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名著、げすとこらむ。

◯「徒然草」ゲスト講師 荻野文子
「何者でもなかった人」の観察眼

「あなたが読んでみたい日本の古典文学は何ですか?」というアンケートをとると、必ず上位に入ってくる人気の書——それが兼好法師の『徒然草』です。とくに会社員や中高年の方に人気があって、スピーチなどに引用されたり、職場での教育に使われたり、あるいはまた、座右の銘として、ご自身の生き方の参考にされたりすることが多いようです。
でも、ちょっと待っていただきたいのです。『徒然草』は「人生論」のように思われていることが多いのですが、この本はあくまでも随筆であり、兼好という人が、自分の目に映る日常の断片について、その時々の意見や感想を述べたものに過ぎません。
また、兼好という人は、貴人でもなく、名僧でもなく、いわゆる人生の勝ち組の人ではありません。負け組とまではいいませんが、出世コースからはまるではずれた人でした。二条流の和歌四天王の一人といわれていますが、当時の歌道の第一人者までのぼりつめたわけでもありません。何者でもない、あるいは、何者にもなれなかった、いわば好事家です。
にもかかわらず、なぜ『徒然草』は人生の達人の書のように見えるのでしょうか。それは、この人が何者でもなかったゆえに、何ものにも耽溺しない透徹したまなざしをもって、世の中を見通すことができたからだと思います。そんな大いなる逆説から名著となったのが『徒然草』なのです。
実際、書いた当時には注目されず、江戸時代に書かれた注釈書によってその存在が知られることとなり、陽の目を見ることができましたが、何者でもない者によって書かれたブログのような随筆ですから、埋もれていてもおかしくありませんでした。現在、私たちが『徒然草』を名著として読めるのは、まったく奇跡的なことなのです。
一般に、日本人は肩書きや権威に弱いところがあります。大物政治家とか、文豪とか、著名な学者とか、名医とか、宗教の権威といった、いわゆる偉人が著したもの、あるいは、権威の後ろ盾を得て書かれたものをありがたがる傾向が強いと思います。その意味では、『徒然草』のような本が名著として何百年も読み継がれるのは珍しいケースともいえます。
兼好の世の中を見るまなざしがよく表れているのが第七四段です。

蟻ありのごとくにあつまりて、東西にいそぎ、南北にわしる。……いとなむところ何事ぞや。生しやうを貪むさぼり利を求めてやむ時なし。(第七四段)
(蟻のように集まって、東へ西へと急ぎ、南へ北へと走る。……忙しそうにしているのは何事なのか。生命の続くことを貪り求め、利益を求めて、とどまる時がない)

この狭い社会の中で、何をセコセコ生きているのかといわんばかりの——これが、兼好の目に映る私たちの姿です。
平安・鎌倉の名随筆として、『徒然草』と並び称されるものに、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』がありますが、私はそれぞれを次のようにイメージしています。「兼好は蟻を高みから見ている人」「清少納言は蟻の一匹として周囲を見まわしている人」「鴨長明は蟻への関心を捨てた人」。高みといってもそれほどの高さではなく、ほどほどの距離と角度のところにみずからの立ち位置をもって、人間社会を見下ろした人。それが兼好です。
兼好「法師」という言い方が物語るように、兼好は出家人です。高校生の頃、私は兼好を抹香くさい偉ぶった人だと思っていました。また、『徒然草』といえば「無常観の書」といわれていましたから、お説教じみた本に違いないと思い込んでいたのです。しかし、大人になったのちに読み直して、その合理的な思考に驚きました。そして、時代にふりまわされない確固たる価値観に大きな憧れを抱きました。
極度の情報化社会の中で、また、閉塞した未来に向き合いながら、現代の私たちはまことに忙しなく生きています。目先のことにとらわれ、複雑な人間関係に煩わされ、将来の心配をしながら、せせこましく暮らしています。だからこそ、いま、私はみなさんに『徒然草』を読むことをお勧めしたいのです。
というのも、兼好の生きた頃もけっしてよい時代ではなく、動乱の気配がたちこめ、価値観が揺らぎ、明日はどうなるかわからないような世の中でした。すでに武家の時代で、兼好のような下級公家はまったく浮かばれません。そのような中にあって、兼好はじつに飄々と人生を送りました。「人は人」「自分は自分」——。世知辛い世の中で自分らしさをまっとうし、とても身軽に生きたのです。それは、現代社会にもフィットする有様ではないかと思います。
『徒然草』第二一一段に、こうあります。

人は天地の霊なり。天地はかぎる所なし。人の性しやうなんぞことならむ。寛大にしてきはまらざる時は、喜怒これにさはらずして、物のためにわづらはず。(第二一一段)
(人間は天地の間で最も霊妙なものである。天地には際限がない。人間の性質もどうしてこれと異なることがあろうか。心が寛大で際限なくおおらかな時は、喜びも怒りもその心を妨げることがなく、外的なもののために心が煩わされることはないのである)

蟻のように右往左往していた人間も、兼好の手にかかると、このようなスケール感のある存在に変わってしまいます。
その変幻自在で融通無碍な心の持ちようを、いま改めて学んでみたいと思います。

荻野文子(おぎの・あやこ)
予備校講師・文筆家

プロフィール 兵庫県西脇市生まれ。上智大学文学部国文科卒業。編集プロダクション勤務、家業の書店経営を経験したのち、1985年に予備校講師となる。ヒューマンキャンパス、代々木ゼミナールを経て、89年より東進ハイスクール講師となり、「古文のマドンナ先生」として知られる。主な著書に『ヘタな人生論より徒然草』『ヘタな人生論より枕草子』(いずれも河出書房新社)、『マドンナ先生古典を語る』(学研M文庫)、『さみしい夜に読むことば』(青草書房)、『千年の恋心〜源氏物語を彩る女君たち』(ビジネス社)、『英語対訳で読む美しい日本の「こころ」』(実業之日本社)、参考書として『マドンナ古文』などシリーズ8冊(いずれも学研教育出版)ほか多数ある。

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