さんの指摘で発見した。まさに「化学反応」が起きたと思いました。この場面は編集段階でカットせざるをえなかったのですが、忘れられない瞬間です。
伊集院さんはラジオなどでいろんな経験をされているからか、とにかく引き出しがたくさんあるんですよね。それで、すごく難解な本の内容を分かりやすくたとえて説明したいけれど、なかなか想像が及ばない…というときに、ずばっとはまるエピソードなんかを引き出してきてくれる。そのときの快感がすごくて「いや、よくぞ言ってくれました」という感じです。
伊集院
不思議なんですけど、打ち合わせでは全然思いつかなかったことが、本番になって講師の先生のお話を聞いて、解説のアニメを見て、朗読を聞いて……という中で、ぽんと出てくるんです。一つ一つのパーツの完成度が高い。

知と無知の「化学変化」こそが面白い

伊集院
先日収録を終えたばかりの100シリーズ目『モモ』(2020年)でも、同じようなことがありました。河合俊雄先生と時間泥棒である「灰色の男たち」についてのお話をしていたときに、僕がふと「これって現代で言えば、ある店の料理がおいしいかどうかというときに、自分の感覚より『食べログ』の点数のほうを信じる、みたいなことですよね」と言ったんです。 これも、打ち合わせでも全然出なかった話なんですけど、河合先生はすごく面白がってくれて。「無知」と「知」のぶつかり合いによって生まれる化学反応みたいなもので、そういうときはすごくやりがいがありますね。
でも、実は番組第一回の前の打ち合わせでは台本に、僕がこういうことを言うだろう、言ってほしいということがそれなりに書いてあったんですよ。それがすぐに減っていって、今では全くなくなっちゃいました。
多分、台本どおりにやろうとする伊集院さんが窮屈そうに見えたんでしょうね(笑)。今では、伊集院さんが話す部分は、台本には「感想」としか書いていなくて、「こんな感想を言ってください」という指示がほとんどありません。初めて台本を見た人はみんなびっくりするみたいです。
伊集院
一番きっちり書かれているところで「このシーンは何を表現しているかを聞いてください」とか、そのくらいですね。
もちろん、多分こういうことを言ってくれるだろう、という想定くらいはあるんですよ。でも、最初から決まっているとおりに進んでいくんじゃつまらない、という思いがあって。プロデューサーってどうしても自分の思うように色を塗って番組を作ろうとしがちなんですけど、それじゃ面白くないんですよ。それこそ「化学変化」が起きて、予測もしていなかった結末が得られた作品のほうが素晴らしい出来になるんです。
そう思うようになったのは、この番組でレヴィ=ストロースの『野生の思考』(2016年)をやったことがきっかけです。講師の中沢新一さんが、レヴィ=ストロースが言っているのは、作り手が完全にコントロールして型にはめようとしたものはつまらないということだ、と解説してくださったんですね。たとえば陶芸家なら、土の一番いいところを引き出して作品を作ろうとする。そんなふうに、素材の中に眠っているものを引き出してこそ素晴らしいものができるんだ、というお話でした。
それを聞いて、テレビも同じじゃないか、もともと出演者が持っているものを最大限に引き出してこそ、プロデューサー冥利に尽きるようないい番組ができるんじゃないか、と考えるようになって。そこから自分の働き方そのものが変わってしまったんです。
伊集院
わかります。本の内容と共鳴してしまう感覚、僕も何度も経験しました。

『変身』は「引きこもりの話」だった

伊集院
僕がすごく印象に残っているのは、カフカの『変身』(2012年5月)です。この本のことは以前から知ってはいたけれど、ただの「わけわかんない話」という位置づけだったんですよ。「朝起きたら虫になってた」と言われても、何それ? という感じですよね。
でも、講師の川島隆先生の話を聞いて、その印象がまったく変わってしまいました。川島先生によれば、原文で使われている「虫」という単語は、日本語では「害虫」とも訳されるけれど、語源をたどると「役に立たないもの」という意味もあるんだそうです。「益虫」の反対ですね。役に立たない方の虫。そして、著者のカフカは執筆当時、仕事などで強いストレスを抱えていた。虫という「役に立たないもの」になることで、仕事に「行きたくても行けない」状況を作り出したいという願望がこの物語に表れたのではないかというのが、先生の解説でした。
それを聞いたときに、急に「ああ、そうか」と腑に落ちたんです。僕は中学校まで生徒会長をやるような優等生だったんですが、高校生になったある日、急に「行きたくない」と思うようになって、そこからまったく学校に行けなくなっちゃったんですね。その引きこもっていたときの感覚、世間とどんどん距離が開いていく感じとか、家族からもだんだん邪魔者扱いされていくあの感じとかががはっきりと思い出されて、「そういう話か!?」と思いました。
これも私は一視聴者として見ていたんですが、今、伊集院さんの中で急にドライブかかったな、と感じた瞬間がありました。
伊集院
これは俺の話だ! と思った瞬間ですね。
実はこれは引きこもりの話だった、となった瞬間に、『変身』という名著が一気に伊集院さんの中でクリアになったんだと思います。これがこの番組の面白さなんだな、とあのときに感じましたね。

この番組は、「ヤバい」ことまで話してしまう!?

伊集院
この『変身』のときだけじゃなくて、振り返るとこの番組では僕、かなり個人的な、それヤバいんじゃない? ということまで話しちゃってるんですよね。よく、深夜ラジオ番組ではズバズバ話しててもテレビではいい子になっちゃうよね、みたいなことを言われるんですが、それでいうとEテレのこの番組なんて、一番「いい子」になってもおかしくないはずなんですよ。でも実際には、深夜のラジオ番組でも言えないような本音をここでしゃべっちゃってる気がします。
それで思い出すのは、スタニスワフ・レムの『ソラリス』(2017年12月)ですね。惑星ソラリスの表面を覆う海は、その人がずっと封印していた記憶を読み取って実体化させる力を持っていて、主人公のもとにも自殺してしまったかつての恋人の姿が現れる。作中で、それは人が心の奥底に押し込めていたひそかな願望、自分でも見たくない過去の恥ずかしい欲望が形を取ったものなのだ──と説明されるのですが、その話をしていたときに、伊集院さんが自分のことを話し始めたんですよね。
伊集院
学校に行けずに引きこもっていた高校のとき、僕は「世の中の何もかもなくなればいい」と思っていて、毎晩布団の中で「巨大な山羊の化け物が世の中をみんな食べちゃえばいいんだ」と妄想していたんですよ。ソラリスの海は「誰にも言えない、心の底にうごめく妄想」を実体化すると言うじゃないですか「僕なら巨大な羊が現れますね」って、先のくだりを話し始めたんですよ。「なんで山羊かといえば、引きこもりの頃、自分の姿が大嫌いになって、家中からありったけ探した自分の写った写真を、毎日荒川遊園地の山羊に食べさせに行っていたからなんです!」って、こんなどうかしてる話、深夜のラジオでもなかなかできないですよ(笑)。
そういえば今回の『モモ』でも、主人公のモモの「聴く力」の豊かさについて話していた場面で、自分は最近ラジオパーソナリティとして、「聴く力」を見失っていたかもしれない、という話をしました。僕はいつのまにか、面白いエピソードを人に聞かせて感心されたいという意識のほうが強くなっていて、人の話を聴こうとしなくなっていた気がする、モモのような、「この人は自分の言いたいことを代弁してくれている」と思ってもらえるようにしようという意識を失っていたんじゃないか……と話したんですよね。TVカメラの前で、そんなふうに自分の弱点をさらけ出してガチで反省したりって、まあ恥ずかしいことですよ。僕も、他の番組では絶対に言わないと思います。
そうでした。「俺、今日はもうこのまま家に帰って、自分のことをじっくり反省したいです」ともおっしゃってましたよね(笑)。

人の人生に影響を与える番組

伊集院
反省といえば、昨年やった『自省録』(2019年4月)も印象深いです。僕は最初、単なる名言集みたいな本かなと思っていて、「トップに立つ人間はこうすべきだ」なんて、説教じみたことをかっこつけて言いやがって、理想を言うだけなら誰でもできるよ、くらいに考えていたんですよ。
そうしたら、講師の岸見一郎先生が、著者のマルクス・アウレリウスは、これを出版する気なんかまったくなかったんだ、と教えてくれたんです。本人は、「自分はこうありたいのにできていない」という、まさに「自省」を、ただ自分にむち打つためだけに書いていたにすぎなかった。それをたまたま発見した人が勝手に出版しちゃったんだ、という話を聞いたときに、本の見え方がまったく変わりました。
普通に読んでいると、「何きれいごと言ってんだ、こんなことできるわけないだろ」という感じの内容なんですよね。それが、自分の限界に気づいた著者が、ひたすら「このままじゃ駄目だ」と自分を追いつめながら書いた本だ、と言われた瞬間に、「すごい本だ」と思いました。
伊集院
そこから、僕は自分で「自省録」を書くようになったんですよ。家に帰って、「今日こういうことがあったけど、本来はこうすべきだった」みたいなことを書くんです。今はじめて話しましたけど(笑)思いっきり影響を受けた本ですね。
影響を受けたという点では、めちゃくちゃびっくりしたのが神谷美恵子『生きがいについて』(2018年5月)のとき。放送した数カ月後に、当時伊集院さんと一緒に司会を務めてくれていた島津有理子アナウンサーがNHKを退職したんですよね。その理由が「医師を目指すから」で、それを決意したきっかけが「番組で『生きがいについて』を読んだこと」だった。
本当にびっくりしましたよ。1年目の新人ならともかく、どこの部署でも引っ張りだこの花形アナウンサーだったんですから。
伊集院
プライベートではお子さんもいるし、そんな方が医大に入り直すというんですから、すごい決意ですよね。
あのとき、少し怖くなりました。もちろん、テレビが人にいろんな影響を与えているということは分かっているつもりだったのですが、こんな身近にいる人に人生を変えるくらいの決断をさせるだけの威力がこの番組にはあるんだということに、改めて気づかされた。同時に、そのことをもっと自覚しないといけない、並大抵の覚悟では取り組めない番組だな、と思いました。

新型コロナ禍と『全体主義の起源』

伊集院
ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』(2017年9月)も忘れられない本です。ナチスドイツなどによってもたらされた「全体主義」がどのように生み出されたのかがテーマなんですが、これは、僕にとっても長い間大きな謎だったんですね。ヒトラーが選挙で選ばれて独裁者になり、最終的にはユダヤ人虐殺にまで至るのを多くの人たちが支持した。そんなことがどうやったら可能だったのか、ずっと不思議だったんです。
それが、『全体主義の起源』を読めば読むほど「ああ、これはありえるな、ナチスドイツみたいな国は、簡単にできあがるんだろうな」と感じるようになって。アーレントは、ナチスドイツが全体主義に向かっていく過程で、ユダヤ人という「敵」を作り、国家に対する不平不満をそこに向けさせたことを指摘していますけど、同じようなことって今もたくさんあると思うんですよ。
それは何も、政治だけのことじゃなくて。僕自身、タレントとして人気を得るために、無意識のうちに同じようなことをやっていたかもしれないなと。
ああ、分かります。
伊集院
僕がTBSのラジオ番組で人気が出たのは、多分それまで番組を持っていたニッポン放送を直球で批判し続けたからなんですよ。業界トップを走っている局ですから、もともと多くの人たちがそこに対してある種の「いらつき」みたいなものを抱えている。それをうまく突いて「敵」を作ることで人気を得たんだと思うんですね。ま、この本のことも知らないわけで、無意識になんですけど。
その構図が分かると、今のコロナ危機の中で起こっていることも違って見えてきます。たとえば、世界のあちこちで、政治家が感染拡大を「ある都市のせい」にして煽ることで、他の地域からの求心力を上げるという事例が報告されていますよね。
伊集院
「若者が動き回るから感染が広がるんだ」とかね。多数の年長者は「今の若い奴はけしからん」って思っているものです。そのモヤモヤをうまく利用されている気がします。
他にも、休業要請に従わない店舗の名前を公表するとか、「夜の街」での感染拡大を強調するとか、そういうニュースもいろいろ報道されました。
伊集院
反感を煽って人気を得るというやり方は、国や自治体のトップが絶対にやってはいけないことだと思うんです。でも、それによって支持が集まるのは事実だから、「敵」を作る手法を使っている政治家は少なくないと思います。本能的になのか、学習してやっているのかは分かりませんが。
本当に、世の中の見え方を変えてくれる本ですね。
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