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時を経て開示された記録 ハンセン病の曽祖母に向き合う

  • 2023年12月05日

その写真を見て私は息をのんだ。
胸を両腕で隠した、高齢の女性。
固く口を結び、その目には深い悲しみをたたえているようだった。

時を経て開示された、1人のハンセン病患者の記録からは、目を背けたくなるような差別の歴史があったことを伝えている。
今、その事実と懸命に向き合おうとしている遺族が、松山市にいる。

(NHK松山放送局 清水瑶平)

“私の最期を伝えて”

写真に写っていたのは愛媛県松野町出身の、政石コメさん。昭和15年5月、61歳で岡山県のハンセン病療養所「長島愛生園」に入所した女性だ。

亡くなったのはそのわずか8か月後の昭和16年1月。投身自殺だったと記されている。
これらは、ことし7月、コメさんのひ孫にあたる三好真由美さんに対して初めて開示された記録だった。

コメさんのひ孫 三好真由美さん

「私の最期、こんなにむごいことがあったんだっていうことを伝えてほしい。そう言っているような気がします」

ハンセン病 差別と隔離の歴史

ハンセン病は皮膚や神経が冒される病気で、かつて「らい病」と呼ばれ、伝染病として恐れられた。国は昭和6年に「らい予防法」を制定し、およそ90年間にわたって強制隔離政策を続けてきた。

当時の医師が記した記録

昭和初期、各都道府県は「無らい県運動」と呼ばれる療養所への強制収容を進めていく。
愛媛県での「無らい県運動」の様子を、当時の医師が記録している。

“愛媛県は今では輝かしき無らい県になっているが、昭和6年ごろはまだ200人以上のらい(患者)がいた。”
“高知境の松丸(警察)署よりはその後続々と患者を送り来たり、愛媛無らいの端緒を開いた”

愛媛県は南予地方を中心に積極的に強制隔離を行っていた、いわば「優秀な県」だと見られていたのだ。コメさんもその中で隔離されていった1人だった。

「知らなければよかった」

三好さんは、自分が生まれる20年以上前に亡くなった曽祖母のことをほとんど知らず、ただ「ハンセン病療養所で自殺した」としか聞かされていなかった。

遺族に残されたのは療養所から送られてきた骨つぼと、墓石に刻まれた名前だけだった。
少しでもいいから曽祖母につながる情報を得られないか。
そう考え、10年以上前から療養所に問い合わせを続けてきたという。

三好さん
「たった1行でよかったんです。政石コメがいつ療養所に入所した、その記録だけでよかった。誰も死に目に立ち会っていないなんてかわいそうじゃないですか。私が代わりに立ち会ってあげたくて」

開示された資料

その請求が認められたのがことし7月。
「たった1行」どころか、30枚以上に及ぶ詳細な記録が送られてきた。

その中には初めて見る、曽祖母の写真もあった。

「両手で胸を隠して、口をへの字に結んで、カメラを見据えて。屈辱的な、もうすべて諦めた、絶望したような顔ですよね」

コメさんが解剖を了承したとされる「剖検願」

読み進めていくうち、思いもよらなかった事実もわかった。
死後に遺体を解剖した記録が含まれていたのだ。

コメさん自身が解剖を了承したとされる「剖検願」という文書もあった。
日付は昭和16年1月10日。
コメさんが自殺する、わずか1週間前に書かれたとされる、不自然なものだった。

「おそらく本人の意志ではなく、死んでから作られたものだったのだと思います」

そして、絞り出すような声でこう続けた。

「最初は見なければよかったと思いました。こんなものが送られてこなかったら。知らずにすんでいたら、それでよかったと」

「伝えんといかん」大叔父との約束

一時は目を背けたくなった、曽祖母をめぐる事実。
それでも三好さんは向き合うことを決意する。

コメさんの息子 政石道夫さん

心にあったのが、コメさんの息子である、政石道夫さんの存在だった。彼もまた、母親と同じくハンセン病患者として療養所に入所した1人だった。

道夫さん(左)  三好さん(右)

三好さんにとって大叔父にあたる道夫さんは、三好さんが「もう1人の父親で、親友」と言うほど信頼し、尊敬していた人だった。「政石蒙」という名前で知られる歌人でもあり、多くの短歌や随筆を残している。
その中には、母の無念に思いを寄せた歌もあった。

「らいを病む苦に耐えきれず自殺せし母は母なり我は生きゆかむ」
「わが母を投身自殺に追ひやりし強制隔離の罪裁かるるべし」

三好さんに言い続けていたのが、「伝えていかなくてはならない」という言葉だった。ハンセン病患者として感じた、孤独や絶望。そしてどのような人生を歩んできたか。それを後世に伝えていくことをみずからに課して生きた歌人は、2009年、息を引き取った。

「伝えんといかんのじゃっていつも言ってたんです。もう口癖でした。差別や偏見のこともありますし、どうやって生きてきたか、どうやって暮らしてきたか。本当にむごい資料なんですけど見ていただくことが、大叔父がしたかったことそのままだと思うんです」

曽祖母の生涯に そして絶望に向き合う

曽祖母が何を感じて、どう生きたのか。
そして何が曽祖母を、みずから死を選ぶほどの絶望に追い詰めたのか。
大叔父の遺志をつぐため、それを知らなくてはならないと三好さんは感じていた。

10月、三好さんとともに私たちは松野町を訪れ、コメさんを覚えているという女性を訪ねた。当時、周囲の人がコメさんをどう見ていたかを聞くためだった。

「あそこに木が生えているところが、コメさんの家やった」

案内してくれた場所にはもう家はなく、ただ木が生い茂っているだけだった。
女性は幼いころに見かけたコメさんのことを覚えていたが、ある日突然、消えるようにいなくなったという。そのことを周囲の大人に尋ねても、まともな答えは誰からも返ってこなかった。

「あの人はどうなさったんだろう、って聞いても、『親戚の方に行っとるんやないか』とか言ってみんな逃げとったからね。なんか病気で敬遠されてたんじゃないかな。よけいなことは言うなって」

「でもね、おばちゃん、言うてもらってええんよ。誰にも知られずにかわいそうやったんやから」

11月には、コメさんが入所していた岡山県の長島愛生園も訪れた。

中尾伸治さん            

話を聞いたのは昭和23年に入所した、中尾伸治さん(89)。
コメさんが入所していた時期(昭和15~16年)よりはあとになるが、少しでも当時の療養所の生活を聞くことができれば、という思いだった。

「ハンセン病にかかるとね、周りから疎まれたり家族からも排除されたりした、療養所に入っているのはそういう方々です。ですから、今の時代になってそれを掘り起こすというのかな、家族の消息を訪ねてこられたっていうのはびっくりしました」

それでも、当時の過酷な園内の生活を隠すことなく三好さんに伝えた。

「僕たちが入ったころよりも、コメさんが入られたころはもっと厳しい時代だったと思う。そのころの経験者に聞いた話だと、夕食はごま塩とおかゆだけ、という日もあったし、それも目の玉が映り込むような米のほとんどないおかゆだったと。
ハンセン病療養所というのはね、治療するための場所じゃない。撲滅するための場所だったんだ

コメさんは家族と引き離され、十分な治療も受けられず、少しずつ希望を奪われていったのではないか。三好さんの旅に同行する中で、埋もれてしまった1人の患者の生涯が浮かび上がってきたように感じた。

少しだけ思いをはせるために

取材の終わりに三好さんが立ち寄ったのは、園内にある壊れた桟橋。
この場所でコメさんの遺体が発見されたと資料には記されている。

多くの人が今も口をつぐむハンセン病の歴史。
それでも事実から決して目をそらさず、誰かに伝えていくことが、遺族としての役割だと三好さんは考えている。

「言いたくない人がいらっしゃることも知っています。隠したい方が今現在もいらっしゃることは知っています。でも知らないと伝わらないし、伝えてもらわないと知れないんですよね。ちょっとだけ思いを馳せて、想像するために知るっていう事はとっても大事だと思っています」

強制隔離の実態を知る人は減り続けている。全国に13ある国立ハンセン病療養所の入所者は、ことし5月時点で810人。この10年で半分以下に減り、平均年齢は87.9歳となった。

だからこそ、彼らひとりひとりの生涯を埋もれさせてはいけないと感じる。ハンセン病の歴史を知り、かつて私たちがどのような過ちを犯したのかを見つめなくてはならない。
事実を知ろうとすること、そして思いをはせること。差別や偏見をなくすための一歩は、きっとそこから始まる。

  • 清水瑶平

    清水瑶平

    2008年入局、初任地は熊本。その後社会部で災害報道、スポーツニュースで相撲・格闘技を中心に取材。2021年10月から松山局。学生時代はボクサーでした。

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