ハテナ?のメール箱の回答。

第1回「ツァラトゥストラ」編 西研さん回答!

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Q

Michelle さん(20代・女性・静岡)

自己肯定力が低い、自分でもそう思います。
しかし、根拠のない自信は傲慢であり欺瞞です。努力もしていないのに自己を卑下すれば、卑屈になります。他方で日本では謙遜が美徳とされます。
このような中で、自分は努力してる!最高!と自己肯定することは非常に難しく思うのですが…どこから始めたらよいのでしょう。

A 西研さんからの回答。

Michelle さま

「私は最高!」と自己肯定するにはどうしたらよいか、ということですね。このあなたの質問は、いまの若い人たちのほとんどにとって切実な問題だと思います。おっしゃるように「根拠ない自信」は傲慢ですし、そう長く持ち続けてはいられないものだと思います。何かに打ち込むことなしに、自信をもつことはできないからです。

かつて、人が自信をもつためのもっとも普通の方法は、何かの「役割」をきちんと果たしてそれを他人から承認してもらう、ということでした。たとえば昔の日本のムラでは、長男は家長になり、女は他の家にとついで嫁となることが決まっていました。いまの私たちはこれを自由のない、窮屈なことだと感じますが、しかしこれは、<社会のなかでなんらかの役割を果たしてそれをまわりから認めてもらう仕方と>=<社会的な承認の獲得の仕方>が明確に定まっていた、ということでもあります。
それに対して、現代の社会で育つ若い人たちは、自分がなんらかの役割をきちんと果たしてそれを周囲から認めてもらう、という経験に乏しいですから、自信がもてないのは当然ともいえます。
ですから、社会的な役割でなくても、何かここは逃げずにがんばるぞ、というものを見つけてみてはどうでしょうか。勉強でもアルバイトでも、音楽やスポーツでも、ともかく何かに打ち込んで「いい仕事」をつくりだそうと努力すること。そして、やったことをきちんと評価してくれる(ダメ出しもしてくれる)他人も必要です。そういうなかではじめて、人はだんだんと自信を育てていくことができます。そのうちに「私って、相当イケてるんじゃないか?」とひそかにニンマリすることも起こってくるかもしれません。

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Q

あすか さん(20代・女性・栃木)

番組で紹介された『ツァラトゥストラ』の一節に、「末人はぬくもりがほしいから隣人を愛し、肌をこすりつける。」というものがありましたが、ニーチェ的には恋愛は末人的で、だめなものなのでしょうか?教えてください。

A 西研さんからの回答。

あすか さま

そんなことはありません。ニーチェもルー・ザロメに恋愛をして、ふられて、とても辛い思いをしました。でもそれは、ニーチェにとって「最高の悦び」の思い出でもありました。「たった一度でも魂がふるえることがあったら、あなたは苦しいことどもを引き連れて、この人生をもう一度、といえるだろう」。この永遠回帰の思想も、失恋から生まれたといっていいかもしれないのです。このように、恋愛はニーチェにとっても大切なものでした。
でも、あすかさんが気になっているのは、ひょっとすると「私は孤独にたえられず、ぬくもりがほしいだけで、それで恋愛に逃げようとしているのかな。だとするとそれは弱い、末人的な姿勢なのかな?」と思っておられるのかも。
では、末人とは何か、ということからあらためて確認してみましょう。
ニーチェがよしとするのは、憧れをもち創造的に生きようとする姿勢です。この生き方には苦労も伴うでしょうが、しかし苦労があっても「すごいもの」をめざす生き方をニーチェはいいと考えた。
末人は、反対にひたすら「安楽」を求める生き方のことです。苦労なんかしたくない、ラクがいい。コタツに入ってぬくぬくとしているのがいい。—そういう基本姿勢で生きる人のことです。
「最高価値」(神、人類の進歩、国や社会に貢献する、等々)が信じられなくなり、ニヒリズムが広がってくると、人はがんばらなくなる。ついには、創造性を欠いた安楽だけを求める人間ばかりになってしまうのではないか。ニーチェはこのことを恐れ、そうした安楽だけを求める人間のことを「末人」と呼んだのです。

ですから、「ぬくもりをもとめること」じたいに問題があるわけではありません。仲のいい友達とバカなことをいう、温泉に入る、コタツ、ぼくも大好きです。あなたも安心して恋愛してください。
でも、ぬくもりと安楽だけしかなくて、何かに憧れてそこに向けてがんばろうとすることがまったくないとすると、人生から汲みとる悦びはずいぶん少なくなってしまうだろうと思います。ですから、もしあなたが「何かに向けてがんばること」がいま不足していると感じておられるのならば、何かを見つけてみてはいかかでしょうか。

もっとも、「何に向けてがんばってよいのか、わからない」という人もたくさんいます。ニーチェの予言は恐ろしいほどあたっていると思うのですが、若い人たちはおおむね、冒険を好まず、安全をよしとするところがあります。「そんなにがんばってどうすんの」という気持ちもある。つまり、人生と人間(他者)に対する期待値がかなり下がっているのです。自分の人生がすごいものになるかも、とか、この世の中のどこかにすごい人やおもしろい人がいるんじゃないか、というイメージがない。だから冒険しようともしない。
若い人たちは、いつも他人を気遣って空気を読み、「浮きすぎないように」「相手を傷つけないように」努力して育ってきます。相手に踏み込まないこと、また相手に自分を踏み込ませないようにして、育ってきます。しかし、相手に踏み込まないならば、深い共感も安心も生まれてこない。
たとえば映画をみたとき、互いが何を感じたかを率直に言葉にして出しあう、そんな「互いの感触の交換」=「尋ねあい」ができれば、他人と自分とのあいだのちがいも共通するところも、わかってくるはずです。そして、「何かわからないことがあっても、ちゃんと尋ねてみればいいんだ」と思えるようになってくる。そうなってはじめて、他者に対する安心をもつことができます。他者は、ただ気遣たり恐れたりする相手ではなくなるのです。

日本の戦後は、ますます人が個別化していく歩みでした。「集団の一員として役割を求められる、そんな自由のない世界はいやだ。自分だけの部屋、自分だけの考え、自分だけの趣味、そんな『自分だけ』の世界がほしい」、そうやって進んできました。しかし個別化した場所からどうやって他人とのあいだに橋をかけるか、というと、その作法(やりかた)を私たちはまだまだ身につけていません。でもそれは、そんなに難しいことではありません。
相手の言葉をきちんと受けとめようとすること。わからなかったら、「ねえ、きみのいいたいのはこんなこと?」と尋ねてみること。これだけです。ぼくはこうした関わりかたを「尋ねあい」と読んでいます。尋ねあいには相手への尊重があります。しかし「相互不可侵」の意味での尊重ではない。相手を受けとめ、相手に関わろう(踏み込もう)とする気持ちがそこにあります。尋ねあいは、互いを尊重しつつ関わっていく仕方なのです。

長くなりました。もしあなたが、人生と他者への期待値が下がっているのなら、ぜひ、「尋ねること」をしてみてください。そして他者と自分とのあいだに通いあうものが見えてきたなら、あなたのなかに、自分と他人の人生に積極的にかかわろうとする希望が生まれてくるはずです。ただぬくめあうのではなくて、尋ねあう恋愛をしてみてください。

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