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もっと夜と霧

<「夜と霧」(旧版)霜山徳爾訳 みすず書房 より抜粋>

スープの桶がバラックに持ち込まれた。(中略)私の冷たい両手は熱いスプーンにからみついた。私はがつがつと中味を呑みこみながら偶然窓から外を覗いた。外ではたった今ひき出された屍体が、すわった眼を見開いてじっと窓から中を覗き込んでいた。二時間前、私はこの仲間とまだ話をしていた。

ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。

各個人がもっている、他人によってとりかえられ得ないという性質、かけがえないということは、——意識されれば——人間が彼の生活や生き続けることにおいて担っている責任の大きさを明らかにするものなのである。

愛する人間が生きているかどうか——ということを私は今や全く知る必要がなかった。そのことは私の愛、私の愛の想い、精神的な像を愛しつつみつめることを一向に妨げなかった。もし私が当時、私の妻がすでに死んでいることを知っていたとしても、私はそれにかまわず今と全く同様に、この愛する直視に心から身を捧げ得たであろう。

苦悩の意味が明らかになった以上、われわれは収容所生活における多くの苦悩を単に「抑圧」したり、あるいは安易な、または不自然なオプティミズムでごまかしたりすることで柔らげるのを拒否するのである。われわれにとって苦悩も一つの課題となったのであり、その意味性に対してわれわれはもはや目を閉じようとは思わないのである。

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