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名著、げすとこらむ。

◯「幸福論」ゲスト講師 合田正人
いつもポケットに『幸福論』

年末になると、本屋の店頭に平積みにされる本があります。
過ぎ去ろうとしている年を振り返り、来年は少しでもよりよい年にしたいという思いにうながされて、道行く人はきっとその本を手に取るのでしょう。その本とは、今回のテーマであるアランの『幸福論』です。
「えっ、初めて聞いた」という方も多いかもしれません。とくに著者アランについては、別の「アラン」を思い浮かべられるのではないでしょうか。俳優のアラン・ドロン、F1レーサーのアラン・プロスト、三つ星シェフのアラン・デュカス……などなど、ファースト・ネームに「アラン」のつく有名人は数多くいますが、この『幸福論』の著者は、自分のペンネームを姓とも名ともつかない、ただの「アラン」としたのです。
では、そのアランによって記された『幸福論』とは、いったいどのような本なのでしょうか。
人は誰しも「不幸」に思い悩み、「幸福」を求めてきました。それに応えるかのように古今東西、さまざまな「幸福論」、あるいは「幸福」にまつわる本が世に出されてきましたが、なかでもスイスのカール・ヒルティ、イギリスのバートランド・ラッセルのそれと並んで「世界三大幸福論」の一つと称されるのが、アランの『幸福論』です。
どんな本かというと、たとえるならば、「寒い夜に湯気を立てている一杯の温かいスープのような書物」です。生きづらさを感じさせるこの世の中に、まさに一筋の光を当ててくれる本ではあるのですが、もちろん、「これを読めば幸せになれる!」などといったハウツー的な内容が書かれているわけではなく、れっきとした哲学に関する書物です。
ただ、邦題では『幸福論』と訳されてはいますが、フランス語の原題からすると、論文のような硬さの「幸福論」というよりも、「幸福小咄」「幸福のコラム」といった軽い読み物を意味していて、けっして難解な哲学書というわけでもありません。さまざまな生活の場面における幸福についての断章(フランス語で「プロポ」と言います)が一編につき便箋二枚程度、全部で九十三編に分けて書かれています。それぞれが独立した内容なので、最初から順に読んでもいいですし、興味のあるところから拾い読みしてもかまいません。そういう気軽な、でも「いつもポケットに」と思わせたくなるところが、この『幸福論』にはあるのです。
アランの『幸福論』は、いわゆる観念論ではなく、あくまで日常生活に立脚して幸福への指針を導き出した、文学的にも優れた名著として広く読まれてきました。プロポのなかには、古いものでいまから百年以上も前に書かれたものもありますが、現代のさまざまな困難に直面する私たちにも役立つ普遍的なヒントがたくさんちりばめられています。
ただ、アランの書き方の特徴でもあるのですが、ある意味で読みにくいなと感じさせる部分があります。それは、彼が何気ない日常的な表現を使っているようでありながら、その背後に、非常に広くて深い哲学の伝統を凝縮して埋め込んでいるからです。必ずしもそうした背景までを読み取る必要はありませんが、デカルトやスピノザなど、アランが強く影響を受けた哲学的思想を味わいながら読んでみると、また一味違った楽しみ方ができると思います。
故国フランスでは百二十版以上もの版を重ね、いまなお市民に愛されつづけている『幸福論』。アランに師事した小説家アンドレ・モーロワが遺した言葉に、「私の判断では、(アランの『幸福論』は)世界中でもっとも美しい本の一つである」というものがありますが、その所以は、選び抜かれた言葉一つ一つの美しさにあります。意味深い内容が、すっと心に入ってくる表現の数々——。たとえば、こんな言葉があります。

よい天気をつくり出すのも、悪い天気をつくり出すのも私自身なのだ。(68)

こうした自分の心に響いたアランの言葉を抜き出してみても、自分だけの大切な座右の銘になると思います。みなさんも、『幸福論』による「幸福への道」を、旅してみてはいかがでしょうか。

合田正人(ごうだ・まさと)
明治大学文学部教授

プロフィール 1957年、香川県に生まれる。一橋大学社会学部卒業。パリ第8大学哲学科留学。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。琉球大学講師、東京都立大学人文学部助教授を経て、明治大学文学部教授。哲学研究者。専攻は19、20世紀フランス・ドイツ思想、近代ユダヤ思想史。「生理学」「心理学」「精神分析」「社会学」など19世紀を通じて醸成された人間科学の諸相を分析し、そこに孕まれた諸問題の現代性を考察している。加えて17世紀以降のユダヤ人問題とも取り組んでいる。著書に『レヴィナスを読む<異常な日常>の思想』(ちくま学芸文庫)、『サルトル「むかつき」ニートという冒険』(みすず書房)、『吉本隆明と柄谷行人』(PHP新書)などがある。

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